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傷を抱えたわたしと  作者: 宇梶あきら
番外編-2-
110/124

彼女は「愛で子」(1)(公爵視点)

 不愉快さを少々感じる夏の暑さに、クヴァルトは少しだけ眉をひそめた。

 仕事中はそんな様子を見せないけれど、ここはもう自宅の敷地内、誰にかまうこともない。

 目と鼻の先には自宅の扉、開けば愛しい恋人が自分を出迎えてくれる。

 それを思えば、昼間の仕事での苛立ちも、この蒸した陽気も我慢ができるというものだ。

 しかし、やたらと重さのある扉が開いても、そこにいるはずの存在は影も形もなかった。

 代わりに、どうしたものかと思案げな表情を隠しもしない執事頭が。

 屋敷で働く者をとりまとめる存在である彼が、ここまであからさまな感情を示すのは珍しい。

「セッカになにかあったんですか?」

 勢いこんで訊ねると、すぐさま「ご病気などではありません」との言葉が返る。

 それを聞いて、せわしなくなっていた鼓動が少し落ちついた。

 とりあえず緊急事態ではなさそうだが、それにしては屋敷の様子がおかしい。

「セッカ様は、まだピアノ室にいらっしゃいます。……その、昼に楽譜がとどきまして」

 メサルズの言葉に、なるほど、と納得した。

 王都にある楽器店の店主はあらゆる伝手を使い、ピアノの新譜が出ると恐ろしい速さでとどけにくる。

 他国で発行されたものなど、普通はかなりの日数がかかるのだが、事前に予約をしているらしい。

 運送するのも大変なはずだが、王都の楽器店の支配人は、春の旅行の際に彼女の演奏を聞き、すっかり虜になってしまった。

 そのため、骨身を惜しまず──若干職権乱用の気もするが──可及的速やかに新譜を送ることを目指しているらしい。

 勿論楽譜の代金は支払っているのだが、運搬にかかる費用を負担しようという申し出は、きっちり断れた。

 すぐに手に入るようにしてはいるが、運送はあくまで楽器店の流通を使用しているので、受けとれない──と。

 誠実な対応は好感が持てるし、彼はあくまでセッカの演奏に惚れこんでいるだけだとわかっているのだが、少々面白くないのは事実だ。

 ──ともあれそういう顛末を経て、セッカのもとにはピアノ譜が集まるようになった。

 おそらく、近隣諸国で一番ピアノ譜が充実していることだろう。

 ほとんどを同じ店から購入しているから、むこうも記録にない楽譜を見つけると、即座に手配してくれる。

 基本的にセッカはピアノ譜であれば、譜面の難易度は問わない。

 この世界の音楽を知る勉強になるというのがその理由だ。

 楽譜の代金はさして高額ではないし、数も最近は集め尽くして多くない。

 だから、クヴァルトもいちいち確認せず、基本すべて買いつけることにしている。

 そうして新譜がとどき、それがなかなか弾き甲斐のある曲となると、セッカの中で納得がいくまでピアノから離れようとしない。

 結果、出迎えの時間も忘れて没頭していることもしばしばある。

 無理をしないか心配はすれども、楽しそうなので止められないのが常のことだ。

 勿論あとで拗ねたふりをして、存分に構い倒させてもらうのだが。

 ……しかし、そのわりには執事頭の表情が解せない。

 そういう時はかれらも、困りながらも見守るので、もっと柔らかな表情をしているものだ。

 けれど今の表情は、とても穏やかなものではない。

「説明するより見てもらったほうがよろしいかと」

 言葉を濁す彼も珍しく、ジャンと顔を見合わせる。

 とはいえ、言われたことはもっともだ、メサルズとともに、三人で離れのほうへと足を進める。

 ……すると、その途中で異様な光景を見た。

 何人かの給仕係が廊下の端にうずくまり、号泣しているのだ。

 それを同僚がなんとかいなして、仕事にもどらせようと苦心しているが、効果は薄いようだ。

 執事頭も少しきつい調子で声をかけるが、反応は芳しくない。

