練習と練習
……の前に、ちゃんと手を洗わなきゃ。
この別棟は隠れ家云々のせいか、あまり使用人を入れず、自分たちだけでお酒を飲んだりしていたそうで、ちょっとしたキッチンスペースもある。
手をすぐに洗えるのは、すごくいい、油分は大敵だからね。
それから改めて、ぴかぴかのピアノにむきなおった。
大きさは、多分コンサートホールでも使えるクラスのものだ、部屋が広いから圧迫感はないけど、これを日本の一般家庭に置くのはかなり無理があるだろう。
見た感じは慣れたグランドピアノとそう違いはない。屋根を上げて中を見ても、現代のものと遜色なく感じられた。
次は……と蓋を開けて鍵盤を見る。
「鍵盤は……85鍵? ちょっと少ないけど、十分ですね」
「少ない?」
思わず呟いたら、とても食いつかれた。
ちなみに、この業者のひとは、どうやら王都の店長クラスのとても偉いひとらしい。
……王の権力ってハンパじゃないな。
「ええと……わたしのいた世界では、今は88鍵なんです」
ただ、すべてが88鍵というわけじゃない、置き場所の問題でそれより少ない鍵盤のもんも普通に存在する。
85鍵時代のひとがこの形式を伝えたのか、独自でここまで発展したのか。
どちらにしても凄いことだし、これくらいの違いなら、弾くのにほとんど不自由はない。
椅子の高さを調節して、そっと指を下ろす。
──ずっと聞きたかった、澄んだ音が鳴り響いた。
綺麗な音だ、濁りもない。よく伸びるし柔らかさもある。
音がズレていないかの確認は、わたしではちょっと能力が足りないので、一緒にきていた調律師にお任せした。
今後、調律師の技術も覚えていこうとしていたけれど、その前にこちらにきてしまったから。
機会があれば習得したいけど、うーん……
調律はもともとすんでいたので、時間をかけずにメンテも終わり、問題はなさそうとなった。
「わざわざ王都からありがとうございます」
遠くないとはいえ、一日以上かかったのだからそこそこの旅だ。
でも、店長はとんでもないと恐縮してしまう。
ここにも支店があるので、なにかあればすぐそこへ頼んでくれとのことだった。
定期的な調律などは、期間を決めて王都からやってくるという。
うーん、至れりつくせりだ、ありがたく弾かせてもらおう。
彼らはわたしの演奏に興味津々だったけど、ずっと弾いていなかったからとお断りした。
遠路はるばる運んでくれたし申しわけなかったけど……そこは譲れない。
代わりに、次のメンテの時に聞かせることを約束した。
店長が店を空けるのはまずいかなと思ったけど、神子愛用の楽器とか言えば売れるかもしれないし、ちょっとくらいは許してもらおう。
わたしが彼らを見送っている間に、机やらの運びこみがはじまっていた。
とりあえずコンサートなどをする予定はないので、机はひとつで、椅子も数脚のみ。
いずれは邸のみんなを招きたいけど、そこまで納得できる演奏にもどせるのはいつになるだろう。
半年以上弾いていないことなんてはじめてだから、どれくらい弾けるのか、少しも予想できない。
「私たちは近くに控えていなくて、本当に大丈夫ですか?」
フリーデさんに心配されたけど、大丈夫と人払いさせてもらった。
だって、あんまり下手だったら聞かせたくないし。
体調はすっかりいいから平気だと言って、どうにか納得してもらった。
誰もいなくなったところで、そばに置いてあった荷物をあらためる。
中には前に公爵様が言っていたとおり、この世界の楽譜が何冊か入っていた。
どれもピアノ用のもので、……ああ、曲というより音の羅列になっている、本当に最初の教本もある。
流石にここまでじゃなくてもいけると思うけど……といくつか見て、教本にも初心者むけとあるものを選んだ。
見慣れた曲ではなさそうだけど、でも、悪くない譜面だ。
この世界のものを選んだのは、はじめに自分の持っている楽譜を弾いて、下手だったら立ち直れそうにないからだ。
荷物の中にはメトロノームも入っていた、本当に至れり尽くせりだ。
