いつもの物語
「はぁ……」
何度目になるだろうか。
数えるのも面倒になったため息のほうに目を向けると、妹がじとっとした目で俺を睨んでいた。
たったひとりになった俺の大切な家族。
今から2年前、夫婦水入らずの旅行をしていた俺たちの両親は、居眠り運転のトラックに正面衝突され呆気なく人生の幕を閉じた。
未成年の俺たちは遠い親戚に引きとられることになったが、当時の俺と妹は憔悴しそれはもう酷い状態だった。
ろくに食事も睡眠もとらず、ただただ肉体も精神も衰弱していく日々。
そんな俺たちが今こうして平凡な日常を過ごせているのは、周りのひとたちの
「このままでは死んでしまうぞ」
という言葉がきっかけだった。
最初にその言葉を聞いたときは、ああそれもいいなと思った。
こんな人生もういいか、なんて思った。
でも、隣にある妹の顔がふと視界に入ったとき、反発するもうひとつの感情が急速に膨れあがっていった。
この悲しみのどん底のまま、妹は人生を終わらせてしまうのか……。
いや、そんなわけにいくか!
そして、俺は妹を抱きしめボロボロと涙を流した。
気がつくと妹も嗚咽を漏らし、強く俺を抱きしめていた。
「そうか……。 お前がいたんだな」
「うん、お兄ちゃんがいたんだね……」
妹も俺と同じように考えいたのだろう。
そして俺たちは今を生きている。
まあ早い話が、俺は妹が可愛くって仕方がないということである。
そんな俺の可愛い妹は、良くわからんけど不満いっぱいのご様子だ。
「なんだよさっきから?」
「かず兄はいいよねー、記憶力だけは良くってさ」
「記憶力だけはってお前……。言い方にトゲがあるぞ」
「そんなつもりはないけどー。でも、そう思うんなら心当たりがあるんじゃないの?」
「ほう、そんなことを言うか。今日は帰ったら、新作のスイーツでも作ろうと思ってたんだけどなー。おじさんが美味しそうなビワを貰ってきていたし」
「えっ! や、やだなー、冗談だよかず兄。可愛い妹にいつもおやつを作ってくれる優しい兄がいて、ほんと私は幸せだなー」
えへへとわざとらしい笑みを見せながら、チラチラとこちらを見てくる妹。
冗談めかして自分で可愛いなんて言っているけど、俺の妹は確かに可愛い。
甘い香りをただよわせる、さらさらとした艶のある黒髪。
カラコンいらずの大きめな黒目の瞳と、長く伸びた睫毛。
そしてすっと通った鼻と、誰もが思わず奪いたくなるような厚みのあるぷるんとした唇……。
って、ほんとこいつ可愛いな! 芸能人かよ!
いや駄目だ。そんなんことを言っていたら、またクラスの奴らにシスコンとバカにされてしまう。
俺は断じてシスコンではない。そして甘い男でもないのだ。
いつも調子のいいこいつに、これを機に兄の尊厳と言うものを……
「ね、いいでしょ、おにーちゃん?」
妹が俺の両手を掴み上目遣いで甘えてくる。
いつもそうだ。俺に何かをせがむときは、いつも決まっておにーちゃんと甘えてくる。
しかし、いつまでもなめるな妹よ。
尊厳あるお兄ちゃんモードの俺の心の防御力は、メタルなスライム並みに高いのだ。
いくら瞳を麗し首を傾げようが、大したダメージには……
「ねぇ、ダメ?」
「その代わり今日のテストしっかり頑張ること! いいな?」
まああれだ。
メタルなスライムはHPが低いのが決まりである。
でもちゃんと条件をつけておいたし、これで兄の尊厳は守れただろう。
うんうん、決して甘くないぞ。
「やった! かず兄大好きぃ」
全く、ほんと調子がいいなこいつは。
大好きと言われて、内心ニヤニヤしている俺も相当調子がいいんだけどね。
「ところで、単語帳見ながら歩いてると危ないからちゃんと前を見て歩けよ」
「だってー、こうでもしないとテストの時に忘れちゃうんだもん。記憶力だけはいいかず兄にはわかんないよ」
そう。
妹が言うように、俺は小さい頃からやたらと記憶力だけは良かった。
国語の授業で、ある文学作品の文章を数行覚えるために皆が必死で何度も何度も音読している中、俺は教科書をぺらぺらと捲っていき、気がついたら一冊まるまる暗記してしまっていた、なんてことがあった。
周りの皆が、どうやってるのとコツを聞いてくるけども、俺からしたら何も特別なことをしているつもりはないので上手く説明できない。
その反面、球技の類いは総じて苦手である。
野球はいまだ一本のヒットも打ったことがないし、サッカーなんてまともにドリブルすらできない。
ボールはしっかり見えている。
むしろゆっくりに感じるほどで、野球にいたってはボールの縫い目すら見えるほどだ。
にもかかわらず、うまくタイミングが取れない。
これも上手く説明ができず非常にもどかしい。
というかなんというか、こいつはさっき言ったことを全く反省しとらんな!
「そう言えば、記憶力だけはいい俺がふと思いだしたことがあるんだけど……」
「ん、なになに?」
「俺が中2の頃に同じクラスの女子らと家で勉強していたら、6年生のお前がいきなり怖い顔して部屋に入ってきたことがあったよな」
「ちょ!」
単語帳を見ながら話を聞いていた妹が、首を痛めるんじゃないかって勢いでこっちを見てきた。
「確か、あなたお兄ちゃんのなんなの!? お兄ちゃんは私の――」
「わ、わああああああ!」
「あと、こんなこともあったよな。お前が5年生のころ、怖いテレビ見た晩に一緒に寝てあげるよって頼んでもないのに無理やり俺の布団に入ってきて、なんか翌朝『あーよく汗かいたなー』とかいって汗ではありえないほどおもいっきり布団を濡らしていたし。主に下半身のあたりな」
「ま、待って!」
「で、中学生にもなって迷子になってたこともあったし、飲めもしないコーヒーを頼んだはいいが――」
「すとっぷ、すとおおおっぷ! お兄様、ごめんなさい。私の心のHPが残りわずかです!」
妹が顔を真っ赤にしながら慌てて、俺の口をふさごうと小さな手を伸ばしたそのとき。
俺の目が、妹の背後から迫る一台のトラックを捕らえた。
え……?
これは、やばくないか?
このままでは確実にひかれる。
いや、でもまだ慌てることはない。大丈夫、いつものようにゆっくりと見えている。
まだ距離はある、避けたらいいだけだ。
左は壁。なら避けるなら右だ。
妹の体を抱きよせ右側に跳ぶ。うん、大丈夫。
いつものように全部見えている。
あとは落ちついて行動に移すだけ。
まずは抱きよせて、左足に力を込めて……。
おい、なんで動かないんだ!?動けよ!動いてくれよ!
神様お願いします……。
人生で一度きりでいい。
俺にどうか、どうか初めてのヒットを打たせてください!
そう願ったところで世界はセピア色に包まれた。