1-7
夜の闇に紛れるよう、地を滑るルッガ。対する私は月の光を反射させながら空を翔る。
「うおおおおおおおおおっ!!」
「ラァァァァァァァァァッ!!」
重なり響き、どちらのものか判別が出来ない咆哮。加速した力をそのまま右爪に込めて叩きつける。そこへ、ルッガの渾身の蹴りが激突した。
「くっ!?」
威力は同じ。一瞬の火花が闇に互いの姿を映し出す。体に奔る衝撃に敢えて従い、天井へと飛ぶ。
宙で体を反転。両足のバネを用い、着地と同時に天井を蹴り付けてこちらを睨め付けるルッガへ襲い掛かる。
「しゃあッ!!」
口を開き、両手の爪を突き出して突撃。今の私は血に飢えた獣と同等だろう。
「甘いんだよ、この愚弟がァ!!」
天を穿つような蹴撃が放たれた。黒光りする足先の爪は、寄り集められて鳥の嘴の様に窄められている。
「狂鴉針ッ!」
(アレは危険だっ!)
爪で受けたらへし折られる。ならば私も――
「――犀玖螺ッ!!」
両手の爪を束ねて作った角は嘴と衝突、そして爆ぜた。
私は両腕の、ルッガは右脚の、お互いにバランスを崩したが……。
「疾ッ!!」
宙に浮いたまま両足で数回、ルッガの身を切り刻んだ。飛び散る血と毛と服の切れ端。その嵐の向こうには、舌を出して笑う兄がいた。
着地と同時に打ち込まれた前蹴りを、身を捻って回避。背後へ跳ぶ。
「クックク……ハハッ、ヒャーッハッハッハッハァ!! やっぱりお前は俺の弟だよルッゾォ! 血を分けたお前だけが、俺の心を満たしてくれる! 愛しているぞオォォォォォ!!」
紅い瞳が歪み、狂気に染まっているようにも見える。だが、だがしかし、
(やはりあなたは『兄さん』だっ!)
取り戻した記憶の中に、今の兄に被るモノもある。兄の悪癖はまだ治ってなかったらしく。
「負けず嫌いは変わらないみたいですね……」
つい、溜息が洩れた。
「馬鹿がァ! これは『兄弟愛』ってヤツに決まっているだろうがァァァァァ!!」
その台詞を聞いて、再度大きな溜息を吐いた。本当に変わっていない。
体を屈め、両腕を垂らし、涎を撒き散らしながら走り寄る兄の姿は完全に常軌を逸している。
私は機を窺い、ルッゾが間合いに入るのを待つ。
一歩。まだ遠い。
二歩。まだ遠い。
三歩。堪える。
四歩。今だ!
「――連壊爪!」
身体を滑らせ、肘を繰り出す。だが――
「――絶影爪ッ!!」
映し出された鏡のように私たちは同じ動きを取っていた。互いの胸に肘を捻じ込み、衝撃で数歩退く。
「次だルッゾォォォォォ!! 次は震叫脚だァ!!」
すぐさま歩み寄ってくる兄は、己の手の内を明かして悠然と進み出た。
「さぁさぁさぁさぁさァ! 震叫脚ッ!」
その技を返すには、同系統の技を出すしかない。兄は恐らくそれを知っているのだろう。私には最初から選択肢など無かったのだ。
「くっ……! 心吠脚!」
右脚に全身の力を集めて地を踏みつける。元々は地面を揺らして瞬間的に動きを封じる技なのだが――
「ぐぁあっ!?」
至近距離からの打ち合いに、地を伝わって破壊力が両足を侵し、破壊した。
威力の大きさに、窓ガラスが割れる。舞うガラス片、破裂した足の血管から血液が流れ出す。
「楽しいィィなァァアッ! 笑えよ、ルッゾォ!」
兄の足からも血が噴き出している。それなのに苦痛を感じていないのか、またも近づいてくる。
両腕を引き、力を込めるあの仕草。私の耳にまで聞こえてくるのは骨を軋ませる音。次の技を既に放つ準備をしており、兄は目線で私に合図を送ってきた。私もすぐさま応戦する。
「――竜撲歯!」
「ラァッ! 龍撲死ィ!!」
拳同士が寸分違わず激突し、両の拳が砕けるような振動が体に奔る。伸ばされていた爪のせいで拳と腕が切り裂かれて鮮血が舞った。
元々、近距離で用いる技である竜撲歯。その威力たるや、骨を伝って脳髄まで揺らす。
「……懐かしいですね。子供の頃、よくこうして泣かされたことを思い出しましたっ」
足が自ずと前に出る。止まってはいけない、と。負けてはいけない、と。
(次は……私の番だ!)
