ナジャモジャの木の丘で
その後、エルネは家族を騙していたとか子供を誘拐しようとしたとか、訳のわからない言いがかりで入監されそうになったという。
スキを見て着の身着のまま逃げだしたらしいけど、捕まっていたら誰もエルネの言うことなど信じてくれなかっただろう。
この世界ではしばしばエルフは迫害されているらしく、エルネが住んでいた地域は特に顕著だったというから間違いない。
しかしエルネにそんな過去があったなんて……。
知らなかったとはいえ、何てことをしてしまったんだ俺は。
きっと、父さんが話したことはエルネにとってほんの一部のことだ。
でも、それでもじゅうぶんに伝わってきた。
エルネが今までどんな思いで毎日を過ごしてきたのかを。
そして気になるのはエルネが『ハーフエルフ』ということだ。
以前の世界の知識ではあるけど、ハーフエルフはたいていの物語で人間からもエルフからも忌み嫌われている。
だからこの世界でもそうだろうなんて思ったわけじゃない。
でも、まだ20歳のエルネが悲惨な目に遭いながらも、今もなおたったひとりでこんなところまでやってきたのは、つまりそういうことなんじゃないのだろうか。
ひとり……。
エルネはいつからひとりなんだろう。
ふいに過去の苦い記憶がよみがえる。
全てを失ってしまったと、生きることに絶望していたあの時の記憶が。
「父さん母さん俺行ってくるよ! 行ってエルネに謝ってこなきゃ」
「行ってくるってお前、どこにいるのかわかっているのか!?」
「わからない。でもじっとしていられないんだ」
俺には妹がいてくれた。
だから立ち直ることができた。
でもエルネは今ひとり。
じっとなんかしていられるか!
俺は夢中で駆けだした。
エルネに何かできるかなんてわからないけど、ただただ必死に。
一方そのころ……。
エルネは空をながめていた。
この辺りで有名な、ナジャモジャというクスノキに似た大木を背にして。
「ふぅ、思わず飛びだしてきちゃったけどそろそろ帰らないとな……」
「がふぅ」
エルネの手には辞典のように分厚い革張りの本が広げられており、また側には真っ白な大狼が寄り添うように横たわっていた。
その大狼が、エルネに撫でられ気持ち良さそうな声をあげている。
「お前はいいよね。どこでも生きていけて」
エルネは狼を撫でながら、少し寂しそうな目で笑んだ。
「がふ?」
「大丈夫だよ。いつものことだから。いつもそうしてきた……!」
ふいに目の前に広がった光景にエルネは思わず言葉を飲み込み、ただ惹かれるように大木を見上げた。
このナジャモジャの大木がこの辺りで有名な理由は2つある。
1つ目は、今目の前で起きている神秘的な光景。
ここのナジャモジャは、年に一度だけ青白く淡い光を発し輝く夜がある。
まるで満月の光を取り込み喜んでいるかのようなその神秘的な光景は、もし日本の地にあったとしたなら、多くのものの目を心を奪う有名なパワースポットにでもなり大いに賑わっていただろう。
しかし今この場には、エルネ以外の人間はただひとりも見当たらなかった。
それが、このナジャモジャの大木がこの辺りで有名である、2つ目の理由だ。
この神秘的な光は、ナジャモジャの木が1年の間に大地から吸いあげ蓄えた魂力を使い、種を残さんとしている結実の瞬間。
その実は魂力がぎっしり詰まっており栄養価が高くとても甘美な味わいで、お金をもつものの間で人気の希少食材とされている。
にも関わらず誰も採取に来ていないのは……。
その希少な実は人間以外のものも引き寄せるからである。
「ガウッ!」
気持ち良さそうに横たわっていた大狼が耳をピクリと動かしたかと思うと、スッと立ち上がり警戒の声をあげた。
「わかってる」
同じく何かが迫る気配を感じたエルネも、広げられていた革張りの本をそのまま手にし素早く立ち上がった。
「1、2、3、4、5……。ろ、6体も! ダメ、ヘルマ逃げるよ――ッ!」
迫りくる驚異とまだ距離があるうちにと背を向けたエルネであったが、振り向いた先2、3メートルの距離に赤く瞳を光らせる魔物が3体待ち構えていた。
「シフティエイプ!」
狡猾な猿という意からつけられたその魔物の手には、おおかた冒険者をだまし討ちして奪ったのであろう剣や槍などが握られている。
柄についた黒いシミや刃こぼれしたその姿が、それを使い多くの肉を裂いてきたことを容易に想像させる。
そして、その内の1本がゆっくりとエルネに向けられた。
切っ先が月明かりであやしく光る。
エルネは震えそうになる気持ちを押さえながら後ずさった。
しかしすぐに、背中にナジャモジャの木がぶつかりそれを阻まれた。
すると、その様子を見ていたシフティエイプが突然、下卑た笑みを浮かべだした。
怯えるエルネが逃げ場を失ったからではない。
ナジャモジャの木にぶつかった時、その衝撃でエルネの豊満な乳房がぶるりと揺れたことに興奮したのだ。
シフティエイプは涎をたらしながら、エルネの体をねぶるように見回している。
覚えのある不快なその目付きに、エルネは全身におぞ気をはしらせた。
そして、シフティエイプが快楽のためだけに若い女をさらい巣に連れ帰ることがあるという話を思いだし、エルネは短い悲鳴を上げた。
と同時……。
「ガウウ!」
ヘルマと呼ばれた大狼が、下卑た笑みを見せるシフティエイプに飛びかかった。
ギギッ!
慌てて剣を構えようとするシフティエイプ。
しかしヘルマはものともせず、構えられた剣ごと前足の爪でシフティエイプを切り刻んだ。
シフティエイプであった肉片が4つにわかれ、ボトボトと地に落ちる。
ウキィー!
