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後で少し、手直しすることになるかもしれません。
それは作業のように進んだ。淡々と、粛々と、残された信奉者たちは殺されていった。無抵抗なまま死ぬ者、逃げようとして死ぬ者、抗って死ぬ者。誰もが血と臓物と悲鳴を撒き散らして死んでいく。白と黒の影が闇に奔るたびに、誰かの肉片が舞う。誰かの命が刈り取られる。
時間にしてみればほんの短い時、それだけで信奉者たちは物言わぬ肉塊へ姿を変えていた。その汚泥の中に立つ二人、ルッガは空を仰ぎ、ルッゾは掌で顔を覆う。騒がしかった地下室は、静寂に支配されていた。
「兄さん、怪我はありませんか?」
「……自分の心配してろ、馬鹿が」
その二人の会話へ割り込むように、拍手が鳴り響く。椅子に座っていた教祖が不揃いな手を打ち鳴らしていた。フードから覗く口は歪み、笑みを作っている。
「今日は人生最上の日だ。死んだはずのルッゾが帰ってきた。ルッガとルッゾ、汝ら兄弟が揃って帰ってきた。もう木っ端どもなど必要ない。さぁ! ”強者を求め、仇なせ”。教義を全うしろ!」
そしてフードを脱ぎ捨てた。そこにあったのは――剥き出しになった筋組織の塊だった。
幾重もの筋が絡み合い、縒り合わされ、濡れて蠕動している。身長はルッゾたちよりやや大きい程度だが、それ以外はあまりにかけ離れていた。顔と思しき箇所からは爛々と輝く一つ目が飛び出し、忙しなく何かを求めて動き回る。肥大化した右腕と左足は、乾きひび割れ赤褐色に。残された左腕と右足はただ体にぶら下がっているだけで、その本来の役割を果たしていない。足の代わりに右腕の拳を地に着けて立つその姿は、出来損ないのケモノのようだった。
「巨鬼族……いや、一つ鬼ですか? 兄さん、心当たりは?」
姿を現した男に、ルッゾは構えてルッガに訊ねる。体の殆どが手足で構成されている種族を彼は知らなかった。だが、ルッガも答えが分からないようで首を傾げた。
「俺は帝都に居たからな。こうしてご尊顔を拝するのは今回が初、だ」
やけに目立つ白い歯が口から覗く。その歯は蠢く筋組織に埋もれそうになりながら存在していた。
「名乗ろう。目有る者は見よ、耳有る者は聞け、心有る者は怯えよ! 我が名は朱羅! 闘争こそ祈り、経典、真理の一欠けら! 我こそ争いの果ての修羅道に光を見出した者よ!!」
最早その声は獣の咆哮に近い。腹まで響くその声は、地下室を震わせて軋ませた。ぱらぱらと落ち行く破片たち、その一つが地と触れると同時に朱羅はその左足を撓ませて――飛んだ。
「チィ!」
ルッガはルッゾに蹴りを入れて強引に退かせ、己もその反動を生かして後ろへ跳ぶ。間髪いれず破砕音が耳を劈く。先ほどまで二人が居た場所が、石畳ごと抉れて捲れ上がっていた。まるで隕石の落下跡にも似た様相、その爆心地の中央には朱羅が佇んでいた。
「どうした、疲れているのか? ならば、なお素晴らしい! 闘争の充足感を噛み締めよ!」
力任せに振り回された右腕を躱しながらルッゾは叫ぶ。
「やったじゃないですか兄さん! 兄さんは戦闘狂でしょうっ、闘う機械でしょう!! 理想の相手じゃないですか!!」
立ち回り、隙を窺うルッガは指を指して怒りを露にした。
「少し蹴られたぐらいで根に持ってんじゃねェ! いくぞ、合わせろッ!!」
次いで振り回された右腕を潜るとルッガは地を蹴り、跳んだ。それと同時にルッゾは朱羅の背後から駆け寄る。
「狂鴉針ッ!」
ルッガの蹴撃は頭へ。
