表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人狼執事  作者: 空暮
6/11

1-6

 窓ガラスを叩く風雨。外はもう日が沈み、すっかり夜だ。台風でもないのにこんな時期に激しい雨が降るとは、庭を見回ってくれる人たちは運が悪いと言わざるをえない。

 (キヌに何か用意させるべきか……)

 名家として恥ずかしくない対応をすべきだな、と判断してお嬢様に確認を取る。

 夕飯を取ったお嬢様は、先ほどと変わらず読書に勤しんでいた。私の提案に「うん、良いよ」と返事をくださったので、廊下を通り掛かったメイドにその旨をキヌに伝えるように任せる。

 「雨が降ると気が滅入るね。月も見えないし……」

 きっと、お嬢様が憂鬱な表情を浮かべる理由はそれだけではないだろう。やっと大切な事を思い出したクロが先ほど教えてくれた情報だが、お嬢様を襲った不届き者は厄介な事にただのチンピラではなく、とある組織に属していた者たちだったらしい。

 その組織の名は"賾虚(おぎろうろ)"。いわゆる『そちらの筋』の者たちとは違い、クロの言葉を借りると、「宗教の教団に近い、そこらじゅうに喧嘩を売ってる奴等だ。賾虚の教義は”強者には仇なせ”って迷惑なもんでよぉ、目下、この国――政府に喧嘩を吹っかけてる途中だ。そこの嬢ちゃんの父親、けっこう大物だしな。何を狙って襲ってきたかは分からんが、気をつけろよ。俺もすぐ来れるようにしておくからよぉ」と非常に危険な組織であることが分かった。

 他に分かった事と言えば賾虚は非常に少人数の組織であり、拠点の場所は不明。そして教団は完全に教祖の支配化に置かれているということだった。どうやら教義に忠実な者たちが互いに相食んでいるのが現状であり、四半世紀にも満たない短さで自然消滅するだろうというのが一般的な見解らしい。

 先日、私が相手したあのチンピラ程度なら二桁の数で来られても勝てるだろう。ただし――護る者がいないという前提で、だ。もしも、数で攻められた時はすぐさま逃げるべきだ。

 「夏がもう逝こうとしているのですよ。涙を流して、別れを惜しんでいるのでしょう」

 (帝都に一旦逃げるべきか? いや、今の帝都は魔都だ……何が起きるか分からない。ここで迎え撃つしかない。教団が諦めるまで、教団が潰えるまで……)

 幸い、現在はキヌも常駐してくれている。メイもミユ、他の者たちも『スニーラーク家』に仕える者たちだ。そう簡単に死ぬようなタマはいない。ただ、何よりも問題なのは――

 (――私よりも強い者が現れた場合だっ)

 自惚れなどではなく、この屋敷で一番強いのは私……シロだ。私の死は、つまりお嬢様の身に危害が加えられるかもしれないということであり――

 「ぅん? どうしたの、シロ?」

 お嬢様の身が傷付けられる、その光景を想像するだけで目の前が真っ赤に染まる。絶望の黒ではなく、憤怒の赤。あの優しいお嬢様が傷付く? 何故そんなことが許される!?

 「ねぇ、シロっ! どうしたの!」

 「……えっ、いや――何でもないですよ。少し考え事をしていただけです」

 我に返った私の目の前にはお嬢様が。いつの間にか手まで握られており、何故私は気付けなかったのだろうか。

 意識を取り戻した私を見たお嬢様はほっと胸を撫で下ろしていた。

 「良かったぁ! シロ、凄く怖い目してた。何か……遠くを睨んでるっていうか。シロが居なくなっちゃうんじゃないかって不安だったんだからっ」

 後半になるにつれて、お嬢様は怒りを露にしていった。よほど私は恐ろしい顔つきになっていたのだろう、気をつけなければ。

 「ご冗談を。私が消えるなど―――っ!?」

 突然、部屋に生臭い殺意が充満した。例えるならその臭いは血肉を喰らう獣の口臭。

 「お嬢様、こちらへ」

 「ひゃっ!?」

 申し訳ないが、手を少し強く引っ張り己の背に隠す。隠す気のない強烈な殺気、あまりにも大雑把で、何処から発せられているのか分からない。ただ、酷く首筋がチリチリ灼ける。

