フラグ14 絶望の鏡、希望の彼岸
「そこに……いるのかにゃ……?」
女はみすぼらしい葉っぱの衣服だが、身だしなみを軽く整えてから部屋にむかった。
声がしたということは、人間がいるということなのだから。
やはり、ここも奇妙な黒い材質で、入り口にドアは無い。
最初の場所と同じような四角い部屋の隅。誰かが背を向けている。
「こ、こんにちニャ……」
えもいわれぬ不安が襲ってくる。
そもそも、この異常な空間で1人でいる人間は普通ではない。
こんなに安易に姿をさらして、自分は平気なのだろか? ──と。
もしかして失敗したのでは。──この他に誰もいないダンジョンで、最悪の予想がよぎる。
犯されるのか、殴られるのか、殺されるのか。
それよりも恐ろしい答えが待っているとは──いや、既に自らが答えになっているとは知らずに。
「あ、にゃーと同じ耳と尻尾にゃ」
女は安堵した。
こんな不思議な状態になっていたのは自分だけではなかったのだと。
同じ境遇なら、気兼ねなく話せるだろう。
どうして耳と尻尾が生えているのか? なぜ暗闇でも物が見えるのか? モンスターが襲ってこないのか? そして発達した身体能力──。
その答えすら持っているかも知れないと期待でいっぱいだった。
だが──。
「グ……ッル……ゥ……」
「え……?」
相手の声を聞いてしまった。
いや、聞こえてきたのは知性ある声ではなく、獣のような唸り声。
耳を傾けてはいけなかった。
相手の姿を見てしまった。
振り返ったその姿は、腐敗してウジが湧いている。
現実を直視できなかった。
考えてはいけない──自らの全てが絶望に変わってしまうから。
「あ、ああ……」
女はペタリと尻餅をついて、その場から動けなくなってしまった。
後ろ姿だけで人間だと勘違いしていた生ける屍──アンデッドモンスターが、女のニオイを嗅ぐかのように近付いてきた。
人肉の腐った臭いが強制的に、鼻孔にすべり込んでくる。
女は目を背けられなかった。
モンスターの肉が剥がれ落ちている頭部は、頭蓋骨に猫耳だと思っていた何かが穴を穿ち別生物のように寄生していた。
尾てい骨には、脊髄に神経纏わり付く尻尾のような何か。
考えてはいけない。考えては正気を保っていられない。
「うげぇ……ッ!!」
臭気と精神的なショックで嘔吐してしまった。
ビタビタと、黒い地面に落ちていく白濁とした吐瀉物。
口の中の酸っぱさと、心の苦しさから目から涙が溢れてしまう。
その内、モンスターは何もせずに去って行った。
……いや、アレをモンスターと呼ぶのなら。
「そっか……。にゃーはモンスターだったのかにゃ……」
* * * * * * * *
女は最初の黒い部屋に戻って、震えながら縮こまっていた。
その姿はさながら世界から捨てられた孤独な胎児。
いや、胎児ならまだ母親から生まれた人間だ。
女はただダンジョンを徘徊するアンデッドモンスター。
今はまだ意識があっても、いつ腐り落ちて正気を失うかわからない。
他のモンスター達がこちらを見逃していたのも、仲間だと思ってたからに違いない。
つまりそれは──。
「人間に見つかったら退治されちゃうのかにゃ……」
この場所以外の記憶がなくても、それくらいの予想はつく。
最初は自分を人間だと思っていたのに、まったく人間とは別の──恐れられるような存在だったのだ。
唯一の希望であった、“外に出て人間に助けを求める”という選択肢が潰された今──絶望するしかない。
もう頭の中の答えは……。
自分で死ぬか。誰かに殺されるか。腐って自我を失うか。
どれも最悪だと女は思った。
でも出来るなら誰にも迷惑をかけずに死にたい。
モンスターになって誰かを手にかけてしまったら、それはもう──。
「たとえニャーの結末が最悪のモノでも、せめて人間として……。
でも望み、願い、叶うのなら……。
本当は……本当は……」
──と、その時。
部屋の外から足音が聞こえてきた。
今まで聞いたことのない、硬い靴底のコツコツとした音。
「おい、何かこの部屋だけ入り口がふさいであるぞ? 今までこんなのなかったよな?」
「ああ、用心しろ……」
「中に化け物がいたりしてな?」
外から男達の声がした。数は3人。
女はビクッと上半身だけを起こして、毛を逆立てそちらを警戒した。
「お、女? こんなダンジョンに……?」
葉っぱで作った扉を開けて入ってきた男達はキョトンとしていた。
格好はサバイバルベストに、登山家のような大きいリュックを背負っている。
3人とも威圧感ある偉丈夫だが、意外と柔和な笑みを浮かべて挨拶をしてきた。
「こんにちは? ハロー? ニーハオ? 言葉は通じるかな、キミ」
「こ、こんにちは……」
女は薄々感付いていたが、ここがダンジョンだと初めて確証を得た。