「咆拳!!」
ルッゾの打撃は脇腹目掛けて放たれた。呼吸を合せた連撃に、朱羅はルッガを掴んで力任せにルッゾへ投げつける事で対処する。その右腕の振りの凄まじさに突風が巻き起こった。
「……全く、何回同じ目に遭えば気が済むんですか?」
兄を受け止めたルッゾは、両足を地に擦り付け衝撃を殺していた。二本の黒い線が石畳に描かれ、その衝撃の強さを示していた。靴底が焦げる臭いが鼻をつき、ルッゾは顔を顰める。
「俺が囮でお前が一撃を叩き込むという兄の知略に気付かなかったのか? 聡明かつ賢明な兄の――ぐぉ!?」
両腕で抱かれたままのルッガは悪びれず答え、そして容赦なく地面に叩き落された。
「あぁ、お嬢様に作ってもらった特注の靴が! シャツも切り刻まれるし、今日は厄日です……」
磨り減り、傷ついた革靴を見たルッゾは天を仰ぐ。その足元では半目になったルッガが弟を睨みつけていた。
「ほら、こんな所で寝てないで手伝ってください。次は私に合せてくださいね? 兄さん」
兄が立ち上がったのを確認し、彼は朱羅へと走り出す。それに続くルッガはまるで寄り添う影のように、ぴったりとルッゾに動きを合せている。この時になってルッゾは気付いた。自分が兄と共に闘う事に無上の喜びを感じていることに。
頼りない蝋燭の灯り、朱羅には白い人狼が影と重なりブレて見える。それはその迅さも相まって、この世のものとは思えなかった。
「楽し! だが……甘し!」
面で潰すような正拳突き。それに対し、ルッゾは鉄狼鐘を選択。回避ではなく、己から拳へとぶつかっていく。影と化していたルッガは、蛇にも似た動きで背後から飛び出した。
「……ッ!」
丸太の如き豪腕を背で受け止めたルッゾは苦悶の声を洩らす。だが、その一撃は朱羅に決定的な隙を生み出した。右腕が弾かれたことにより体勢が大きく崩れ、後ろ手をついてしまった。
そこへ肉薄していたルッガが哄笑を上げて拳を朱羅へ捻じ込む。
「ヒャーハッハッハーッ! 崩犬ッ!!」
水中に石を放り込むような、くぐもった音が鼓膜を震わせる。揺れて、浮いた朱羅の身体。そこへルッゾが駆け寄り、追撃を加える。
「蹴牙咬!」
右腕の筋肉に埋もれた喉元を撫でる銀色の爪。仰け反る朱羅へ、二人の連撃が間断なく叩き込まれていく。
「龍撲死ィ!!」
両拳は見事突き刺さった。朱羅はくの字になるが、依然として何の抵抗を見せずに為すがままになっている。
何処かその様子に違和感を覚えた二人は、互いに目配せし、決着をつけるべく動く。
身を翻して朱羅の着地点へ回り込むルッゾ。それを確認したルッガは歯を食い縛って己を加速させる。
本来、その技は対象物を”弾き飛ばす”ことで自己へ返ってくる衝撃を逃す。そうしなければその技を手繰る己の体が壊れてしまうからだ。だが、もし。もし、自己を省みずに全力かつ威力を逃がさずに放った場合はどうなるか。それは――
「鉄狼鐘ッ!」/「破狼衝ッ!」
――朱羅の身体を以って証明された。
黒と白に挟まれた赤。朱羅の体は右腕と左足をはみ出した状態で、二人の人狼の背ですり潰されていた。ひしゃげた肉体のあちらこちらから中身が見え隠れするほど、朱羅の体は破壊された
二人が離れると湿った音を伴って朱羅だったモノが地へ落ちた。崩れた肉の隙間から零れた色とりどりの中身が石畳を彩る。それを見たルッガは、肉塊から離れると深い溜息を一つ吐き出して柱に寄り掛かった。
「やった……か?」
「あっ、そういう台詞を言いますと――」