「……なんだこの修羅場は」

 思わずジャンがこぼしたが、内心まったく同意だった。

 一体なにごとかと近づくにつれ──クヴァルトの身体を不可思議な感覚が襲う。

 ざわざわとした、じっとしていられなくなるようなそれに、は、とこぼした息は少し上がっていた。

 それと同時に漏れ聞こえてくる、美しいピアノの音。

 とまどいながらも進んで行くと、離れへ続く廊下には、所在なさげに立つウェンデルの姿があった。

 いつもならば続きの部屋に控えているのに、こんなところにいるのはやはりおかしい。

 ウェンデルは二人の姿を認めると、これ幸いと近づいてきた。

「お帰りなさいませ。……職務怠慢と言われてもしかたないんですが、これ以上近づきたくないんです」

 普段はのほほんとした顔を崩さない彼女だが、今は苦々しげな表情を隠しもしない。

 しかも「近づきたくない」とまで表現した。

 だが、ここまでくればクヴァルトにも、理由が大分わかってきていたから、咎める気にはならなかった。

 むしろ、よく今まで我慢していられるものだと感心する。

「……悪ィ、俺はこれ以上無理だ」

 ジャンはウェンデルよりもう数歩頑張ったが、そこで挫折したらしい。

「構いませんよ、もどって休んでください」

「おう……すまん……」

 よほどのことがなければ動じない彼が、口もとを抑えて降参し、よろよろと母屋に帰っていく。

 クヴァルトは彼を見送ると、慎重に歩きはじめた。

 でなければまっすぐ歩ける自信がないからだ。

 ──聞こえてくるピアノ曲には、聞き覚えがある。

 職務上顔を出さずにいられない、神殿で演奏されているものだ。

 はるか昔から継がれているその曲は、知らぬ者がいないほどの知名度を誇る。

 だが、本来はオーケストラ用のもので、ピアノで聞いたことは一度もない。

 平静を保って進んではいるが、これがセッカに関わることでなければ、とっくに聞こえない場所まで避難していただろう。

 ピアノの音とともにあふれんばかりに方々に放たれているのは、恐ろしいほどの力。

 途中途中で不自然に音が途切れることからして、かなりの難曲らしい。

 荒削りのそれはむきだしの拳をぶつけられているようで、かなり重苦しい。

 彼女の精神状態が荒い時とはまた違うそれは、認めたくないが、神聖な気配が多量に含まれている。

 高位の神官がいる場所で、皆で祈った時に感じられる、普通の魔力とは違う神力と呼ばれるもの。

 それが、暴風雨のごとくに、音と一緒に荒れ狂っているのだ。

 思い返せば号泣していた者たちは、屋敷の中でも信仰心に厚いほうだった。

 おそらく、これに当てられて感無量なのだろう。

 逆に、信仰心とは無縁のジャンやウェンデルにとっては、逆に不愉快なものでしかない。

 そして──己にとっても。

 身体中に響く音は、常であれば心地よいものだが、今のこれは断じて違う。

 寒気がするほど嫌いなはずなのに──強引なまでの力が、服従を迫ってくる。

 うっかりすれば、信仰に目覚めてしまいそうなほどの勢いを持っていた。

 どうにか足を進めて室内を覗けば、一心不乱に曲を弾き続けるセッカがいた。

 その表情はいつもの楽しげなものではなく、まるで敵と相対した時のような険しさを持っていた。

 厳しい眼差しは譜面を追い、途中で手を止めてはペンでなにかを書きこんでいく。

 そして──クヴァルトが覚えているかぎりでは、はじめて片手ずつ練習していた。

 何度か片手で弾き、何小節かずつ両手でさらい、書きこみを増やす。

 あらかたすむと、再び最初から弾きはじめるのだが、途中で何度も引っかかり、その都度珍しく小さな舌打ちまでする。

 それでもあきらめる顔ではなく、悔しさの中にも愉悦を滲ませており、それは狂気すら感じるほどだった。

 区切りが悪いのですが、明後日に投稿するのでご容赦ください。

 もう一話公爵視点が続きます。

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