歯を食い縛り、痛みに耐える。手繰る技は一撃必殺。血肉を引き絞り、呼吸を落ち着かせ、肩と肘に溜め込んだ力を爆発させる。
「――咆拳っ!」
「ッシャア、崩犬ッ!!」
内より喰らう牙を乗せた拳は互いの腹部に突き刺さった。その拳速とは裏腹に後退することなかったが、衝撃が身を駆け巡る。
暴れ狂う力の奔流は、出口を探してはらわたに噛みつき始めた。徐々に内側から壊されていくという感覚を否が応にも体感させられる。
「ごふ……っ」
口の端から溢れた血は、毛を濡らして床へ滴となって落ちた。己の身を襲う苦痛を自分自身が体験するのは初めてだったが、これ程までの威力があるとは。
(耐、え……耐えろ! 私、は……倒れる訳に、はいかないんだ……っ!)
意識せずとも背中が曲がる。下がった目線の先には、私と同じように口から血を滲ませているルッガがいた。彼は呼吸のたびに唇の端から血泡が溢れ出させている。
「ククッ……」
それでも兄は笑みを崩さない。彼の無尽蔵の体力にはほとほと感服させられる。しかも、傷付けば傷付くほど輝きを増す瞳は、まるで苦痛を燃料にしているように燃え上がっている。
(私に、は……護るものが……ある! お嬢様を護るのは―――)
脳裏に浮かぶ人は、いつも同じ。春のように柔らかな笑顔を湛える彼女。傍に控えて成長を見守って、共に思い出を築いた少女。
「ルッガァァァァァァッ!!」
心に世界で一番大切な人を映し出し、身体を強引に加速させる。
「ルッゾォォォォォォッ!!」
呼応し、叫びを上げる兄も私と同じ動きを取った。
血が沸騰し、脳が沸き立つ。ボロボロの肉体を振り回し、どうにか力を生み出す。
何度も飛びそうになる意識を繋ぐ。千切れそうな筋肉、砕けそうな骨格、残っていたあらん限りの力を集束させる。
軸足を捩じり。
身体を回転させ。
肩と背で敵を砕く。
もっとも自分が信頼している、とっておきの技。流れる視界の向こうにお嬢様に似た影を一瞬だけ目端で捉え、次の瞬間、やけに間延びした空白が訪れた。
(――お嬢様を護るのは、この私だ!!)
心に刻んだ誓い。全霊を込めて放つその技は!
「鉄狼鐘ッ!」/「破狼衝ッ!」
そして、全てが白く染まった。
白と黒の螺旋は、互いに背を衝突させることで終わりを告げた。空気を震わせる振動は部屋中に染み渡る。
二人の足元、軸足を中心に円形の亀裂が入っていく。背を重ね合わせたルッガとシロは微動だにしない。
その様子を見守る少女は、祈るように手を組み、一心不乱に己の従者の無事を願う。どんな戦いも勝利してきた大切な人は必ずまた勝利を掴んでくれると信じて。
「……ったく、ガキの頃と同じだ。ひ弱なくせに鼻っ柱だけは強い」
聞こえてきたのはルッガの声。そしてそれと同時に崩れるシロの身体。受身を取ることもなく地に倒れ伏す。
「っ! シロっ!?」
寸とも動かないシロに駆け寄り、桜は身体を揺する。彼の体毛は血で汚れ、シャツまで赤く染まっている。
「ねぇシロ! 大丈夫、大丈夫っ!? ねぇ!!」
悲痛な叫びがこだまする空間で、ルッガは悪びれる様子なく佇んでいる。彼は口内に溜まった血を床に無造作へ吐き出すと桜の肩を軽く叩いた。
「えっ……な、なに……?」
びくっと身体を震わせ、桜は振り返る。逃げようと身を翻そうとするが、動かないシロを見つめ、意を決したようにルッガを睨みつける。シロを守るようにルッガからその身を遮ろうとする。
「シロには指一本触らせないからっ!!」
その言葉に笑みを作る黒い人狼。だが、その笑顔は今までのような見下すようなものでも、常軌を逸したものもでなく、何かを見守るような柔らかいモノだった。
「……お嬢さんはそいつが好きか? 愛しているか?」
予期せぬ問いに桜は「へ、あのっ、そのぉ!」と顔を真っ赤にして慌て始めた。
