蜜柑
orange.
三月の駅舎からは、もう冬の気配は感じられなかった。
先月に同じく足を踏み入れた時は、身も凍えるほどに冷えていたというのに、改めて季節の巡る素早さには驚かされる。 かつて雪原だった場所には、早くも春の花が咲こうとしていた。
十八年暮らした街を出ることになったのは、東京の大学への進学が決まったからだった。地元志向の強い両親には最後まで反対されたが、その反対を押し切ってでもこの進路を選んだことを後悔する気持ちはない。
思えば、私には昔からそういうところがあった。一度決めたことは最後までやり抜く。できるかできないかでなく、やるかやらないか。自分でできないと勝手に決めつけて道を狭めるのは、失敗するよりも惨めなことだ。そういった根性論的な考え方が根底にあったからこそ、長く辛い受験勉強も乗り越えることができたのだと思う。
だが、両親に対する申し訳なさのようなものがあるのもまた事実だった。
定食屋を営む両親の間にたった一人生まれた子供、それが私だった。本当はその後にもう一人女の子が生まれるはずだったが、不幸にもこの世に生まれ出でる前に死んでしまった。流産だったらしい。
両親はあまりそのことを話したがらない。それも当然のことだ。待望していた我が子を失うというのは、きっと今の私でさえも計り知れない苦しみだったに違いない。ましてや当時三歳の幼児だった私に、そんな両親の気持ちに気づくことなどできるはずもなく、楽しみにしていた妹に会えないことを知ると周囲を憚らず号泣した。これには困ったものだと慌てて両親が買い与えてくれたのが、オレンジ色の布地でできたクマのぬいぐるみだった。
そのクマのぬいぐるみは、私にとって特別な存在だ。幼少期を共に過ごした友達であり、苦しい時も楽しい時も、いつも私の傍にいた。
皮肉にも、両親が妹につける予定だった名前である「蜜柑」と、私に名付けられたそれは、まるで生まれることのできなかった妹という存在の穴を埋めるように、その後も私の隣に在り続けることになる。
そのことについて、両親がどのように思っていたのかは分からない。だがきっと複雑な感情を抱いていたのだろうと思う。それでも幼い私から無理やりに取り上げなかったのは、私に二度も妹を失う苦しみを味合わせたくなかったからなのではないか。
その通りだと仮定して鑑みれば、私はなんと残酷な仕打ちを両親にしてしまったことだろうか。私に蜜柑と呼ばれるぬいぐるみに、あるいは無事に生まれたかもしれない愛娘の姿を幻視することがまったくなかったとは、とても言い切れない。そしてそれは、癒えようとしている古傷を抉るような仕打ちだ。
ことここに至って、私はようやく自分の選択を後悔した。
先ほど買ったばかりの切符をスカートのポケットから取り出す。今ならまだ間に合う。取り返しがつく。この町に残って、両親の定食屋を手伝おう。そう思った時だった。
「なにしょぼくれた顔しとるんじゃ。門出の日やぞ、しゃんとせい」
少し嗄れたこの声は父のものだ。顔を上げると案の定、そこには両親の姿があった。回想の中の、若かりし頃に比べれば幾分か年老いて皺も白髪も増えたが、それでも見間違えるはずがない。見送りには来ないと思っていたのに、どうして。そんな私の思いは筒抜けなのか、母は諭すように言う。
「娘の旅立ちを祝福しない親はいないよ。そんな顔してないで、ほら、もう電車来るべさ」
見れば、線路の彼方に電車の陰が迫っていた。これを逃せば次の電車は数時間後になる。言うなら今しかない。意を決して、私は自分の考えを口にした。
「あのね、私やっぱり東京行くのやめようと思う。ここに残って、店を手伝おうって......」
「なにを馬鹿なこと言うとるんじゃ。お前は自分の信じた道を進むために、東京さ行くんじゃろうが」
「でも、私まだなにも父さんたちにしてあげてないよ」
思い返せば、いつも支えられてばかりだった。
苦しい受験勉強を乗り越えられたのだって、なにも自分の信念のためばかりではない。両親からの、陰ながらの支えがあったからこそ、こうして目標を追うことができたのだ。
だから今度は私の番だ。今まで散々苦労をかけた分、親孝行しよう。そのように真剣に考える私とは対照的に、両親はどこか呆れた様子を見せた。そしてお互いに目配せをし合うと、やれやれといった風に苦笑を浮かべる。
「子を持つ親にとっての最大の幸せはね、子が元気でいることさ」
「母さんの言う通りじゃ。親孝行なんぞ考えとる暇あったら、大学の勉強しなさい」
両親が揃ってそんなことを言うものだから、とうとう私は困惑した。その間にも電車がやって来て、扉が開き、一歩を踏み出すことを躊躇する私の背中を、二人の手のひらがそっと押した。少しつんのめる形で電車に飛び乗った私は、慌てて背後を振り向く。うららかな春の日差しに照らされて、両親は柔らかな笑みを浮かべている。ああ、冬は終わったんだ。ふとそう思った。
「気負わず、いつでも顔見せに帰って来ればいい。蜜柑もきっと待っとるわ」
父の言葉にはっと驚く。
扉はすぐに閉まって、間もなく電車も動き出した。徐々に遠ざかっていく両親に、私が育った町に、クマのぬいぐるみと蜜柑に、私は手を振った。その姿が、景色が遥か遠く見えなくなっても、ずっとずっと手を振った。