新しい教育係
突然だけど俺はいまとても気分がよい。
至福とはこういうことなんだろうなとしみじみ思う。
しかし、そんな気持ちにさせてくれている人物はそうではないようだ。
「であるからして我がアイレンベルク国は……。ふぅ、またボーっとして。ちゃんと聞いてるのですか坊ちゃま?」
「ああ。もちろん、ちゃんと聞いてるよ」
「では、我がアイレンベルク国に隣接する国と王の名前を答えてください」
先ほどからこの国の歴史を語っている人物が、縁の太い眼鏡をクイとあげながら教鞭でさしてきた。
艶のある黒髪を長く伸ばした彼女は、昨日から家に住みこみで働くことになった俺の教育係エルネ・クルーザットだ。
初めての討伐任務だとか、スキルを使えるようになったとか、変態扱いされそうになったとか、昨日はほんといろいろと強烈な1日だった。
でも、まさか最後にすべて持っていかれるとは思いもしなかったな
何のことかって?
もちろん彼女、エルネ・クルーザットのことである。
昨日初めて彼女を見たときに、ああ息をのむとはこういうことなんだと理解した。
それくらいに、エルネは美人なのである。
美形の父さんと母さんがべた褒めしていたからそれなりに期待していたけど、想像を遥かに越えてくるとは……。
ああ、異世界とはなんてすばらしいのだ!
ただ、生真面目な性格らしく基本的にかたい表情をしているのが少し残念なんだよなー。
まだ2日目だし緊張しているのかもしれないけど。
ひとりで庭にいる様子を窓から見ていたとき――決して覗いていたわけではない――に気づいたのだけど、花や小鳥を笑顔で愛でたりしていたし、きっと心根は優しい女性なんだろう。
そして、その笑顔はとても暖かく柔らかで、おっぱいも大きくて柔らかそうで、とにかくおっぱいが大きくて素敵な女性なのである。
こんな感想で世の女性には申し訳なく思うけど、男子高校生なんてものは思考の大半がそんなもので埋め尽くされている生き物だと、わかっていただけたら幸いだ。
ってこっちに来て7年たつから精神年齢は25歳であるべきなのか。
まあ今はそんなことどうでもいいし、エルネの質問にちゃんと答えないとね。
決してうやむやにしようとか、いいとこを見せようとか思っている訳ではない。
「隣接する国についてね。まずは、アイレンベルクの南に位置するのはユータルシア大陸一危険な国と呼ばれているドラクロワ。王の名はパウル・ウェイン・ドラクロワ。ドラクロワが何故ユータルシア大陸一危険な国と呼ばれているかと言うと、竜族や凶暴な高位魔獣の蔓延るドラク山脈に囲まれているから……。と言う話ならアイレンベルクの王様もさぞ穏やかに日々を過ごせることだろうね。ドラクロワがユータルシア大陸一危険な国と呼ばれている本当の理由、それはそんな劣悪な環境で有りながらも大陸で3つの指に入る大国にまで伸し上がってきた超強大な軍事力を擁しているからである。停戦協定が結ばれてから表面上は大人しくしているものの、ピカピアの町に軍備を増強させているあたり、国境付近にある我が国の鉱山地帯を虎視眈々と狙っているんだろう。そして西に位置するのがフィリップス王が統治するヴァンヘルム。ヴァンヘルムは多くの貿易港を擁しておりユータルシア大陸だけに留まらず大海を渡った様々な国と貿易を交わしている。フィリップス王はドラクロワのユータルシア大陸一なになにの呼び名に影響されたのか、自国をユータルシア大陸一豊かな国と名乗っているが、富裕層は極一部で、重い税に悩まされている多くの貧困層からは、陰でユータルシア大陸一豊かに見える国と揶揄されているのが実状である。国あっての民、民あっての国と俺は思うけどね。あと、ユータルシア大陸には他にも12の小国があって、リルトニア、ノルン、サウスパーク、ハイデンフォルン……」
ついでに他の国の名もと順番にあげていると、4つ目の指を折ったところで咳きこむ音が室内に響いた。
「き、聞いているのであれば結構です」
エルネは何とも言いにくそうな表情をしながら手に持った本を閉じた。
しまった、申し訳ないことをしてしまった……。
エルネに褒めてもらえるかなとか考えて、調子にのりすぎたな。
前任の教育係が老齢からか体調を崩し息子夫婦の家に戻ってしまったため、急遽雇われることとなったエルネ。
そんな状態であったためろくに引継ぎもできておらず、昨夜は遅くまで俺用の教材をまとめてくれていたことを俺は知っている。
詳しい事情は聞いていないけど、以前雇われ先を理不尽な理由で追いだされたことがあるらしい。
頼れるもののいないこの地で、きっと自分の居場所を確立するためにも、一生懸命頑張っているに違いない。
「ごめんエルネ。君の言うとおり集中できてなかったのは事実だよ。不快な思いをさせてしまった。すまない」
「と、とんでもありません。私の授業にいたらぬ点があったのも事実です。どうぞ頭を上げてくださいませ坊ちゃま」
今のは完全に俺が悪いっていうのに、本当に真面目な女性だ。
そしてそれがよけいにつきささる……。
「いやエルネはぜんぜん悪くないよ。実はこの書斎にある本は全部読んだことがあってね、中身も全て記憶しているんだ。だからって真面目に聞かない言い訳にはならないこともわかっているし、事前に伝えておかなかった俺の落ち度だ」
「全部読んで……。そうですか」
気まずそうな表情を見せるエルネの返事には少し距離が感じられる。
この家に来たばかりなのだから当然と言えばそうかも知れないけど、何か引っかかる。
そう言えばエルネが初めて来た晩に母さんが
「エルネ、今日からここはあなたの家よ。そしてみんなあたなの家族。よろしくね」
と笑いかけたら
「ありがとうございます」
と返事はしたものの、なんだか複雑な表情をしていたな。
コミュニケーションを取るのが苦手なんだろうか?
