救出された日(1)
──重たい瞼をどうにかして開くと、目に入ったのは女性の顔だった。
……女性、なんて、ひさしぶりに見た。
年齢はたぶん四十代くらいだろうか? 穏やかそうなひとに感じられる。
「ああ! 目が覚めましたか、よかった……!」
そのひとは心からほっとした顔をしている、みたい。
まだぼんやりしていて、いまいちよくわからないけれど、声の調子からすると、おそらく。
ゆるゆると首を左右に動かすが、部屋の端が見えない。
ずいぶん大きい部屋らしい、だけど、さっきまでわたしがいた、ここ数ヶ月過ごしている部屋ではない。
「ここ、は……?」
わけがわからなくて、ぼんやり呟くと、女性はほんのり暖かいタオルを額に当ててくれた。
そのまま顔をそっと拭きながら、説明してくれた。
「ここは安全な場所、王宮の客室になります。そして私はベルフ公爵に仕えるフリーデと申します」
……そう言われても、貴族のことは全然知らない。
公爵、だから、身分は相当偉いことだけはわかる。
少なくとももとの世界で平民だった私よりは、偉いだろう。
──それより、安全な場所、という断言。
その言葉が本当なら、これほど嬉しいことはない、けれど……信じられない。
だってさっきまで、わたしは地獄と呼んでもいい場所にいたのだから。
そこから逃げることなんてできないと……思っていた。
フリーデさんはサイドテーブルにある呼び鈴をちりんちりん鳴らした。すると、遠くのほうで声がする。
「セッカ様がお目覚めですと、お伝えしてください」
彼女はおそらく廊下にむかってそう言うと、すぐまたわたしに視線をもどしてきた。
これだけ時間が経っても、神官たちがひとりもこない。そもそも、神殿に女性は入れないはず。
もしかして、ほんとうにわたしは、安全な場所に移動したんだろうか……?
声を出そうとしたけれど、盛大にむせてしまった、喉がカラカラだ。
大分はっきりしてきた視界の先で、女性が気遣わしげな表情で、そばの水差しから水を汲んでくれた。
「水を飲んだほうがいいですね、ずっと眠っていましたから」
「……どれくらい、です、か?」
「お助けしてから、半日といったところでしょうか」
部屋が暗いことからして、今は夜のようだけれど、そもそも、いつあそこから出たか覚えていない。
そもそも、最近はいつが昼で夜かなんて、全然わからなかったし……
彼女はゆっくりわたしの身体を起こして、背中にクッションを当ててくれた。
よくドラマなどで病気のひとにしていた行動だけど、まさか自分が受けるとは思わなかった。
グラスを受けとろうとしたけれど、うまく力が入らなくて、支えてもらいながらゆっくり水を飲む。
氷の魔法で冷やしてある上に、味がついていて、とてもおいしく感じられた。
あっというまに一杯飲み干して、二杯目も飲んでやっと一息つく。
その合間に、フリーデさんが髪の毛を整えてくれた。
一度も染めたことのない黒髪は、この世界にきてから切っていないので、肩をこすくらいに伸びている。
前髪だけは……あんなことが起きる前に切ったけれど、大分前だからちょっと目にかかって鬱陶しい。
彼女はそのへんもぬかりなく、櫛で自然に横へよせて、小さなラインストーンみたいなものがついたヘアピンで留めてくれた。
久しぶりの女性らしいそういうことが、無性に嬉しくて、わたしはうっかり涙ぐんでしまう。
「セッカ様? 痛かったですか?」
ピンが当たったかと心配するフリーデさんに、ちがう、と急いで首をふる。
「こういうの、ひさしぶり、で……」
涙をおさえながらそれだけ呟くと、大体察してくれたらしく、そっと手をにぎってくれた。
暖かくて柔らかい感触に、また泣きそうになる。
「おつらかったでしょう……もう、大丈夫です。今しばらくは私がおそばについていますから」
「あ、ありがとう、ございます」
心強い言葉にほっとする。まだ知り合ったばかりだけれど、側にいてくれるのは嬉しかった。
