第一章 白い部屋
忘れてしまったことを思い出せたら。
それを叶える方法があるなら、どれだけの人が縋るだろうか。
白という色が嫌いだった。
どこまでも美しく見えるそれは、私にとってどこまでも恐怖に近いところにあった。穢れなく存在するそれは完璧と表現できた。思えば私は完璧というものが恐ろしかったのだ。
足を踏み入れた病室は静謐な色でもって私を迎える。それでも息が詰まったのは一瞬で、はためくカーテンが目に入って自然と微笑みが浮かんだ。
「やっと起きたの」
窓の外を見ている後ろ姿に言葉を投げる。窓いっぱいの澄んだ青空を背景に、華奢な体がふわりと振り返った。翻る髪は光に反射して飴色に染まる。白い肌に印象的な大きな瞳。その顔立ちは私のものと瓜二つで、まるでたちの悪い模造品のよう。
私を映す瞳はまだ夢の中にいるようにぼんやりとして、どこか 硝子玉じみていた。
かつり、とリノリウムの床を踏んで彼女に近づく。
「おはよう――――唯歌」
裏路地の一角、人通りの少ない日当たりの悪い場所にその会社はあった。会社といってもおんぼろビルの四階に入っているだけの小さな事務所だ。足を乗せるたびに悲鳴を上げる階段はもはや最近は無視されるばかりで、立てつけの悪いドアも修理しよう修理しようと言ってからすでに半年は経過した。先月は雨漏りがひどくて資料の一部が悲惨なことになったはずだ。
いい加減にどうにかすべきだ、だなんてことを頭の片隅で考えて俺、小泉御澄は足音も荒く四階まで階段をあがると、ドアを乱暴に開けた。挨拶なしに部屋を横切り部屋の奥に座る男の目の前に、先ほどビルの前で破り取ってきた張り紙を突きつける。
「これはなんだ」
不機嫌さを露わにする俺とは対象に目の前の男は一瞬だけきょとんとする。それから寝癖のついた茶髪の男は、人懐こい笑みを浮かべた。
「なにってバイト募集の張り紙だね。三食昼寝おやつ付きなんて好待遇はできないけど、ここでバイトしたいって子が一人くらいいてもおかしくないと思わないかな?」
「バイト募集なんて俺は初耳だ、ゼン」
噛みつくように言いがかる俺にゼンと呼ばれた男――甲賀峰善はその端正な顔を少しだけ傾けた。とんとん、と片手間に資料の角をそろえながら言う。
「うん、僕の独断だからね。みーには言ってない」
「バイトなんて本気で言っているのか」
俺の言葉が知らず知らず険を帯びる。まっすぐに瞳を射抜けば、善は困ったように顎に手を当てた。
「なにさ、みー。不満があるみたいだね。あ、絶対にバイトの子は女の子じゃなきゃ嫌だとか言うのかな?」
「そんなことは一言も言ってない」
「確かに暑苦しい男の子は嫌だね」
「全然、話聞いてないな」
大きくため息をつく。善はもうすぐ三十になるといっていたが、童顔ゆえかまだそこまで年を食っているようには見えない。どこか食えないのらりくらりとした物言いをするためか、俺はいつもこの男には勝てない。
善は書類を放り出すと深く椅子に体を預け、うっとりと目を閉じた。
「バイト雇ったら仕事減るかな? もう仕事あんまりしなくてもいいかな? そうしたら一日中ぼーっとしていてもいいかな? あぁ、それはなんて自堕落な生活なんだ」
「ったく。あんたは仕事しろ」
うんざりと椅子に腰かける。手にした張り紙に目を落とせば、やはり眉根がよるのが抑えられなかった。
「……これは生半可な気持ちでできる仕事か」
ぽつりとこぼれた声に善が驚いたように、体を起こした。ぱちぱちと瞬く瞳でこっちを見る。
「みー、何勘違いしてるのさ。僕は君をちゃんと信じてるよ」
「? ゼン、話が見えない」
「だからさ」
善がひどく楽しそうに口を開いた時、事務所のドアがノックなしに開かれた。入ってきたのは一人の少女だった。
少女は俺と善の姿を見つけると緊張した面持ちで頭を下げた。艶やかな長い黒髪がふわりと広がる。
「お願いします、私を助けてください」
凛と顔をあげた少女と、その後ろから顔をのぞかせた少女はまったく同じ顔立ちをしていた。
この子に自分のことを思い出してほしいんです。彼女はそう口火を切った。
「私の名前は落合愛華。この子は私の双子の妹の唯歌です」
示された少女、唯歌はどこかぼんやりとした印象の少女だった。同じ顔をしていても、表情が違うだけでこんなにも違うのかと驚く。
