翌朝(公爵視点)
自分を呼ぶ声がした気がして、徐々に意識が覚醒してくる。
ぼんやりとした視界に入ってくるのは、黒。
「……ルト様」
遠慮がちな響きは、今度はしっかり耳にとどいた。
「ああ……おはようございます」
腕の中に抱きこんだままの状態で、見上げるようなかたちをとりながら、名前を呼んでくれていた愛しい存在に、とりあえず挨拶をする。
昨夜は不安がらせてしまったので、ひたすら甘やかして寝かしつけた。
見たところ、体調は悪くなさそうで安心する。
「おはようございます。もうちょっと寝坊したいところですけど……」
ちらりと見やる時計は、いつもと同じくらいの起床時間。
特に予定のない日はもう少し惰眠を貪ったり、ついつい手を出してしまうのだが、流石に今日はそうもいかない。
一度抱きしめてから軽く口づけて挨拶に代えると、腕をほどいて起きあがった。
セッカは身支度のために自分の部屋にもどっていく。
「医者はちょっと遅くなるらしいぜ」
入れ違いにジャンが入ってきて、ぞんざいな調子で教えてくれた。
今日はフリーデともども休みだから、口調は仕事用のそれではない。
それでも起こしにきてくれたのは、クヴァルトへの優しさというより──
「……もしや隣にいるのはウェンデルではなく」
「……おう」
前々から決まっていた休日だったが、昨日の今日で気がかりだったのだろう。
まあ、元気そうな姿を確認すれば、少しは落ちついてくれるはずだ。
苦笑いするジャンは、ついでだからお前を起こしにきた、とのたまった。
一応心配もしてくれているのだろう、と解釈しておく。
着替えを終えて合流したセッカは、フリーデが休みを返上したことも気にしていたが、それ以上に自分のしでかしたことが大きかったという事実に悩んでいるようだった。
少々心配しすぎたかと考えたが、決していきすぎではないほどの衝撃だったのだ。
ただ、セッカにとっては自覚できないことなだけに、こちらの行動に煽られているように感じられる。
少し気をつけなくては、と痛感したが、なかなか難しそうだ。
「往診は少し遅くなるそうなので、その間は例の曲を練習していて構いませんよ」
朝食の席で告げれば、ぱっと嬉しそうな表情になるも一瞬で、次には不安げに瞳が揺れる。
おそらく、他への影響を懸念しているのだろう。
「人払いしますし、問題ありませんよ」
クヴァルトの予測が正しければ、弾きこなしてくれるほうがありがたいのだが、まだ不確定なので口にはできない。
セッカはしばらく無言だったが、やはり弾きたい気持ちが大きいのだろう、最終的にはありがとうございます、と頭を下げた。
「……でも、なにか起きたら、演奏中でも止めてくださいね」
普段最も嫌うことすら、構わないと言ってくる。
それほど気にさせてしまったかと、少し後悔してしまう。
わかりましたと表面上はうなずいて、ピアノ室へ行く後ろ姿を見送った。
メサルズたちには決して近づかないよう、また信仰心の厚い者がこっそり聞きに行かないよう、互いに注意するよう言い含めた。
残る自分に打てる手は……と考えるが、現状ではあまりない。
一応、王都の神殿は監視してもらっているので、連中に動きがあれば知らせはくるだろう。
枝に入りきらない力が流れていることからしても、早晩押しかけてきそうではある。
勿論彼女を渡す気はないが、一枚岩ではないらしく、断っても次がきて、正直鬱陶しい。
神官長から一言あったはずなのだが、実質的な権限はないと見たほうがよいだろう。
となると彼女に蛮行を働いた、赤と青が覇権争いといったところか。
両者ともども、実権をにぎるためにミコの存在は喉から手が出るほどほしいだろうし、当分厄介は続くだろう。
てっとりばやく燃やしてしまえばいいのに、とつい思ってしまうあたり、やはり信心深くなれそうにはない。
医師がくるまでは暇なので、母屋のほうで待つことにする。
二階へ上がってもいいのだが、下の書斎から本を持ってくることにした。
ウェンデルは離れへの渡り廊下のあたりに控えているから、他の使用人がこっそり聞きに行くのは至難の業だが、念のためだ。
いつもならこういう日は、セッカのピアノが聞こえる場所で読書をするのだが、あの曲では落ちつくどころではない。
ちらちらと離れを見る使用人に、にっこり笑顔で牽制していれば、いつのまにか時間は経過していて。
医者と観察術士の来訪を迎え、セッカの状況を簡単に説明する。
「無理だと思ったら止まってくださいね」
それから二人を連れて離れへむかったのだが、何度も念を押しておいた。
ウェンデルの横を通りすぎ、離れに足を踏み入れると、微かな音が聞こえてくる。
普段のセッカならドアを開けているのだが、配慮して閉めてあるのだろう。
おかげで、もう少し近づいても我慢ができそうだ。
しかし、観察術士にとってはそうもいかないらしく、数歩進んだところで、申し訳ないのですが、と青ざめた顔で声をかけられた。
「こんな……力、とても直視できません……」
今にも倒れそうな術士に、医者のほうが慌てている。
「セッカ様よりきみを診察しないとならなくなりそうだな」
「面目ないです……」
よろめきながら術士は離れの入口あたりまでもどっていった。
「先生はどうです?」
まだ平気そうな顔をしているが、クヴァルトより年齢は上だ。
なにかあってからでは遅いと気にしたが、まだ行けそうだ、とのこと。
けれど術士が心配なのでついていると言われて、頼んでクヴァルトだけが先へ行く。
近づけば、昨日と同じく、ものすごい圧力を持った力が身体にまとわりついてくる。
ぐっと拳をにぎりしめ、深呼吸して平静を保つことに注力した。
しばらく待って曲が終わったところで、大きめのノックをして扉を開ける。
「医師がきたので、いったん止めてもらってもいいですか?」
中へ入れば、力の余韻が入りこんでくる。
普段であれば無色の魔力なので、なんとも思わないのだが、今は違う。
いつものようなするりと抵抗なくとはいかず、自己主張も激しく信仰心をちらつかされているよう。
「じゃあ、普通の曲を弾きますね」
あらかじめ用意しておいたのだろう、セッカは迷いなく別の曲を弾いていく。
続いて流れてきた曲は、ずいぶんと小気味いい曲で、かなり速度もある。
両手とも休む間もなく動き続けているが、さっきのような圧迫感はない。
悲しい調べではないが、どことなく刹那的な感じを受ける、変わった曲だった。
おかげで、中に入りこんでいた忌まわしい力も、転がり落ちていったらしく、気づけばすっきりしていた。
セッカの手をとり母屋へもどると、演奏を聞いたのだろう、復調した術士と医師がいた。
診察の間は席を外し、その間に茶の用意をしてもらう。
ハーブティーが選ばれたのは、さもありなんというところか。
どのような結果が出ても、演奏しないほうがいいと言われても、それは最後の選択肢にしたかった。
セッカが嫌がっていないどころか、どうにか弾いてやろうと意気込んでいるのだ、止めない理由は、少なくともクヴァルトにはそれで十分すぎる。
その場合セッカの説得が必要になるだろうが、彼女はなかなか頑固なところがある。
さてどうなるやらと、少しだけ視力の悪い片目をすがめて、三人が出てくるのを待つことにした。
wowaka「ローリンガール」
「わたしは転がる代わりに今日も弾く」
ちょっと短いのですが、次からはセッカ視点にもどります。
多分最後までそのまま……のはず?