カチャン、と突然鳴った硬い音によってルッゾの言葉は遮られた。眉を顰めたルッガは、音の鳴った先を睨み、そしてうんざりした口調で弟に謝った。
「悪い、今回は俺が悪かった」
「やめてください、兄さんが謝るなんて本当に縁起が悪い……!」
二人の視線の向こう、死んだと思われた朱羅が床に這いつくばって――嗤っていた。先ほど鳴った音は、彼の小刻みに震える歯が石畳にぶつけたものだった。
一つしかない目玉は潰れ、顔も半分ほどしか残っていないにも係わらず彼は嗤っていた。何度も何度も歯を石に打ち付けて嗤うその姿は、ルッゾだけでなくルッガすら圧倒した。
――積もれる罪は夜の霜。
耳より心に響く言葉が朱羅の口から紡がれる。その言葉は心に染み、恐怖のように二人を雁字搦めにしてしまった。何か取り返しのつかないことが起こる、そんなざわめきが心を支配する。
「これは……!?」
ルッゾは己の体が知らぬうちに震えていることを知り、驚愕の声を上げた。
――血涙零し尚高く。
「何か分からんが……とにかく殺せ!」
滅多に焦る事がない兄を見たルッゾは事態の深刻さを知り、鉛のように重たくなった身体を動かそうと躍起になったが、
――赤き蓮華が咲く日まで。
時既に遅し。二人の牙と爪が届くより速く、朱羅はその全てを終える
――那由多の死を喰らうべし。
最後の言葉は、そのまま二人に、絶望となって襲い掛かってきた。
結論から言うと、私たちは詰めが甘かった。いや、互角以上に渡り合っていること自体、おかしな事だと気付くべきだったのだ。
グズグズになった朱羅の肉体が爆ぜ、至近距離から水にも似た肉片を浴びる。それは顔へ腕へ目へ口へ、体中に降り注いだ。
「くそがッ!」
悪態を吐く兄も、私と同じ目にあっているようだ。ぼやける視界は、地下の闇と相まって酷く不明瞭なものとなる。
ズシャ、と何かが地を踏みしめる音。それはとても近くに感じられる。次いで、生暖かい風が頬を撫でた。地下室で? 何故?
「……悪かったな。汝ら兄弟が愛おしく、愛おしく、愛おしく……つい、な。手を抜いて遊んでしまった。こんな時間が永遠に続けば良いと願ってしまった」
その風はやけに湿っており、そして臭かった。例えるならそれは、硫黄の臭いに近かった。
「我が全身全霊、その命で受け止めてくれるな?」
ようやく視力が戻った私の目の前には、巨大な、それは私の姿をそのまま映すほど巨大な一つ目があった。
目だけじゃない、亀裂のようにひび割れた口も巨大だった。いや、正しくは、私の眼前に在るのは――朱羅の顔そのものだった。ふしゅるふしゅると洩れ出る呼気が、先ほどから私の頬を撫でていたのだ。
見上げる闇にうっすらと見える赤銅は、朱羅の身体だろう。その赤銅は天井を擦らんばかりに広がっており、もはや私たち二人は彼にとって人形ほどの大きさしかないことが分かった。そしてやはり、右腕も凶悪な程逞しく、歪な物になっていた。その拳の大きさたるや、私たちの身体よりも大きい。
「……ハァ」
兄さんが溜息を吐く。諦観? 徒労? しかし、兄さんの心を埋めていたのはそんな弱々しい感情ではなかった。きっと、「見下されたから気分が悪い」とか、その程度の理由で彼は、牙を剝く。
「ったく、何で俺の周りには馬鹿ばかり寄って来るのですかなぁ。……ルッゾ、俺たちが死ぬと思うか?」
大昔、敵地で背を合せたときにもこの台詞を聞いたな、と懐かしくくすぐったい記憶を思い出し、少し笑ってしまった。
「そうですね、少し想像できません。何より、私にはお嬢様との大切な約束がありますので。つまり――私たちの勝利は必然です」