勧めたコーヒーには2人とも口をつけない。
向かい合う形でソファーに腰かけると依頼状を渡して、愛華はすぐに本題に入った。
善は急ぐようなその態度にも緩慢にはじめまして、と自己紹介を返した。俺は棚に背を預けながらとりあえず傍観することした。
善は依頼状の確認を終えると、愛華の方に体を向けた。
「さて、じゃあこの会社のことはどう理解しているのかな」
「記憶を、望んだ記憶を思い出させてくれると聞きました」
「うん。間違っちゃいないね。ただ、それは思い出す本人からの依頼じゃなくちゃいけないんだよ、まなっち」
善はにこっと愛華に笑ってみせると、今度は唯歌に向き直った。
「ゆいっちは思い出したいのかな?」
「お姉ちゃんがそう言うなら」
唯歌はこくりと頷いた。変なあだ名をつけられても動じない二人に微かに呆れる。愛華は必至で、唯歌は頼りなく眠たげな瞳をしている。
善もそんな二人に苦笑して一口だけコーヒーを飲んだ。
「そうかい。それは了承ととるよ。思い出す内容はさっき言ったこと?」
「はい。私たちはこの間、階段から落ちて頭を打ったんです。私は何の異常もなかったけど、この子は一時的に記憶があやふやになっているらしくて、私のことも自分のこともよくわかっていなくて」
「軽い記憶喪失?」
俺が初めて口を挟むと、愛華は俯いた。その肩が頼りなく震える。
「少しは説明したから、私が姉だとはわかっているらしいんです。でもそれ以上は」
「一時的な記憶の混乱なら、そんなに焦らなくてもいいんじゃないか」
「怖いんです!」
俺の問いに愛華がソファーから立ち上がった。胸の前で白くなるほどに 手のひらを握りしめる。それから、力が抜けたようにまた座り込んだ。彼女はもう一度、今度は泣きそうに小さく呟いた。
「怖いんです。私とこの子は双子です。いつでも一緒だったんです。この子がこの子じゃないなら、私も私でいられないんです」
だから、と愛華は隣にいる唯歌を見やった。
当事者でありながら話など聞いていないような彼女の手をとった。
「自分のことだけでいいんです。自分のことだけでも思い出してほしい」
「話はわかった。その依頼、受けよう。いいね、みー」
「了解」
ひらひらと手を振る。ガラスケースからヘッドフォンを取り出し、唯歌に差し出す。
「なんですか、それ」
「これが記憶を取り戻すための道具さ、まなっち」
「これが?」
愛華が戸惑ったように唯歌の持つヘッドフォンに触れた。見た目は市販のものと遜色はないが、これは特別なものだと俺は知っている。自分の首にもかかっているそれに手を当てた。
「このヘッドフォンを介して、ここにいるみーがゆいっちの夢に潜入するだよ。そこで記憶を探す」
「夢に潜入する……!?」
「詳しいことは企業秘密だけどね。夢は潜在意識や深層心理にアクセスするには最適なんだよ。だから、今からゆいっちにはそのヘッドフォンをつけて眠ってもらう」
善の説明に愛華の表情が曇った。おずおずと俺を見上げる。
「今の話、本当ですか」
「嘘だと思うならやめれば」
怯えたような目に冷たく吐き捨てれば、一瞬の逡巡の後に愛華は口を引き結んだ。ヘッドフォンを持って立ち上げ る。
「なら、私も潜入させてください」
「おっと、そうくるか。でも、それで信じてくれるなら安いかな?」
「おいゼン、何言って」
聞き間違いかとぎょっとすれば、善はさらにとんでもないことを言った。
「みー、つれてってあげて」
「な」
「今まで依頼者は一人で来る人ばかりで二人で来たことなかったし、双子のまなっちなら潜入も楽、捜索も楽だと思わない?」
「私、頑張りますから」
「頑張るって、そんな不確かな」
苛立ちを露わにすれば、善がふっと笑う。それはいいセリフを思いついた時の善の癖。言うな、と口を塞ぐ前に軽やかにそのせりふは発せられた。
「前回の依頼は、この前に夢に潜入したのは、いつだったかな? ここでこの依頼を無に帰したら困るのは誰かな?」
凍りついたのは返す言葉がなかったためで、それでも最後のあがきと力なく言い返す。
「ヘッドフォン二つしかないだろ……」
「大丈夫、スペアがあるの忘れたのかな」