 「な、なにシロ!? どうしたのっ!?」

 私の緊張が伝わってしまい、お嬢様が軽い恐慌状態に陥ってしまった。眼差しを以って落ち着かせてあげるべきだが、今の私にはそんな余裕はない。眼は視界の拡がる限りを睨み、鼻も耳も肌もこの殺気の持ち主を見つけ出そうとしている。

 「いえ、どうも礼儀が出来ていない者がダンスの相手を探しに来たようです」

 唯一空いている口で、自分でも上手くないと自負する軽口を叩く。

 (相手は一人、私と同等――いや、こんな時に希望的観測などするなっ! 間違いなく私よりも……)

 口が裂けてもそんな事は言えない、思いたくない。

 相手がどこにいるかまでは分からない。だが、今この時も私を観察している。その為、こちらも動く事が出来ない。

 (逃げるべきか……いや、相手は逃げれば何処までも追ってくる。そんな臭いだ)

 覚悟が決まった。私の採るべき行動は、『闘い、適わないようなら時間を稼ぎ、可能な限り傷を負わせる』、だ。それなら私が死んでも他の誰かがお嬢様を守ってくれる筈。

 「――お嬢様、何が起きても絶対にそこから動かないでください」

 こくん、とお嬢様が頷くの確認すると同時に、殺意が波となって体を覆った。

 (来る……!)

 確信めいた心の呟きは、突如窓が開いたことで現実となった。

 猛烈な勢いで吹き込む風により、窓は壁に叩きつけられて喧しい音を立てる。未だ姿は見えず。だが、次の瞬間―――

 「きゃあっ!?」

 ―――轟音と共に落ちた稲光によって部屋は闇に包まれた。

 目も眩む閃光。その雷を背負って現れたのは一匹の、黒い人狼だった。窓の前に立つ彼は心の底から嬉しそうな表情を浮かべている。

 「……っ! ウオオォォォォォォォッ!!」

 自分のものとは思えない雄叫びを上げ、気付くと私は彼に向かって走り出す。それに対し、彼は歯を剝き出して笑みを浮かべただけだった。

 前へ進む力を強引に捻じ曲げて、天へ放つ。今の私の頭の中には目の前の人狼から感じる、言い様のない恐怖を叩き潰すことしか無かった。

 骨と筋肉が軋む、慣れ親しんだ音。万力の力を込めて放つその技は――

 「――蹴牙咬!」

 幾数の首を狩ってきた蹴り。だが、信じられない事にその蹴撃は、

 「夜昇脚ッ!」

 全く同じ軌跡を描く蹴りによって止められた。

 脛と脛がぶつかり、肉が潰れる。威力は……残念だが相手のほうが上だ。

 (同じ技……? 偶然? いや、これは――)

 心を揺らす疑問による動揺を必死に抑える。

 「お前は……」

 たたらを踏んで離れ、私は目の前の人狼と再び対峙する。

 この時になって始めて気付いたが、黒毛の人狼は隻眼だった。波打つ体毛は雨に濡れても天を衝き、鋼のような筋肉を覆っている。縞模様になっている白い毛は、今まで付けられてきた傷の痕だ。この人狼は―――恐ろしく強い。

 「――手荒い歓迎、ありがとよ。予定とは少し違ったが、取り合えず自己紹介といこう。俺の名前はルッガ=ガアフ=フェイ=ロウフ=イェ=ィエン=ファンだ。この名前に聞き覚えはありますかなぁ?」

 彼は片足を上げたまま肩を竦める。その何処かふざけた態度と発言は、私の平常心をかき乱すためのものだろう。

 「残念ですが、賾虚のような危険極まりない組織の方とは縁の無い生活を送っていますので、存じ上げません」

 (相手は無傷だ……しかし、私の脚は……)