どう見ても絶体絶命、あの右腕の一振りで魂など一瞬にして吹き飛ばされてしまいそうだ。それでも、どうしても絶望を感じる事ができない。
「微塵も勝利を疑わぬ弱者にして強者、絶対なる絶望にすら地金を晒さぬ強者! 其れこそ我が修羅道が求める魂、目も眩む輝きよッ!! やはり汝ら兄弟は……素晴らしい!!」
修羅は肥大化した左足で地を蹴り付け、右腕を振り抜いてきた。私たちは同時に背後へ跳んで逃げる。右拳はそのまま石壁を叩きつけられ、砕いた石と砂埃が大砲で穿たれたように飛び散る。
「どうした? どうした? どうした?」
左腕を地に押し付けると、右腕の勢いを利用して振り子のように移動してくる朱羅。振り回されるだけの右腕、だがその大きさはそのまま強大な脅威となる。地に打ち付けられるだけで石片が飛び、肉体を殴打する。掠めるだけでその拳に吸い込まれそうになる。避ける……というよりは逃げ惑うといった方が正しい。
「…………チッ」
足が縺れるのか、兄は半ば転ぶようにして身を躱す。やはり兄は、かなりやせ我慢をしていたようだ。
(駄目だ、このままじゃ……!)
振りかぶった右拳が唸りを上げて突き出される。私は兄の身体を掴み、無理やり背後へ投げ飛ばした。そのまま己の体も投げ出し、地を抉る拳から逃れようとするが――
「――――――あ」
左肩を襲う喪失感。何が起きたか、それを認識するより早く、私は横倒しになって石畳の上を跳ねていた。
横になった視界が高速で回転する。体中に奔る痺れはきっと激痛なのだろうなと、どこかぼんやりと私は考えていた。
「ルッゾオオォォォォッ!!」
叫ぶ兄の姿がやけに間延びして、ゆっくり見える。それどころか、自分が何度地に叩きつけられたかまで数えられる。それなのに、意識ははっきりとしているのに、体は指一つ動かせなかった。
(私は大丈夫ですよ。それよりも……)
声も出せない。兄に、迫ってくる朱羅を伝えたいのに、それすら出来ない。
六度目の衝突、それは石畳ではなく石柱にぶつかる事で終わりを告げた。それと同時に、地を揺れる。朱羅が地面を殴りつけたのだ。砂埃で兄の姿が隠れてしまい、安否を確認できない。
立ち上がり、闘いに戻るために左手を支えに立とうとする。だが、上手くいかない。左手が、左手が言う事を聞かない。左手が、左腕が動かない。いや、違う。これは、違う。私の左腕は――――――失くなっていた。
「あ、は」
やっと声が出た。何故か、笑ってしまう。肩から先が消えていた。あぁ、何故。それなのに、どうして。
遠く、床に投げ出された私の腕。それは何故か、自分の物ではないような違和感を私に与えてきた。それもそのはず、あの腕は―――
『私……この手、覚えてる。いつもお布団の中にあった。大好き……』
―――”お嬢様”の物だ。
そうだ。あの腕も、この身体も、この命も心も魂も! 流れ出す血の一滴すらお嬢様の物だ! それが今、失われたのだ!
血が燃え立ち、沸騰する。心を焦がす憤怒が目から口から噴き出す。朦朧としていた意識は鮮明に、そして白く。
(あぁ、申し訳ありません……お嬢様。シロは、私は、自分の為だけに闘います)
己の下卑た怒りを発散するためだけに闘う。お嬢様との約束を護る為に、破る覚悟をする。私は、己の為に闘うのだ。
残された右腕で立ち上がると、乱暴にシャツを引き千切り左肩に巻きつけて止血する。そして私は、部屋の隅に追い込まれた兄に覆い被さる朱羅へ走り出した。
一度、キリがいいのでここで切ります。終わりが近づいてきたので、早々に書き終わらせるように努力します。