初めてのデート
うーん……。なんでこうなったのか?
俺は、顔中に深いシワをきざんだ老婆と一緒に山を登っていた。
山といっても獣道などではなくそれなりに整備された歩きやすい道で、道をそれない限りは魔物に遭遇することもないそうだ。
それでも老婆と一緒に山を登っても特段楽しくないこともなく、でもなんか妙な迫力があって逆らえないんだよな……。
俺は、今朝一番にダニエラ婆さんの家に連れられた。
扉をノックすると、可愛らしい赤ん坊を抱いた豊満な女性が迎えてくれた。
この家の主であるヒュースさんの奥さんマリアーニさんと、産まれて2週間ほどのアリアンナだ。
マリアーニさんは俺の顔を見た途端、目尻を下げ優しく微笑んだ。
「話を聞いたときは本当にびっくりしたよ。でも、うん……、元気そうで良かった。よく生きててくれたよグラム」
フラックとヒュースさんは昔同じ傭兵団に在籍していたらしく、今では家族ぐるみの付きあいをしている。
マリアーニさんは、グラムが産まれた頃からよく面倒を見てくれていて、自分の息子のように思ってくれているらしい。
「心配をかけてすみませんでした」
俺がそう返すとマリアーニさんは眼を丸くした。
うん、またやってしまったな。
「あらあら、頭を打ったってのは本当だったみたいだね」
マリアーニさんが朗らかに笑うと、アリアンナもつられてきゃっきゃと笑った。
あの時のアリアンナの無邪気な笑顔、可愛かったな……。
それがなんでしわくちゃな婆さんと山を登っているかと言うと、事故後の俺の体の経過を見てもらった結果、リハビリ要と診断されたからである。
と言うか、この婆さんほんとに大丈夫なんだろうか?
診断中に肩をつかみ眼を覗きこまれ、それがあまりにも長いもんだから
「ダニエラさん、やはりグラムはまだどこか悪いのですか?」
と、エレオノーラが不安そうに婆さんに尋ねたら
「ん? なんじゃったかの?」
と、すっとぼけたことを言っていたしな。
だいたい俺の体がもうどうってことないことくらい自分が一番よくわかっている。
なのにリハビリが必要だと言うあたり、この世界の医療技術はあまり発達していないのかもしれないな。
まさか猛毒の水銀を飲んでコレラを治療しようとしていた19世紀のイギリスの様な、混乱極めた治療を施されるんじゃないだろうな……。
「さてと、だいぶ登ってきたのぉ」
言われて振り返ってみると、町の民家が豆粒のように見えた。
「あの、一体どこまで行くんですか?」
「この先に湖があるんじゃがな、そこに生えているセレニアの花がいい薬になるんじゃ」
「なるほど、それが僕の体に効くわけですね」
良かった。何だかんだでちゃんと考えがあったみたいだ。
だてに長く生きているわけじゃないか。
「いんや、ただの腰痛に効く花じゃ。知り合いに頼まれていてのぉ」
腰痛かよ!
「まあただ、お前さんにとってもいい薬になるかも知れんがのぉ」
腰なんて痛くないと言い返そうとしたけど、意味深な笑みをされたので思わず言葉を飲みこんだ。
フラックとエレオノーラがあれだけ信用しているんだし、今は信じるしかないか。
色々と疑問はあるがとりあえず深く考えないようにして、俺は昨日の続き――魂力の流れをごく自然に感じられるよう特訓――をしながら歩くことにした。
そしてそうこうしている内に、件の湖に到着した。
大きな木々に囲まれたその湖は、差しこむ木漏れ日に湖面を照らされ神秘的な空気を漂わせている。
前の世界でなら、パワースポットだなんてさぞかしSNSで取り沙汰されたものだろう。
「ほれ、あれじゃ」
持っていた杖で湖面を指すダニエラ婆さん。
その先を見てみると、蓮のような大きな葉がいくつも浮かんでいた。
真ん中に白い花弁と黄色い花芯のついた、水仙によく似た花が咲いている。
恐らくあれがセレニアの花だろう。
「今からお前さんに、あのセレニアの花を摘んできてもらう」
予想通りセレニアの花であったけど、帰ってきた言葉は予想外だった。
えっと、なんで俺が? 俺要リハビリなんだよね?