 脛から溢れ出した血が床へ落ちていく。肉が削げるなど何時ぶりだろうか。それに対し、ルッガの脚は何ともなっておらず、負傷は無いようだ。

 「おやおや、そこまで知っているなら話は早い。……部屋の角で縮こまっている娘を渡すか?」

 「お断りします。あなた達のように品の無い方々では、お嬢様にお茶一つ用意出来なさそうですし」

 したくもない会話に乗って時間を稼ぐ。もう右脚は動かせる程度には回復してきた。出来れば、ルッガと名乗る人狼がこのまま話し続けてくれればいいが……。

 「申し遅れましたが、私の名前はシロ。この屋敷で執事をさせていただいております。ちなみに、覚える必要はありません。知人と思われても迷惑ですので」

 自己紹介を済ませると、先ほどまでニヤついていたルッガが口角をあらん限り吊り上げて、歯をむき出した。その表情は歓喜か、憤怒か。

 「――ここまで変わるとは全く以って教育と環境ってのは怖い怖い。さぁ、本格的に点検をしてやる。死ぬ気で凌げっ」

 何処か噛み合わない会話は、ルッガの猛襲で幕を閉じた。話が終わるや否や飛び込んできたルッガ、彼の両手足の先には体毛と同じ漆黒の爪が伸びており――

 「グッ!?」

 体を切り刻まれた。知覚出来るギリギリの迅さ。ルッガの姿が闇に滲んだが最後、私の目には急所へ瞬き飛来する無数の爪しか映らなかった。

 (気配が遅れてやってくる……!?)

 流れ出す血の温かさは、己の生を証明してくれているようだった。まさしく紙一重、どうにか躱すことに成功した。

 「致命傷を避ける程度には体が動くようだな。反撃は……無しか。ガッカリさせるねぇ」

 生暖かい吐息が耳に掛かる。耳元で囁かれ、すぐさま背後に蹴りを放つ。

 「そうだ、良いぞ。もっと来い、もっとだ!」

 少し背を屈めるだけで私の蹴撃を回避したルッガは、首筋目掛けて右爪を伸ばしてくる。それを左腕で捌き、

 「鉄狼鐘ッ!!」

 外した蹴りの慣性も上乗せして、己の背を叩きつける。出し惜しみなどしてはいられない。とにかくこの人狼が油断している間に殺さなければ。

 「かっは……ぁ!」

 確かな手応え、苦痛に呻く声。振り向くとそこには、防御もせずに身体で受け止めたルッガが身に奔る衝撃を楽しむように立っていた。

 鳥人族を破壊した技も、黒い人狼には数歩退かせる程度の威力しか無かったらしく、思わず溜息が洩れてしまった。

 「……私の一撃も効果なし、ですか」

 首を傾げて骨を鳴らすルッガは、肩を竦める。

 「少しばかりは効いたがね。次は打撃の応酬を楽しむとしようか」

 嘘か真か、本当に目の前の人狼は加速をつけて私の顔へ掌を突き出してきた。

 (嬲り殺しがしたいのか……? 一体何を考えている?)

 この男の実力を持ってすれば、もっと優勢に闘いを進める事が出来るはずだ。だのに、先ほどから己の不利になるような行動ばかりを取っている。

 何の変哲も無い掌打を躱し、膝蹴りをねじ込む。だが、それはいとも簡単に手のひらで抑え込まれた。次いで右手の爪での横薙ぎ、それには反り返って前蹴りを打ってくるルッガ。

 半身になって避けた私に対して、片頬を上げた彼が叫ぶ。

 「さぁ、速度を上げるぞ? ついてこれるか!?」

 宣言通り、途端に動きが加速した。黒い影が朧に融けて、地を滑り寄って来る。私も意識を彼にだけ集中させ、全ての感覚を注ぎ込んだ。

 腰を落として掌から力を抜く/暴れ狂う銀閃

 どうにか捌き切った。防御に徹した事で生まれた隙を好機と判断する。

 左爪を突き出す/鞭の如くしなる右足

 側頭部から脳へ衝撃が伝わり、視界が揺れる。

 (――はや―――防げな――――)

 私が己の判断の過ちに気づいた時には既に、暴力が雨のように降り注いでいた。

 腕を交差して防御/脳天へ踵落とし

 足が私の意志と反してがくがくと震える。腰から崩れそうになるのを前傾姿勢になって耐えた。顎を引いた私の視界に入ってきたのは、ルッガの左膝。見えたと思ったときには既に顔面に突き刺さっていた。

 「ぅ……!?」

 鼻面がひしゃげ、仰け反る。衝撃で白い光が舞った。鼻から流れた血が口の中へとめどなく入ってきて不愉快だ。

 激痛。今、自分が何処に居て、何の為に闘っているのかということすら忘れさせる激痛。だが、その痛みが誘うのは怒りではなく――

 (――何でこんなに懐かしいんだっ?)