今一人になったら、不安でどうにかなってしまいそうだ。
どうにか涙をひっこめて、ぎこちなく彼女に笑いかけると、フリーデさんも笑顔を浮かべてくれる。
──その時、部屋のドアがノックされた。
フリーデさんは私の肩にストールをぐるりと巻きつけてから、
「公爵がいらっしゃいました、……男性なのですが、大丈夫でしょうか?」
そっと、腫れ物をさわるような調子で問いかけてきた。
ああ、やっぱりこのひとは事情を知っているのか……まあ、さっきまでの様子から、そうだろうとは思ったけど。
どうしても少々居心地が悪くなる。できれば、この優しいひとには、知られたくなかった。
……とりあえず、落ちこむのはあとでいい、今は、その、公爵の入室の件だ。
「大丈夫です、と、完璧に断言はできませんけど……入ってもらってください」
フリーデさんが公爵に仕えているということは、わたしの救助の諸々を指示したのが公爵なのだろう。
となれば、彼は命の恩人ということになる。
だのに挨拶も礼もしないというのは、いくらなんでも失礼だ。
神官以外の男性に会うのは久しぶりなので、自分でもどういう気持ちになるのかわからない。
正直にそう告げると、彼女はわかりました、とうなずいてから、どうぞと外へ声をかけた。
「──失礼します」
ドアのむこうから、丁寧な、低い声が響いた。次いで、扉を開ける音。
姿を現したのは、三十代すぎと思われる男性だった。
それなりの背丈と体格に、落ちついた色味の服装をしている。
細いわけではないけれど、筋肉がついている、というわけでもない。言ってしまえば普通体型だろうか。
こちらの世界でも珍しそうな、光る髪の毛は……多分灰色でも白髪でもなく、銀髪なんだろう。
瞳の色は深い群青色をしていて、理知的な顔つきによく合っていた。
「セッカ嬢、はじめまして、クヴァルト・ベルフです」
「はじめまして、公爵様」
ぺこりと頭を下げると、公爵様は少しだけ微笑んでみせた。
それからフリーデさんが用意した椅子に腰かける。
その椅子は、私が寝ているベッドの横だけれど、手を伸ばしてもとどかない程度に離されていた。
病人を見舞うには不適切な距離だけれど、彼女が事情を知っているなら、主である公爵様が知らないはずがない。その上での配慮なのだろう。
「まだ体調も優れないでしょうから、長居をしたくはないのですが……事情を説明しなくては、あなたも不安でしょう」
眉を下げる公爵様の表情からして、本気でそう思ってくれているらしい。
「……あの、わたしは、病気なんですか?」
身体がだるいのは熱やらのせいだろうけれど、原因はなんなんだろう。
問いかけると、公爵様は今度は眉をきつく寄せて、一つ息をついた。
「観察術の結果、栄養失調と、体力の低下、それと、魔力の枯渇だそうです。ですから、静養していれば元気になるでしょう」
……それはなんというか、色々だめなやつのオンパレードだ。
道理で動けないほどしんどいはずだ。
病気ではないだけ、治るからマシなんだろうけれど。
ちなみに魔力、というのは、現代日本にいたわたしにはまったく実感がないのだけれど、これも減ると疲れたりするらしい。
回復する速度はひとによって違うけれど、ゼロに近づくほど回復が遅くなるのだという。
「なら、こうして聞いているだけなら、大丈夫です」
幸い頭ははっきりしてきたから、よほど難しい話でなければ理解できるだろう。
熱は、この感じからして38度もいっていない、微熱程度だ。
これくらいなら、そう普段と変わりなく考えられる。
わたしがはっきりそう告げると、公爵様はわかりました、とうなずいた。
「まず……あなたの救助が遅くなったことを、王に代わって謝罪させてください。召喚されてすぐ神殿預かりになったため、国王はあなたの様子を知ることができなかったのです、情けない話ですが」
……そもそも今私がいるこの世界は、もといた日本ではなく、外国でもない、──異世界だ。