そのさまを見て、慌て大きく飛びのく1匹と、仲間の突然の死に戸惑い怯えを見せるもう1匹。
ギッ? ギギ?
ヘルマはそのスキを逃すことなく、戸惑うシフティエイプに大きく顎を開き飛びかかった。
シフティエイプが怯え固まっていることなどお構いなしに、ヘルマは勢いよく顎を閉じる。
その力は凄まじく、シフティエイプは爆散するように肉片を弾けさせた。
「ウォオオオオオオオン!」
ヘルマはエルネの前に立ちふさがるように回り込み大地を踏みしめると、残りのシフティエイプに向けて威嚇の声をあげた。
空気の波が振動とともにヘルマを中心に広がる。
対象を恐怖状態にし、同時に防御力を低下させるヘルマのスキル『遠吠え』の力だ。
『遠吠え』を受けたシフティエイプたちは、全身の毛を逆立たせ反射的に大きく距離をとった。
しかし、シフティエイプたちはそれ以上に退くことはなかった。
仲間の凄惨な死への怒りで、恐怖状態を抵抗したのである。
また、シフティエイプたちが距離をとったのは、何も恐怖からだけではなかった。
それはこの現在の位置関係がとても重要だからである。
現在の位置関係、ナジャモジャの大木を背にしているエルネとそれを守るように前に立つヘルマ。
そして一定の間隔を空け、ふたりを取り囲む七体のシフティエイプたち。
これによりヘルマは動きを封じられていた。
下手に動いた隙に、死角となるシフティエイプからエルネを狙われる恐れがあるからだ。
「ガルルゥ!」
それならばと、よらばかみ殺すと言わんばかりの形相で睨みつけるヘルマであったが、シフティエイプたちは意に介した様子もなく、その場で跳びはね勝ちほこったように鳴きだした。
ギッ! ギッ! ギッ! ギッ!
耳にさわるその声が、エルネの心に不安をつのらせていく。
もしここで捕まれば、逃げられぬように手足を切断され犯しつくされる、死よりも凄惨な未来が待っているだろう。
ならばいっそ――
ヒュッ!
玉砕覚悟の強行突破を決意しようとしたその時、1匹のシフティエイプが落ちていた石を投げてきた。
一見地味に思える攻撃だが、放たれた石はシフティエイプの持つ『投擲』のスキルにより、看過できぬ威力となりエルネへと迫っていく。
しかしヘルマがそのまま見過ごすはずもなく、何でもないように尻尾をふるい迫りくる石を弾きおとした。
ほかのシフティエイプからも次いで石が放たれるが、そのことごとくをヘルマは弾きおとした。
その様子を見て、エルネの心に安堵が広がり始めていた。
なんだ、動けないのはあっちも同じなんだ。
持久戦に持ち込んで疲れを誘っているんだろうけど、この程度の攻撃を捌くことなんてヘルマにとってはどうってこともない。
その内に投げるものをなくし逃げていくんじゃないか?
そんな風にエルネが考えた瞬間、シフティエイプはとんでもないものを投げてよこした。
キキィ!
ウキィ!
弧を描くように放たれたのは、2体のシフティエイプ。
そのシフティエイプたちが槍を手にエルネへと迫っていく。
ガウッ!
そんなことはさせまいと、大きく顎をあけ飛びかかるヘルマ。
そしてヘルマが顎を閉じようとしたその瞬間……。
中空にいるシフティエイプの1体が、もう1体の手を握りさらに前方へと放り投げた。
シフティエイプの狙い通り、放たれたもう1体がヘルマの頭上をぬけ、一直線にエルネに向かっていく。
眼前の1匹をやっつけてからでは手遅れになることは明白である。
しかしヘルマは慌てた様子もなく目の前の1体に噛みつくと、そのままおもいきり首をひねりエルネに迫るシフティエイプに叩きつけた。
叩きつけられたシフティエイプは、吹きとばされながらもくるりと回りそのまま地面に着地した。
ヘルマは慌てて踵を返す。
吹きとばされたシフティエイプの方がわずかにエルネに近い場所にいるが、ヘルマの脚力をもってすれば余裕で間にあう距離である。
にも拘らずヘルマが慌てているのには大きな理由があった。
それはヘルマが空中戦を繰りひろげている時である。
エルネたちを取りかこむシフティエイプが今のうちにと投擲した石。
それをどうにかかわしたエルネであったが、その拍子に大きくバランスを崩してしまった。
エルネはなんとか守らねばと倒れながらも体をひねってみたが、地に体を打ちつけた衝撃でついに手放してしまった。
シフティエイプに襲われてからも不自然に広げられていた革張りの本。
エルネの手を離れたその本が、バサリと地面に落ち閉じられた。
アオオオオオオオオォォ…………
それを合図にして、ヘルマの体は光の粒子となり鳴き声を残し消えていった。
エルネは身を起こせないでいた。
地面に打ちつけた体が痛かったからではない。
そんなものはどうとでもこらえられる程度のものだ。
だが、この身に包まれた絶望感はどうともできなかった。
止めることのできない体の震え。
今すぐ起きあがり全力で逃げる必要があるにも関わらずそれができないでいた。
しかし時は待ってくれることもなく、しばらくしてエルネの視界に、赤褐色の毛で包まれた何本もの足が入ってきた。
エルネはゆっくりと顔を上げる……。
そこには、嫌らしく涎をたらし下卑た笑みを見せるシフティエイプたちが待ちかまえていた。
斬られる……
犯される…………
殺される………………
「いやあああああああぁぁ」
エルネが恐怖に塗りつぶされそうになったその瞬間――
『風斬り』
聞き覚えのある声とともに、4体のシフティエイプがその身から頭を離れさせた。