そう思いながらも、取りあえず辺りを見まわしてみる。
湖自体はかなり大きいけど、セレニアの葉はわりと湖岸から近い位置に群集している。
とは言え一番近いもので1メートルくらいは離れているため、手を伸ばしてどうこうできるものでもなさそうだ。
葉の大きさは蓮の葉を二回りくらい大きくしたほど。
水は透明度が高く、湖岸から近い所であれば底がはっきりと視認できる。
深さはギリギリ顔が出るくらいか。
俺は落ちていた木の枝で、一番近い葉を手繰りよせようとしてみた。
頑張って手を伸ばしてみるが上手くいかない。
となると、取るためには湖に入らないといけないわけだ。
まったく何で俺がこんなことを。
でもさっきからまた妙な迫力を見せているんだよな……。まあ仕方ないか。
俺は覚悟を決め着ているものを脱ぎ捨てた。
そして片足を湖に浸けようとしたその時……
「そうそう、いい忘れておった。この湖には狂暴な魔物がおるでの、中に入ることはおすすめせんぞ」
ダニエラ婆さんはニヤリと笑みを浮かべそう言った。
――いやいや待て待て。常識的に考えておかしいだろ!
俺はまだ3歳だぞ。
よその子のしかもぷにぷに可愛い3歳児を、狂暴な魔物のいる湖に入らせるなんて常軌を逸しているにも程がある。
そもそも体力のない3歳児を、無理やり山に登らせること自体がおかしい。
って……。俺なんでこんな所まで登れたんだ?
まあ今はそれはいいとしても、普通こんなところまで3歳児を連れまわすはずないよな。
もしかしてこの婆さん俺のこと何か変に思っているのか?
「ま、魔物なんて嘘だよねお婆ちゃん?」
わざと子供っぽい口調でおどけてみせる。
しかし、ダニエラ婆さんは無表情で返事もしない。
それどころか、少しの違和も見逃さないと言わんばかりに、鋭く睨みつけているようにも見える。
少しわざとらしすぎたか?
それともやはり怪しまれているのか……?
「ふぉっふぉっふぉ、なんて顔をしておる」
どうするべきか考えていると、ダニエラ婆さんが不意に笑いだした。
一体どういうつもりだ?
目まぐるしく変わる状況に呆然とすることしかできない。
「まあええ、少し見ておれ」
するとダニエラ婆さんは、杖を持ったままよいしょと準備運動を始めた。
なんとも可愛らしい姿である。
やはり俺の考えすぎだったみたいだな。
いや実際そうだろう。
確かに怪しいところもあっただろうけど、誰がどう見てもただの可愛い3歳児。
別人の魂が入っているなんて思いいたるはずがない。
落ち着け。ダニエラ婆さんの思惑はわからないけど、焦ってもボロを出すだけだ。
「さてと……」
その声でダニエラ婆さんに意識を戻した俺は、目の前の光景に目を奪われた。
かすかな音も聞こえなかった。
そもそもいつ跳んだのかすらわからない。
が、ダニエラ婆さんはふわりと宙を舞っている。
そして、蝶が花びらにとまるかのように静かにセレニアの葉におり立ち、流れるような動きでそのまま花を摘み、先ほどと同じようにふわりと宙を舞い戻ってきた。
水面は、何事もなかったかのように波紋すら起きていない。
確かに少し厚めの葉ではあるけど、そんなこと有りえるだろうか?
それに湖岸に近づきもしないで跳んだため、その距離はおおよそ5メートルほどもある。
そんな距離を助走もつけず、腰の曲がった老婆がひょいと跳んだのだ。
「なんじゃなんじゃ、熱い視線で見つめてきおって」
ダニエラ婆さんは頬を赤らめ腰をくねらせている。
少しイラっとしたのは仕方ないことだろう。
「お、お婆さんって、おいくつでしたっけ?」
「レディに歳を聞くもんじゃないわい」
レディは語尾に『わい』なんてつけないと言いたい。
いやそんなことよりも、色々と言いたいことがあるぞ。
「さて、次はお前さんの番じゃ」
言いたいことがあるけども、ダニエラ婆さんはどうしても俺にセレニアの花を採ってこさせたいらしい。
と言うか、本当にやらないとダメなのか?
