明日の約束
「……とりあえず、夕食にしましょう」
なにを言おうか悩む間もなく、クヴァルト様から提案される。
お腹はとてもすいている、だからありがたい申し出だけど……
クヴァルト様は先に立って、何歩か先へ進んでしまっている。
わたしも慌てて追いかけて、いつもの食堂へ入っていった。
着席するとすぐに料理が運ばれてきたけど、……な、なんだかいつもより多い。
「昼食は軽いものだけ、お茶の時間もなかったと聞いて、料理長が腕をふるったそうですよ」
にっこり笑う公爵様の迫力からしても、いりませんと言える雰囲気はなかった。
だからといって、非常識な量というわけでもない。
実際食べはじめてみたら、やっぱりおいしくて、空腹と相まっていつもより多かったけど完食してしまった。
あとでお礼をしなくちゃいけない、しばらくは満腹で動けそうにないけど。
「久しぶりのピアノですし、夢中になるのもわかりますが、昼食と休憩はきちんととってください」
食後の休憩となりお茶が出たところで、クヴァルト様からもっともなことを言われた。
わかってるんだけど、夢中になると忘れちゃうんだよね……時計をつけても、多分見ないだろうし。
だから、曲が終わったところで声をかけてもらうのが一番いい。
かなり甘えた話だけど、正直、自分から気をつけるのは難しいのだ。
楽しくて楽しくて、いくらでも弾いていられるから。
「……わかりました。今日は皆も声をかけていいタイミングがわからなかったようなので、今後は慣れてもらいましょう」
普段音楽に慣れていないと、どこが曲の終わりかはわかりにくい。
特に、何楽章もあるものだとなおさらだ。
まあ、一曲終わったところなら、章の途中でもわたしはそこまで気にしないけど。
「折角体調がよくなったのですから、無理はしないこと、いいですね?」
「はい。心配かけて、すみません」
食堂へくるまでの間、顔なじみになってきたひとたちといつもより多くすれ違った。
きっとみんな、ずっと顔を出さなかったわたしを心配したんだろう。
「とりあえず、明日は私と庭の散策をしてもらいます」
「お休みになったんですね」
「ええ、ようやく」
それはよかった。帰宅時間は遅くないけど、働きづめでちょっと気になっていたから。
王都へきていた間だって、わたしのことで奔走していたわけだから、身体は休めていなかっただろうし。
「とはいえピアノを弾く時間を奪うわけにもいかないので……午前中につきあってもらっていいですか?」
こちらに異論はないので、勿論ですとうなずいた。
あれだけやらかしたから、一日ピアノ禁止とか罰を受けるかと思ったけど。
お説教っぽいものもないし、怒っていたわけじゃないのかな。
「あの……クヴァルト様、怒ってないんですか?」
聞いちゃいけない気もしつつ、結局訊ねてしまった。
クヴァルト様は苦笑いして、怒っていませんよ、と返した。
「無茶をしたことに関してはどうかと思いますが、弾いていた時のあなたの表情を見たら、それ以上は言えませんよ」
……そんなに夢中な顔だったんだろうか。……そうだったんだろうな。
笑いながら同じことを囁かれた覚えがある。
『雪花は本当に、ピアノが好きだね』
過去の恋人の何人かは、それが原因で別れた。
よくある「仕事とわたしとどっちが大事なの?」のピアノ版で揉めたのだ。
正直、それを同じ天秤に載せるのは無理があると思う。
だってピアノは仕事であり、わたしの生きがいなんだから。
恋人も大事だけれど、ピアノだってなくなったら生きていけない。
いつでも弾けるだろう、なんて責められたら、もう駄目だった。
でもクヴァルト様の表情は、休憩もろくにせず弾き続けたことはよく思ってないみたいだけど、それも含めてあきらめてるわけじゃなく、しかたないって考えてるみたいだ。
たしかに休まなかったわたしは悪いから、そこはちゃんと認める。