でもそれだったらこんな仕事は選ばない気がするけど……。
って考えても仕方ないな。
俺はエルネと出会ったばかりでまだ彼女のことを何も知らないんだから。
「エルネ、1つ提案があるんだ」
「提案ですか?」
「うん。えっと、これからの授業を円滑にするためにも、良かったらお互いのことを少し話しあわないか?」
授業を円滑にするためなんてのはもちろん方便である。
俺にとって家族とは特別なもので、とても大切な存在だ。
そして母さんがそういったのなら、エルネは俺の大切な家族である。
だから俺はエルネのことをもっと知りたいし、俺のことを知ってもらいたい。
そんなふうに考え、エルネに向きなおり俺は提案してみた。
「それはご命令ですか?」
「え? い、いや、命令とかそんなんじゃないんだけど……」
しかしエルネの反応は俺の予想に反するものだった。
まるで突きはなすようなその言いぐさに、頭が沸騰でもしたように真っ白になる。
「そ、そもそもエルネは召し使いじゃないんだか――ッ!」
弁解のため歩みよろうとしたその時、俺は自分の足を自分でひっかけてしまい……。
むにっ!
その勢いのまま、あろうことかエルネの豊満な胸をもみしだいてしまった。
「なっ!」
「ちちちち、違うんだエルネ! これはあの、その、なんと言うか、ご、ごちそうさま――」
「坊ちゃま」
「はい!」
「坊ちゃまのお気持ちはよくわかりました。ですが、少し考えたいことがありますので今日は失礼してもよろしいでしょうか?」
「ハイモチロンデス……」
俺の返事を聞くやエルネは足早に部屋を出ていってしまった。
ふふ……。
俺のお気持ちわかってもらえたよ。
通じ会えたってやつかな。
胸を揉みしだいてごちそうさまはないよな。
そりゃ慌てて逃げだすわ……。
おい、数分前の俺。
何がお互いのことを話しあわないかだ……。
えらそうに語っていた俺をぶん殴ってやりたい。
俺はしばらくのあいだ、父さんにもっと女心について学んでおけばよかったと後悔しながら、ただただ立ちつくすのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
しばらくして空がオレンジ色になった頃、取りあえず胸を揉んでしまったことを素直に謝るべきだなと考え、俺はエルネの部屋の前に来ていた。
「エルネ少しいいかな?」
ノックをし呼び掛けてみるが反応がない。
と言うか人の気配もないな。
感覚強化をオンにしているのだけど、エルネの匂いもしなければなんの音も聞こえない。
下のリビングから父さんと母さんの話し声が聞こえるし、ふたりに聞いてみるか。
リビングに降りてみると、主に家事全般を担当してくれている使用人のメメルさんと、父さん母さんがお茶を飲みながら談笑をしていた。
使用人が椅子に座り家の主と談笑しているなど普通はあり得ないのかもしれないけど、これがクロムウェル流である。
「あら坊ちゃま。お茶を入れましょうか?」
「ありがとう、お願いできるかな」
とは言え、一番に気がつきやるべきことはしっかりとやるあたり、使用人としての気構えも忘れていないようだ。
「今日は暑かったのでセレニアの茶葉を水出しにしてみたんですよ。タマグリのクッキーも焼いたのでご一緒に召しあがってくださいな」
そう言うとメメルさんは目尻をいっぱいに下げてニカリと笑った。
メメルさんはもうすぐ50になる少しふくよかな女性なんだけど、母さんがこの笑顔に一目惚れしたのがきっかけでもう10年もクロムウェル家に仕えている。
かくいう俺もこの笑顔が大好きだ。
このタマグリのクッキーは口中の水分を全部もっていかれるから好きではないけどね。
「グラム、浮かない顔をしてどうしたの?」
椅子に座ると優しい声音で母さんが聞いてきた。
10歳の子がいるとは思えないほどの相も変わらずな美貌と、心の機微に聡くとても優しい自慢の母さんだ。
「さすが母さん、なんでもお見通しだね」
「毎日みている自分の子供だもの、当然よ。ねえ、あなた」
「あ、ああそうだな! もちろん俺もわかっていたぞ」
この挙動不審ぶりはきっとわかっていなかったんだろうな……。
まあ少し残念なところもあるけど、それでも自慢の父さんだ。
モデルのような甘い顔立ちに7年の歳月で渋みが加わり、大人の男の色気をただよわせている。