もう一個とったじゃないか。
「えっと……、そもそも何で僕が?」
「それはお前さんのためじゃ」
またこれか。でも、俺のためって言ってもこれは腰痛の薬なんだよな。
となると、これが今朝言っていたリハビリってことか?
ってあんな忍者みたいなマネできるか!
無茶ぶりもいいとこだ。
となると、気になるのはあの言葉だよな。
(お前さんにとってもいい薬になるかも知れんがのぉ……)
なるほどわかった。お説教だ。
いつもやんちゃばかりなイタズラ坊主に、心配ばかりかけるんじゃないと身をもって知らしめたいんだろう。
そう考えると今までの違和感もすっきりするぞ。
だって、リハビリが必要と診断した者を、こんなところまで連れてくることがまずおかしい。
そもそもリハビリなんて必要ないくらい健康体だしな。
それに、知人のしかも領主の子供を、魔物のいる湖に入らせることもおかしい。
恐らく魔物がいると言うのもハッタリだろう。
日本の幼児教育でよくある、イタズラばかりしていると怖いお化けがさらいにくるぞってなもんであろう。
仕方ない、少し付きあってやるか。
「分かりました。じゃあいきます……」
と言っても、思惑通りになるのもしゃくだしできれば濡れたくないもので、俺はしっかりと助走をつけ一番近くにあるセレニアの葉を目がけジャンプした。
――ッ!
その途端、踏み切った足首に鈍い痛みが走る。
ろくに準備運動をしていなかったからか。
なんて考えている場合じゃない。セレニアの葉っぱはもうすぐそこだ。
このままのいき勢いだと間違いなく水中にドボンだ……。
俺は少しでも衝撃を逃がさんと、膝を曲げクッションをきかせながらの着地を試みる。
しかし、着地と共にセレニアの葉は大きくたわみ、俺の体はそのまま水中へと沈んでいった。
できれば成功させたいと考えていたもので少し悔しい。
悔しいけど、こうなったらだダニエラ婆さんのお説教に付きあうしかないか。
そうだな。3歳児のグラムは狂暴な魔物がいると信じきっている。
そんな湖に身を沈めてしまっては、きっと慌てふためき這う這うの体で岸を目指すことだろう。
よし、そんな感じで行こう。
そう考え、俺は泣き出しそうな表情を作り湖面から勢い良く顔を出した。
――ザバアアァァアアアン!
俺が湖面に出た音ではない。
巨大な何かが飛び出した水音。
それが俺のすぐ後ろから……。
「……えっ?」
一瞬で血の気がひいて行く。心臓が早鐘のように打ち頭が真っ白になる。
何がいるんだ……?
フシュルルルルウウウゥウウ……。
不気味な音と生暖かい吐息が首筋にかかり、俺はたまらず振り返った。
そこにいたのは鰻の化物。
鎌首をもたげるその姿は2階建て家屋ほどもある巨大さ。
吊り上がった8つの目で睨みつけるその表情は、ニヤリと笑んでいるようだ。
大きく開けられた口からは、体液なのか涎なのかわからない粘着性の液体を滴らせ、サメの様に幾層も敷きつめられた凶悪な牙を覗かせている。
こ、こんなもので噛みつかれたら……。
に、逃げないと!
しかし、恐怖で身がすくみガチガチと歯を鳴らすことしかできない。
そんな俺を見て化物は涎のような粘液を撒き散らし、大きく体をのけ反らせた。
それが何を意味するのか理解し、俺は耳をつんざくような悲鳴を上げた。
いつものようにゆっくりと見える……。
勢いをつけ俺を捕食しようと凶悪な牙を見せ迫ってくる。
俺の第2の人生はこの凶悪な牙に引き裂かれあっけなく幕を閉じるのだ。
俺の全てが恐怖に塗りつぶされそうになったその時――
『風刃』
化物の頭は音もなく宙を舞った。