 胸を掻き毟る感情だった。しかし、その戸惑いをも吹き飛ばす掌底が再び私の顔に叩き込まれた。

 よろけ、たたらを踏んで後退したが、ルッガは追撃をして来ない。彼はただ、荒い呼吸を繰り返す私を睨みつけていた。

 「何……だ……?」

 ぼやける視野にやけに紅い光が目に付いた。アレは……彼の残された隻眼だ。その穿たれた傷口にも似た瞳は、私の中で抑え込まれている"何か"の鎖を強引に千切ろうと揺さぶってくる。

 「……幻滅したぞ。お前が守ろうとしたモノは何だ? お前が守りたかったモノは何だ? そんな体たらくでお前はあの娘を守ってやれるのか?」

 紅い瞳に魅入られた私の鼓動は喧しい程鳴り響く。早鐘のように弾む心臓とは裏腹、私の思考は靄がかかった朧げなものになっていた。

 (あの声は……以前どこかで…………?)

 動悸は激しく、循環する血液の膨大さに心臓が破裂してしまいそうだ。軋んだ鎖にヒビが入り、弾け飛ぶ。そしてついに封じられていた記憶が暴れだし、ぶち撒けられた。


 そうだ、あの声は。幾度も私の心をかき乱した――


 『オレガオマエヲマモッテヤルカラナ』


 ――"あの声"だ。


 「う、うぁ……うああああああああああああああああッ!!」

 砕け散ったはずのくすんだ記憶片。それらは互いに寄り集まって一つの"思い出"となった。血と反吐と汚物で汚れた"俺の思い出"は、私の欠けた部分を強引に埋めた――周囲の暖かい思い出を傷付けながら。

 「――!? ――――っ!?」

 お嬢様の声がやけに遠くから聞こえる。鼓膜を振動させるソレを、脳は言葉として処理しようとはしない。

 

 私は誰だ?/俺は誰だ?


 己の存在を定まらない。記憶の洪水に飲み込まれた私には、地が揺らいで見える。物の輪郭が二重に、世界が振動してぶれる。現実感の喪失。己の絶叫がまるで、赤ん坊の産声のように聞こえた。

 ついに膝を屈した私。涙で歪んだルッガがこちらへ歩み寄ってきた。振り上げた右腕は何の為に? 

 身体が動かず、ただぼんやりとその挙動を眺めていた。心の何処かが動くべきだと叫ぶがまるで夢の中の景色のように身動きが取れない。

 だが、そこへ飛び込んで来た影が私の視界を遮り、右腕の行方を確かめさせなかった。その影の正体、それは――護るべき私の主だった。


 

 いけない、そう思ったときには私の体は勝手に動き出していた。

 世界で一番強くて頼りになると思っていた人が、黒く恐ろしい人狼にぼろぼろにされていた。今までどんな怖い人も余裕綽々で倒してきたのに。

 あの人がシロに話し掛けてから、彼の様子がおかしくなった。震え、跪き、叫び声を上げるなんて、どう見てもおかしい!

 虚ろな目をしたシロへ近づいていく黒い人狼、その間に滑り込んだ私は両手を広げて彼からシロを遮る。

 右手を振り上げていた彼は、私を訝しげに見つめ、歪笑する。

 「おやおやお嬢さん、勇猛な事で。だが足が震えていますなぁ?」

 確かに、私の足は怖くて怖くてぶるぶる震えてしまっている。黒い人狼は私の目の前でシロの血で濡れた爪をちらつかせてせせら笑うと、恐ろしい牙と共に怒りを剥き出しにした。

 「……そこを退け。闘いに水を差されたなんて言うつもりはないが、「何となく」、「その場の勢い」で人を殺すのはつまらないし味気ない。実感が無い「殺し」はあまり好きじゃないんでね」