「あー、もう良い。もう良く分かった。何だか見てるこっちまで恥ずかしくなる」
ついに両手をぶんぶん振り回して照れ隠しを始めた桜に対し、顔を掌で覆うルッガはひらひらと手を振る。
「こいつはな、本当は弱いのに意地っ張りで周りの奴らに心配を掛ける。そのくせ、本人は「自分は大丈夫」だとか思い込んでて始末に負えない。……まぁ、お嬢さんのほうが付き合いは長いからよく知ってるか」
鼻を鳴らしてそっぽを向き、淋しそうな顔を浮かべる彼は何処か遠くを見つめている。その横顔はシロのそれにそっくりだった。
「前々から救えない愚弟だと思っていたが、お嬢さんたちのお陰で随分マシになったようだ、感謝する。これからもそれに良くしてやってくれ」
想像していなかった言葉に桜は反応できず、呆然としている。ルッガはそのまま桜に背を向け、首の骨を鳴らして溜息を吐いた。
「はぁ、ったく。尻拭いはいつも俺だ。弱い弟がいるとオチオチ遊んでもいられない。――賾虚は俺が潰しといてやる。魚臭くて気に食わないしなァ」
嘘か真かいたずらっぽく笑うと、ルッガは桜を一瞥して壊れた窓から半身を乗り出す。
「あ、あの! シロのお兄さん……あの、その、ごめんなさい」
立ち上がった桜がルッガに頭を下げる。それに対し、彼は一度振り向くと、
「何で謝られるのか分かりませんなぁ。それと、女は笑ってるほうが綺麗だ」
肩を竦めてそれだけ伝えると、窓枠を蹴り飛ばして雨降りしきる闇の中へ消えていった。それとほぼ同時、扉がけたたましい音を立てて開かれる。そこに居たのはキヌとクロの二人。
「メイド長キヌ……ってまたかい!? また間に合わなんだ!」
「わざわざ力を使ってまで来たってのに無駄足かぁ、あぁ眠ィ、疲れて眠ィ」
大げさに驚くキヌとぼやくクロ。キヌはずかずか部屋に入ってくると、その触手の一本で倒れたままのシロの頭をしばいた。
「ちょっとキヌ……!」
桜が注意しようとしたが、
「――くぉらあッ!! お嬢様に心労をかけるんじゃないよ!! さっさと起きな、この根性無し!!」
あまりの剣幕に驚き、口を噤んでしまった。心なしか背筋まで伸ばされている。キヌはそのまま触手をシロの首に絡みつかせて強引に立ち上がらせた。
「うぅ……寝起きの悪いお前には言われたくない……」
呻きと軽口を吐き出し、シロは意識を取り戻した。彼は頭を擦りながら身体の調子を確かめ始める。
「何だい、ちゃんと起きれるじゃないか。だったら最初から起きているんだね」
触手を胸の前で組んで満足そうに頷くキヌ。場にいつもの和やかな空気が戻ってきた。
「本当に大丈夫なの、シロ。さっき凄く……」
心配する桜に、シロは先ほどの戦闘で斬り付けられた自分の腕を見せる。傷口にはもう瘡蓋が出来て塞がっていた。
「人狼というのは「生き抜く」事に適した種族であります。それに付け加えて私は幼少の頃から特殊な訓練を受け続けてきたので、ことさら傷の治りも早いのです」
彼の言葉通り、既に血は止まり、シロは問題なくその場に立っている。その様子を見たクロは頭痛が起きているかのように顔を顰めて、
「何でこう、人狼ってのは怪我に強いかねぇ。そのせいで危険を危険と捉えられないヤツが多くて困る。あぁ、お前さんの事じゃない、俺の知り合いの馬鹿野郎のことだ」
吐き出した。その口調は心底苦労しているようだった。だが、彼は己の職務を思い出し、真面目な顔でシロに訊ねた。
「起きた事は何となく分かるんだが……あー、めんどうくせぇ、侵入者は逃げ出したってことで良いんだな?」
桜とシロは互いに顔を見合わせて、シロが口を開いた。
「そのことでクロさんにお願いがあります。キヌも聞いてくれるか?」
目配せされたキヌは「どうぞ」と相槌を返す。それを確認したシロは、緊張した顔つきでこの屋敷に仕えて初めての「わがまま」を告げた。