満面の笑みの善に今度こそ俺は一人うな垂れた。明確な意思のある瞳の愛華と、起きたまま夢を見ているような唯歌に思わず頭が痛くなった。
簡単な説明と約束事をして、俺と愛華はソファーに腰掛けてヘッドフォンをつけた。唯歌は一つしかない簡易ベッドで既に眠っている。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
善ののほほんとした態度に、愛華が素直に返事を返す。俺はひらひらと手を振るだけに留めた。
次第に耳元で流れはじめた音楽に意識がさらわれていく。そして俺は睡魔に襲われるままに目を閉じた。
「みーさん!」
目を開ければそこは現実からは程遠い場所だった。きらきらと反射するのは水。こぽりと、吐息が泡になる。魚のいない海底とはこんなものだろうかと訳もなく笑みが零れた。焦ったように愛華が悲鳴を上げる。
「みーさん!?」
「大丈夫だ。息はできる、落ち着け」
「あ、」
「それに約束、もう忘れたのか」
「……まず落ち着くこと」
伺うように口を開いた愛華にそうだ、と頷く。愛華は冷静さを取り戻そうと深呼吸をし始める。
上を見上げればどこまでも水があるばかりだ。このなにもない水の中に記憶はないだろう。まずはここからでなければいけない。
ふと、深呼吸を繰り返す愛華に目やって、あぁと一人納得する。
「いくぞ」
すい、と水を蹴る。驚いたように愛華が声を上げた。
「え、みーさん、下に行くんですか?」 「泡、見てみろ」
「泡? 泡なら下に……あ!」
「そう、普通なら上に行く。今は下に下がっていくから下に出口があるんじゃないか」
俺が吐いた言葉は泡になって沈んでいく。水面を目指す泡が美しいと思ったことはないが、それでもどこか下に沈んでいく泡は退廃的で綺麗に見えた。
「というより、みーさん、てのはなんだ」
「名前、知りませんから」
「小泉御澄」
「小泉くん」
二人で下へと水を蹴りながら、愛華が名前を反芻する。その煩わしい呼び名に短く返す。
「面倒だ。名前でいい」
「わかった、よろしくね御澄」
思わず、つっこみを入れそうになった。そこは呼び捨てなのか。一足飛びに精神距離が近くなった気がしてうんざりする。けれど、自分で言ったようなものだから今更だ。
とくに話すこともないから二人で深海に向けて泳いでいく。深く潜れば潜るほど、水は澄んでいくような気がした。そして唐突に、その風景は終わりを告げた。
瞬きの間にまわりの景色は様変わりしていた。俺がいつの間にか立っていたのは知らない部屋だった。
「ここ、は?」
「私の……ううん。唯歌の部屋」
静かにそれでも驚きを滲ませて愛華が言った。部屋を見渡して眩しそうに目を細めた。
「ここがか?」
その部屋は真っ白だった。椅子も机もベッドも何もかもが染みひとつないほど真っ白だ。それはまるで病室のように潔白で、そしてどこか同じだけ病的に見えた。
愛華は椅子の背に指を滑らせながら、ぼんやりと言葉を吐く。
「ううん、現実では白くないよ。やっぱり夢補正かかるのね」
「ここに唯歌の記憶があるはずだ」
「え?」
弾かれたように振り返った愛華に眉をひそめる。大袈裟に反応されたことに微かに苛立つ。
「なんだ」
「あ、うん。呼び捨てにしたから驚いたの」
「苗字が一緒なんだからいいだろ。それに本人がいないんだから気にするな」
適当に会話を切り上げる。
さて、と部屋にぐるりと視線を巡らす。無機質で冷たい印象を与える部屋。一時的な記憶喪失中だから部屋は白いのだろうか。
せっかく双子の姉がいるのだ。試しに尋ねることにした。
「いつもとちがう所はあるか」
「本当はここに、鏡なんて置いてない」
「これか」
部屋の壁に立てかけられた鏡に目を止める。
写り込むのは真っ白なこの部屋だ。と、鏡の中を覗き込む愛華がはっとした顔で俺を振り返った。
「オルゴールがある!」
「は?」
「机の上!」
机の上に目を戻すがオルゴールなんて置いていない。訝しげに目を細めれば、愛華は鏡の中を指差した。
「鏡の中の机の上には置いてあるの!」
示されたとおり鏡の中の机の上にはオルゴールが鎮座していた。おそらく愛華も気づいているだろうが、記憶はあの中だろう。
愛華が焦ったように俺に口早に尋ねる。