メトロノームは使わないひともいるけど、わたしはそこそこ利用する。
解釈の方法は色々あるけど、譜面に忠実でありたいというのが、個人的な考えだ。
楽譜を譜面台にセットして、メトロノームも用意して、深呼吸をする。
この世界にきてはじめて弾いた一曲目は、はからずも「はじまり」という曲名だった。
……まあ、ありていに言って、やっぱり下手になっていた。
しかたがないけど、ちょっと凹む。
……とにかく練習をしよう、指が思い通りに動くようにしなくちゃ。
それからずっと、わたしはピアノを弾き続けた。
なかなか思うようにはいかないけれど、でも、ピアノをさわれることが本当に嬉しくて。
間違えても何度でも繰り返せば、そのうちつっかからずに弾けるようになる。
ちょっとずつ勘をとりもどしていく実感も、頑張る気持ちをふるいたたせてくれた。
「セッカ様、昼食は……」
「もうちょっと弾いてからにしたいので……手軽に食べられるもの、置いてもらってもいいですか?」
曲の合間に声をかけてきたフリーデさんに我が儘を言う。今はピアノの前から離れたくない。
今動いたら、うまくいきかけてたのが駄目になりそうで、そんなことないだろうけど、でも。
それからも黙々と引き続け、バイエルみたいなその曲の後ろのほうまでを、問題なく弾けるところまで持っていった。
……お腹すいたなぁ。
何度目かの曲を弾きあげて、ふと空腹なことに気づいた。
朝からずっとだから、当たり前か。ついやっちゃうんだよなぁ。
椅子から降りて一度伸びをすると、机の上にサンドイッチが置いてあった。
……誰が置いていったんだろう、全然気がつかなかった。
多分フリーデさんだろう、流石気が利くなぁ、ありがたく食べちゃおう。
椅子に移動してかぶせてあったのを外し、飲物と一緒にいただいていく。
飲物は氷の中に入っているので、全然ぬるくなっていない。
この氷も魔法でつくってあるから、すぐに溶けない優れものだ。
ぺろりと完食したら、きちんと手を洗って、続きだ。
まだもうちょっと練習曲をさらいたい、教本の後ろのほうはなかなか難しい曲があって、どうしても気にいらないできなのだ。
だけど、曲としてはすごく素敵だ、いつ作曲されたものかわからないけど、練習曲らしい指の運びの中にも、ちゃんと曲としての楽しさがある。
このひとの楽譜なら、他にもほしい、難易度の高い曲は、さぞかし弾き甲斐があるだろう。
そのためにも、まずはこの教本を制覇しなくてはいけない。
……ああ、楽しい。
綺麗な旋律を、自分の手で生み出していく、この感動。
わたしの手の動き、足の踏みかたで、音は簡単に変化する。
楽譜のとおりに、最上の響きになるように、采配するのがわたしの仕事。
それがきちんと決まった時の達成感は、弾いたひとにしかわからないかもしれない。
わたしは、それが本当に大好きで……音の中に沈んでいるこの瞬間が、本当に嬉しくて……
教本の最後に存在した曲は、流石の難易度で、一応の及第点というところまで弾くのは大変だった。
やっと満足がいったので、ふーっと長い息をついて手を降ろす。
──と、コンコン! と、ノックと表現するにはかなり大きな音が響いて、飛びあがるくらい驚いた。
なにごとかと後ろをふりむけば、開けっ放しのドアを強く叩いていた人物がひとり。
「……ずいぶんと熱心だったようですね、セッカ嬢?」
そこにいたのは、ものすっごくイイ笑顔のクヴァルト様。
はたと外を見れば、すでに真っ暗になっている。
日光を遮るために最初からカーテンを閉めて、灯りをつけていたので、全然気づかなかった。
ついでに、ここには時計も置いていない。
クヴァルト様が早く帰ってきたわけではなさそうなので、つまり、わたしは朝からずーっと弾いていたわけで。
お帰りなさいの挨拶もすっぽかしたわけで……
「お……お帰りなさい、クヴァルト様」
「ええ、ただ今帰りました、忘れられていなくてよかったですよ」
やばい。
もしかしなくても、怒ってる?