男達を観察しながらも返事を返す。
たぶん挨拶をしてきたので、いきなり襲ってくる相手ではない。
内心ホッとしていた。
「お、日本語が通じるのか。ということはキミはこの国の関係者か何かかな? うん、そうだよね。ここは日本の魔都で東京の地下だ」
「日本? 東京?」
女はつい聞き返してしまった。
「んん? キミはここがどこかわからないのかい?」
「あの……ニャーは記憶がなくて……」
「なるほど、そうかそうか。このダンジョンは恐ろしい場所だ。ストレスで記憶がやられてしまっても仕方が無い!」
男達は元気づけるように、安心させるように言った。
「うんうん。大変だったろうね。その格好からでもわかるよ」
女に棒状の固形食料が差し出された。
カロリー補給のために出回っている市販品だ。
チョコ味、フルーツ味、チーズ味がある。
「でも、もう安心だ。俺達3人だけじゃ心細いかもしれないが、ひとりぼっちよりはいいだろう」
「それってどういう……」
「キミを助けるってことだよ。一緒にこの危険な迷宮から出よう」
女は心がグラリと揺れた。
今まで絶望の淵で死を望んでいたのに、自分を助けると言ってくれたのだ。
手を差し伸べられたのだ。
その手を掴めば、自分を助けてくれる……。
心の重みを取り除いてくれるかも知れない。
解放してくれるかも知れない。
「だ、ダメ……。にゃーはたぶんモンスターなの……」
「ああ、知ってるさ。ここに来るまで見てきたよ。
瀕死の奴に取り付いて、そいつが死んだら操る猫耳と尻尾だろう?
それなら地上に戻れば除去できる! 大丈夫さ!」
鼻の奥がツンとして、胸が熱くなる。
これで救われる。
涙が溢れてきて、うずくまって嗚咽を漏らしてしまう。
「助かる……ッ! 助かるんだ……ッ!!」
女はその心底からの言葉と共に、大きく叫んだ。
魂の叫びとも言えるモノ。
そのために──背後に回られていても気が付かなかった。
「え……!?」
一瞬のうちに、男に羽交い締めにされた。
手慣れていたのか見事な流れだった。
「にゃ、にゃにを!?」
「ギャハハ!! 笑いを堪えるのが大変だったぜ? 言葉も人間様と違って猫みたいになってるしよ!」
男達は大笑いを始めた。
そして暴露した。
「嘘に決まってんだろう? お前を仲間にするつもりもねーし、地上に戻ったってただのモンスターだ。実験体にでもされて終わりだろう」
「そ、そんにゃ……」
「それに俺達は、ここに送り込まれた……ただの死刑囚だ。
殺人に強盗に強姦に──おっと、詐欺の話術はさっき味わってもらえただろう?
次はどれが良いんだ? 子猫ちゃん?」
羽交い締めにされた女に、残り2人の死刑囚が近付いてくる。
ニタニタとしたイヤらしい笑みだ。
「う、うぅ……!!」
女は憤慨していた。
希望をニンジンのようにつり下げられた後に、引っ込められてしまったのだ。
マヌケに信じてしまった自らをあざ笑うしかない──悲しむしかない──怒るしかない。
「な、なんだこいつ!? すげぇ力で!?」
女は怪力を発揮して、一瞬にして羽交い締めを脱出した。
そのまま入り口から逃げようとするも──。
「おぉっと、逃がさねぇぞ」
男達が立ちふさがる。
「こちとら生の女を拝めるなんて十数年ぶりなんだ……。こんなへんぴなところに送られた役得ってやつを楽しまなきゃなぁ?」
「まぁ見た目はそそるが、モンスターだけどな! ギャハハ!」
相手の人数は3人。
その手にはサバイバルナイフ。
女の身体能力が上がっているとはいえ、どう転がるかわからない戦いだ。
それに精神的な問題があった。
殺人慣れしている死刑囚と、記憶を無くした純粋な精神の女。
「ニャーは……人間だから、人間でありたいから……誰も傷付けたくないにゃ……」
「はぁ? この状況で無抵抗かよ。
じゃあ、お前が死ぬまでは人間扱いしてやるから、俺達を楽しませてくれよ!
首を切り離して、死んでもしばらくはあったけぇだろうしな!」
女に迫る三本のナイフ。
ここで反撃すれば相手を殺せる可能性もあった。
だが、その選択肢は選べなかった。
人間でありたいと望み、願ってしまったから。
せめて人間として死にたい。
しかし本当は、人間として死にたいのではなく、人間として──。
「でも、それは叶わないにゃ……」
無情にも三本のナイフが勢いよく刺さった。
噴き出す血しぶき。
──だが、それは死刑囚のナイフではない。彼方から飛来してきた殺人人形のナイフだ。
「うぎゃあああああッッ!?」
悲鳴と血しぶきを上げたのは死刑囚達。
ナイフ飛んできた方を見ると、そこにはダンジョンに似つかわしくない格好の男女ふたりが立っていた。
「間に合いましたね、御主人様」
「ああ、ブレイクタイムの始まりだ。──アイツを人間として生かしてやるためにな!」