 彼に掛かれば私なんて一瞬で始末されてしまうだろう。あの爪、あの牙、あの眼差し! どれもこれも私を狙っている。

 「イヤです! 絶対に退きません!!」

 気の利いた言葉は出なかったけれど、大きな言葉は出た。どうにか声の震えは隠す事が出来たが、広げた腕が震え始めた。

 私の声の大きさに、黒い人狼は目を丸めた後、満足そうに笑みを浮かべる。

 「――思っていたよりも良い主人だな。仕えるコイツもさぞ喜んでいるんじゃあないか? だがまぁ何だ、もういい。もう退け」

 笑みを浮かべたまま手のひらでしっしと払う仕草。

 (でも……退かないもん!)

 主としての義務でもなく、悪への抵抗のためでもない。私はただ、愛する人を守りたい。その意思を込めて、目の前の影を睨み付ける。

 彼に私の考えが伝わったのか、溜息を吐いて無造作に左爪を振り上げた。彼は、私の事を斬り捨てるつもりのようだ。

 だが、目は閉じない。絶対に。ついに振り下ろされた爪は風を切り裂いて私の頭目掛けて――

 「フン、少々遅いお目覚めだな」

 ――私の肩越しに伸ばされた腕、そこから伸びた爪が黒い人狼の爪を受け止めていた。

 私が振り返ると、そこには涙を流して前を見据えるシロがいた。彼は私を見ることはなく、ただまっすぐを見つめている。

 「シロ……!」

 喜びの声を上げてしまった。やはりシロは絶対に負けない!

 だが次の瞬間、私はシロの発した言葉に耳を疑った。

 「――――――――――――――兄さん」



 歪む視界の向こう、女の子が手を広げてルッガに立ち向かっている。揺らめく影に挑むその姿は、白く輝いて見える

 走馬灯のように流れ、脳に焼き付けられていく"記憶"は、全て私の物だ。いや、私の物だった、と言うべきか。一度失ったはずの物が私の意志とは無関係に押し付けられた。

 お嬢様と慕っていた少女との暖かな思い出。気の合う同僚との楽しい思い出。せめぎ合うもう一方の記憶は暗く、冷たい。汚濁に身を沈めていた時の思い出だ。

 (そうか……私は…………)

 全て、思い出した。自分が何者で、何故行き倒れ、何故ルッガに懐かしさを覚えたのか。 

 カチリ、と噛み合った歯車。停滞していた思考が急加速し、混濁した意識がはじけ飛んで世界が晴れた。そしてそこには、爪を振り下ろそうとするルッガが……いた。

 (危ないッ!)

 それでも立ち塞がるお嬢様。私は反射的に右腕を伸ばしてその爪を受け止めた。

 金属同士が擦れるような音と共に火花が散る。予期していたほど強い衝撃ではなかったのは手加減していたからだろうか?

 「ふん、少々遅いお目覚めだな」

 呆れ返ったその声が親しみのあるものに聞こえるのは記憶を取り戻したためか。彼の鼻にかかった気だるい口調は今でも変わらないようだ。

 (そうだ、私は賾虚の一員――"白狼拳"のルッゾ=ガアフ=フェイ=ロウフ=イェ=ィエン=ファンだ。そして、目の前にいる人物こそ私と唯一血が繋がった家族、"黒拳獣"のルッガ……)

 厳しい顔で睨みつけてくるルッガと目線が絡み合う。私の口から自然と洩れ出た言葉は、あまりに懐かしい呼称だった。

 「――――――――――――――兄さん」



 「え……?」

 突然のことにお嬢様は驚き、言葉を失ってしまったようだ。

 「思い出した、か……」

 ルッガは表情こそ崩さなかったが、鍔迫り合っていた爪を引っ込めて数歩後ろへ下がる。

 「えぇ、あなた……ルッガは私の兄、ですね? そして私の名前はルッゾ、ルッゾ=ガアフ=フェイ=ロウフ=イェ=ィエン=ファン。そして――私も賾虚ですか?」

私の問いにルッガは目を細めて薄く笑う。

 「話し方と性格までは元には戻らない、か。いかにも、俺とお前は兄弟だ」

お嬢様は息を呑んだが、私はその事実を兄から聞き、今まで抱えていた疑問が氷解し、やっと己の存在に納得がいった。この記憶は本物のようだ。

 「シロ……どういうこと?」

 振り返って私に訊ねてくるその姿は、何処か怯えているようにも見える。

 (それもそうか……)