でも、弾きたくてしょうがなかったピアノを前にして、離れがたかった部分まで否定されたくはない。
クヴァルト様はそこをちゃんとわかってくれていて、すごく嬉しい。
「ありがとうございます、クヴァルト様」
だからすなおにお礼を述べた。
「わたし、多分これからも、ピアノに夢中で他を投げちゃうと思うので、そういう時はびしっと言ってください」
本当にストップがかからないのだ。なにもかも飛んでいるので、自制心に期待もできない。
だけど、それがひととしてどうかと考える理性はまだ存在している。
なのでいい年をして恥ずかしいけれど、止めてもらえるよう頼むしかない。
クヴァルト様は笑いながら、お任せください、と請け負ってくれた。
「ではその一歩として、私の仕事の日は、家庭教師を入れましょう」
元気になったし、放っておいたらピアノにかじりついてしまうから、ということらしい。
家庭教師というとものものしいけど、この世界のことを色々教えるのが先で、貴族の礼儀作法などはできたらいいな、くらいでいいとのこと。
とにかく一般常識を覚えるのが先だという考えらしい。
たしかに、よく考えてみるとわたしは、この世界の通貨もほとんど知らない。
街に行ったとしても、買い物のしかたもわからないのだ。
このままでは、一般人として生活するなんてとても無理な話になる。
今後どういう生活をするかは決まっていなくても、それらを覚えていて損はない。
クヴァルト様が休みの日は、一緒に出かけたりして、それ以外の午前中に授業を入れる。
昼食をちゃんと食べたら、クヴァルト様が帰るまでは自由時間──つまりピアノを弾いてもいい時間。
周囲に建物がないから夜に演奏しても問題はないそうだけど、流石にそれは自粛すべきだろう。
そんな感じでいいですかと聞かれて、お願いしますと答えた。
ちゃんとピアノを弾く時間もつくってくれるのだから、文句があるはずもない。
そりゃあ、勘をもどすまではずっと弾いていたいのが本音だけど、こもりっきりで練習して、指を痛めたらどうしようもない。
先生にこの世界の音楽史も教われるそうだから、勉強も楽しみだ。
「明日の探索、楽しみです」
一緒に三階へ上がって、挨拶の前にそう告げる。
公爵様とのんびり話をするのは、結構楽しくて好きだ。
でも、今まではずっと椅子にすわっての会話ばかりだったし、お互い違うことをしていた。
悪くはないけど、もっと色々な話もしてみたい。
明日なら、同じものを見て感想を言いあえる。
ひとつの花を見ても、思うことは違うかもしれない、同じかもしれない。
どんな花や樹があるのかも知らないから、今からとてもわくわくする。
「練習できないと拗ねられるかと不安でしたが、そう言ってもらえて嬉しいですよ」
「……いくらなんでもそこまでじゃないです、つもりです」
後半疑わしげな目つきをされたので、尻すぼみになってしまった。
クヴァルト様はくすりと笑って、……ちょっと変な間が空いた。
「……もし、朝起きて疲れていたら、伝えてください、無理はしないように」
過保護だなぁ、我が儘してたのはわたしなんだから、絶対起きるように、でもいいのに。
そういう優しいのが、クヴァルト様のいいところだけど。
わたしは楽しみで早起きしちゃうほうだから、寝坊の心配はないだろう。
でもそれを教えると、やっぱり心配させそうだから、すなおにうなずいておく。
「お休みなさい、クヴァルト様」
「ええ、よい眠りを」
部屋の前で別れて、中へ入る。
……そうだ、今日は複写してないや。
なんだかんだ言って白紙の楽譜もくれたし、クヴァルト様は本当に優しい。
女嫌いではないって話だから、変ってわけじゃないけど……
あんまり優しくされると、……困らないけど、困る。
ちょっとだけ抱えたもやもやごと洗い流そうと、わたしは風呂場に直行した。