剣を持つとさらにひきしまり、男の俺から見ても本当に格好いいと思う。
でも一番尊敬しているところは家族思いなところだ。
「で、どうしたんだグラム」
そんな家族思いな父さんがごまかすように聞いてきた。
少し言いにくい話もあるけど、俺とエルネの問題はつまりクロムウェル家の問題だ。
みんなにも意見を聞いてみるか。
「実は……」
そう考え俺は今日のやりとりを話すことにした。
「そう、そんなことがあったのね」
俺の話を聞いた母さんは何か思い出すかのように中空を見上げている。
「グラム!」
「ん、どうしたの父さん?」
先ほどとは一転し、父さんから真剣な雰囲気を感じる。
母さんの様子といい、もしかしたらエルネのことで何か隠していることでもあるのだろうか。
「エルネさんの胸を揉んだってどういうことだ! まったくもって、なんと羨ましい……」
父さんは立ち上がりこぶしを握り締めてる。
俺の尊敬を返せと言いたい。
言いたいけど、人の胸を揉みしだいてごちそうさまとか言うやつも似たりよったりだよな……。
なんてことを考えていたら、ふいに身の毛もよだつ冷気があたりを包んだ。
「あなた、何を言ってるのかしら……?」
それは決して比喩的な表現ではない。
なぜなら俺の目の前で、尊敬する父さんの首から下が氷漬けになってしまっているからだ。
「こんな瞬時に凍てつかせるなんて、母さんの魔法はさすがだね」
「お茶を冷やす氷も奥様に出してもらったんですよ」
一家の主が氷像と化してしまっているのに、和やかに話すメメルさん。
クロムウェル家の使用人の鑑である。
「じゃあ私はそろそろ夕飯の準備をしてきますね」
「はい、お願いします」
メメルさんはニカリといい笑顔で部屋を後にした。
そのやり取りをひきつった顔で見ている父さんが少し不憫である。
仕方ない、そろそろ助け船を出してやるか。
「母さん」
「どうしたのグラム?」
「父さんはきっと母さんの気を引きたくて、それでわざとあんなことを言ったんじゃないかな」
「そ、そう! その通りだよ母さん!」
「あなたは黙っていてね」
「はい……」
俺の言葉に調子よく便乗しようとするも、母さんの冷たい笑顔に一蹴される父さん。
本当に残念な父親である。
「だってさ、剣の練習が終わって汗を流している時いつも母さんのことを話してるよ。だらしない顔でそれはもう嬉しそうに」
これは本当のことである。
いつになっても夫婦仲良しってのは素敵なことだ。
でも、出会ったときのこととか、どこどこでデートをしたチューをしただとか、挙句の果てにはお前も早く母さんみたいな素敵な女性を捕まえるんだぞって、正直少しうっとうしいくらいだ。
「もう……、グラムは父さんに甘いんだから」
そんなことを言いつつも頬が少し染まっているあたり、満更でもないんだろうな。
「母さんのことも大好きだよ」
「ふふ、ありがと」
これがとどめとなり、母さんは嬉しそうに微笑むと、パチリと指を鳴らした。
途端、父さんを包んでいた氷が一瞬のもとに砕け散っていく。
さてさて、この貸しは何で返してもらおうかな、なんて考えていると父さんがおもむろに立ちあがった。
「エレオノーラ、君のことを考えずすまない。でも俺が愛しているのは、エレオノーラ君だけだ」
父さんが臭いセリフをはきながら母さんの手を握る。
すると母さんはさらに真っ赤に頬を染め、うっとりとした表情になっていった。
っておいおい、子供の目の前で何いいムードになっているんだ。
俺がたまらず咳払いをするとふたりは慌てて座りなおした。
色々と言いたいこともあるけど、そろそろ本題に戻さないとな。
「で、さっきの話なんだけど、俺にはなんだかエルネが必要以上に気を使っているように感じるんだよね。もしかして、人付き合いが得意じゃないのかな?」
俺の言葉を聞いてどうしたものかとふたりは顔を見合わせている。
「子供に話すのはどうかとも思っていたが……。そうだな、グラムなら話しておいたほうがいいかも知れないな」
「ええ、そうね。年齢よりずっと賢い子だから、知っておいたほうがきっとエルネのためにもなるでしょう」
お互いの意見が一致していることを確認すると、父さんはまっすぐに俺を見つめ語りだした。