降り注ぐ雨は火照った身体を程よく冷やしてくれて心地よい。気分がひどく高揚してる。それはこの雨だけが原因ではない。
「ルッゾのくせに生意気だな……」
未だに身体を奔る痛みは己の弟が強くなった証拠。嬉しくて痛くて嬉しくてつい頬がにやけてしまう。
まさか、記憶が戻るとは思っていなかった。戻らずとも弟と拳を交わせればそれで満足だった。
「運命の神ってのはつくづく歪んだ性格の持ち主のようですなぁ」
思い返してみれば、あの日弟を表の世界で暮らせるようにしてやった時から、俺は運命の神にほくそ笑みを投げ掛けられている気がしてならない。いや、なるべくしてなったと言うべきか。
「まぁ、何だ。これでもう組織の動きを気にする事は無くなる。お勤めご苦労ってヤツだ」
屋根から屋根へ、平屋の上を飛んで移動する。目的地は港町の外れにある異国の教会。滅多に人が訪れないそこの地下こそ、賾虚のアジト。
今の体では五分の力で精一杯だが、今夜中にけりを付けたい。
残った瞳がやけに熱い。理由は分からないが負ける気はしなかった。
「――どうか私に、今晩だけ暇をください」
頭を下げ、私は嘆願する。
先ほどの兄とお嬢様の会話は、何となくだが聞こえていた。飄々とはしていたが、兄の傷も決して浅くはない。一晩休めば持ち直すが、今の状態では全力など出せるはずがない。
(私は執事失格だ……!)
私の願いは、お嬢様との約束を破って命を奪いに来た組織の一員である兄を助けたいというものだ。許されるわけがない。それでも、私は兄を助けたかった。肉親を助けたかったのだ。
「それを俺に言ってどうすんだ? 俺にも何かあるのか?」
クロが疑問を口にする。
「あなたには私がいない間、お嬢様を守っていただきたいのです」
頭を下げたまま、そう告げた。きっと……いや、彼は強い。私が留守の間、お嬢様の身の安全を守ってくれるだろう。そう踏んで、お願いをした。
「ま、俺はいいけどよぉ、めんどうくせぇが。……嬢ちゃんは?」
沈黙を保っていたお嬢様が、クロに話を振られて初めて動きを見せた。お嬢様はこちらへ歩いてこられると、私の目の前で立ち止まった。私の視界にはお嬢様の足だけが見える。
「……………………」
「……………………」
お嬢様は黙して語らず。私も何も言い出せず、黙ったまま頭を下げ続ける。
長い長い沈黙は、不意に頬へ当てられた小さな手のひらを合図に破られた。
「じゃあ、誓って。今度こそ。絶対に帰ってくるって。生きて、私の下に帰ってくるって」
無理やり顔を上げられた。そこには、私の心を何度も照らしてくれた笑顔があった。薄く開いた目が、慈しむように私を見つめている。
「―――はい、お嬢様に戴いたこの名に誓って!」
「じゃあ、いってらっしゃい。私の大切な人」
お嬢様が手を離すな否や、私は一陣の風となって窓から飛び出した。必ず生きて帰ってくる、もう遠く離れた窓の向こうから手を振る大切な人に再び逢う為に。
シロが居なくなって、何処かがらんとした部屋。桜は闇夜を切り裂く白い風が見えなくなるまで手を振り続けた。
ついに何も見えなくなり、ただしとど降る雨だけが闇に落ちるだけになって彼女は手を降ろして振り返った。
「えへ、へ。私、ちゃんと良い主が出来てたかなぁ?」
笑顔が今にも崩れてしまいそうだった。
「えぇ、お嬢様はしっかりと役目を果たされましたよ」
力強く答えるキヌは既に歩き出し、
「キヌぅ……!」
泣きじゃくり始めた桜をひしと抱き締めた。両腕と無数の触手が優しく彼女を包む。
「おー、よしよし。良く頑張りましたっ」
キヌは昔、よくしてやったように彼女の頭を撫でて、慰める。
クロは二人を懐かしい目で見つめ、そして窓の向こうの闇を睨みつけていつもの調子でぼやいた。
「ったく、何でこう人狼ってのはどいつもこいつも本当に馬鹿ばっかなのかねぇ」
少し、間が空くかと思われます。