 信じていた人が、敵だと思っていた人物と突然話し始めた。お嬢様には何がどうなっているか分からないはずだ。

 私がルッガに目配せすると「どうぞお好きに」と肩を竦めた。

 「お嬢様、私は拾っていただく以前の記憶は失っていると申し上げたと思います。ですが、ルッガ……つまり、私の兄のお陰で全てを思い出すことが出来ました。私の本当の名前はルッゾです。そして、兄と同じく私も賾虚の一人です」

 兄と私は、物心つく前から賾虚に居た。来る日も来る日も人を殺す訓練。そこで或る人狼の手解きを受けて私たちは今の力と技を身に付けることになった。兄とは二人三脚、一蓮托生、共に背中を合わせて闘い続けた。だが、その辛く、鬱屈した生活はある日突然終わりを告げる事となる。とある任務でしくじった私は身体に大怪我を負い、そして逃げるようにドブ川に飛び込んだ。半死半生、残った力を振り絞って路地裏へ這って……お嬢様に助けて頂き、今へと至る。

 「正しくは"元"賾虚だがね」

 兄は笑みを絶やさず、補足するように付け足した。

 「ルッゾ、お前は知らないかもしれないが、賾虚の中でお前は死んだことになっているのさ。だからお前は俺と違って殺し屋でも何でもないんだよ」

 へら、と笑う兄は何が面白いのか手をひらひら泳がせる。

 「シロ……」

 涙に濡れた瞳が私を穿つ。お嬢様の気持ちが痛いほど分かる。私がシロではなく、他の者に変わってしまったのではないかという不安。だからこそ、私は。

 「大丈夫ですよ、私はどうあろうと桜さまの従者です」

 手を握った。小さく、柔らかい手。私はルッゾであり、シロだ。そして守るべきは、我が主である幼き少女。私はただ、己の職責を全うするだけ。

 手のひら越しに伝わった気持ちは瞳に宿り、私にその事を如実に教えてくれた。

 「シロは私の味方なんだよね……?」

 「ええ、いつ如何なる時でも私はお嬢様の味方ですよ」

 花が咲くようにぱっと笑みを浮かべる姿に、私も自然と頬が緩む。

 掴んだ手をそのまま、立ち上がってお嬢様のことも手で引き上げた。そのまま「失礼しますね」と背中の裏へと隠す。ルッガへ再び対峙する私は傷付きこそすれ、気力は先ほどとは比べられないほど充実していた。

 「話は終わったようだな。ったく、執事ってのは大変だねぇ」

 「ふふっ、そうでもないですよ。毎日驚嘆と冥利に満ちていますので。仕えて初めて分かる悦びと言うものでありますし」

 軽口を叩く程度には余裕が沸いてきた。兄の性格については良く分かっているつもりだが、一縷の望みを賭けてみる。

 「兄さん……引いてはくれませんか? 私は肉親も家族も失いたくありません」

 だが、歪む口から吐き出された言葉は私の予想通り、

 「そんな風に敵を説得するのが従者の務めか、ルッゾォ? 立ち塞がる敵は全て倒す、それが貴様の仕事だろうがッ! 来い、我を通せ! "白狼拳"の名が泣くぞ!?」

 吼えた。やはり、兄は相変わらず厳しく烈しい性格のままだった。幼い頃、よく兄に叱られていたのを思い出す。

 兄の隻眼が炎の如く燃え上がる。もう先ほどのように手加減などする気は無い、そう瞳が告げていた。

 飛び出そうとした私は、己の服の裾を掴んでいるお嬢様に気づいた。不安が滲みそうになるも、それを耐えて無理やり笑顔を作ってくれる。

 「頑張ってね、シロ!」

 激励を受けた私は無言で頷き、走り出した。

 


 次回の更新は日曜を予定しています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