「どうやったら向こうに行けるの」
「割る、はさすがにだめか」
ふっと俺の手のひらにアイスピックが出現する。ぱちぱちと愛華が目を瞬いた。それ、と困惑したように指さされて面倒ながら説明する。
「明晰夢って知ってるか。夢を夢だと自覚してる夢のことだ。それを見れる奴はこうやって好きな道具を夢に出現させられる」
「ーーーーそれなら」
ふいに愛華が目を閉じたかと思えば、次の瞬間、がたりと大きな鏡が空間から出現した。
「な……!」
ぎょっとした俺を放って合わせ鏡になった空間に愛華が飛び込む。慌ててそれに続く。
気づけば俺たちは鏡を通してもう一つの白い部屋に来ていた。
不服げな俺に愛華がふわりと表情を和らげた。
「こうしたら入れる気がしたの。双子の勘かな」
「なんだ、それ。でも、さっきのが唯歌の部屋なんだろ? ここはお前の部屋なんじゃないのか」
純粋に疑問を口にすれば、愛華は一瞬だけ表情をなくした。それからにこりと笑う。
「私はあの子に自分のこと、思い出して欲しかっただけ」
愛華は机に歩み寄ると、オルゴールをあけた中から取り出されたのはひとつのブローチだ。
愛華が驚いたように目を見張ったのは一瞬
で、それから愛おしそうにそれを撫でて呟いた。
「愛華……」
その台詞に俺は反射的に声を上げかけて、そして夢から弾き出された。
「お前、ちょっと表でろ」
ソファーで目覚めた俺は愛華の腕を掴んで事務所の外に連れ出した。
「お前、愛華じゃなくて唯歌なのか」
階段で手を離して向かい合い、戸惑いのままに尋ねれば、愛華、いや唯歌は答えずに視線を逸らした。こぼれ落ちた台詞はまったく脈絡のないものだった。
「私ね、白が嫌い。空っぽな人形を綺麗だと思うのに似ているから。私、空っぽにはなりたくないの。私たちは双子だから、似ていることが付加価値なの。どちらか一人だったらきっと誰の目にも止まらない。私は愛華とセットじゃなきゃだめなの。私たちの持ち物はみんなお揃いだった。私だけ、愛華だけのものなんてなかった」
「ならなんで愛華だって偽って」
「……なんでだろうね、ただ愛華になってみたかったの。似てるけど私にとって本当の意味で一番遠いのは愛華だから。記憶がないなら少しぐらい愛華になってみたかった」
誰にもばれなかったよ、と寂しそうに唯歌は目を伏せた。
「でも、バカだね。私をちゃんと私だって理解してくれるのは愛華しかいないの。他のひとは私でも愛華でもどちらでもいいんだもの。それに気がついて怖くなったの。だから、愛華に自分のこと思い出して欲しかった」
「お前、ばかか」
無意識に零れた声に唯歌が顔をあげる。そしてくしゃりと泣きそうに笑って見せた。
「うん、ばかかも。今回のことでよくわかった。私と愛華は違う。付加価値を気にしすぎてたった一人になろうとしなかったのは私だけだった」
あのブローチね、唯歌が笑う。
私とお揃いのものじゃなかったの。
目覚めた本当の愛華とぺこりと頭を下げて、唯歌は事務所から出て行った。
「またよかったら来てね、ゆいっち」
最後にひらひらと手を振った善に唯歌は戸惑ったように眉を下げたが、善の瞳の中にある色にはっとしてから、はい、と泣きそうに返事をした。
「ゼン、始めから気づいてたのか」
閉じたドアを見つめたまま問いかける。依頼状を眺めながら善がくるりと椅子を回転させた。
「なんのことかな。ただ僕はゆいっちはみーに似てるなって思ってただけだよ。それにゆいっち一回もまなっちを見ながら名前よばなかったから、もしかしてはとは思ったけどさ」
飄々と返された言葉にため息を吐く。
「ゼンには敵わない」
「でと僕の予想だと、まだ試合は終わりじゃないんだけどね」
悪戯好きの子供が笑うように、楽しそうに善がくすくすと笑う。言っている意味がよくわからなくて言及しようと口を開きかければ、事務所のドアが開いた。
デジャヴのようなものが頭をよぎって、振り返れば、
「あの、このバイト募集って」
そこにはあの張り紙を持って佇む唯歌がいて。
「みー、この仕事は生半可な気持ちじゃだめなんだよね。ほら、僕はちゃんとみーを信じてるって言ったでしょ?」
てことで新人教育よろしくー、という無責任なゼンの追い打ちに俺は今度こそ頭を抱えたくなった。