1-3
前回上げられなかった部分を上げてしまいます。
横に寝ている少女は、すやすやと寝息を立てている。月明かりは眩しく、窓から少女を照らしていた。
「………………」
自分は此処に居るべきではない。ひいては、この少女の傍に居るべきではないのだ。この子の両親は「いつまでもここに居てくれて構わない」と言っていたが、なおさらだ。俺の胸の中の何かが、それを許しておこうとしない。
「シロぉ……」
俺を新しい名前で呼ぶ少女。彼女は俺の毛皮を掴んで離そうとしない。だが、俺はその指を一本一本ゆっくり剥がしていく。思えばここに来てから色々なことがあった。面倒だ、煩わしいと思っていたこの少女の事も今は大切に思える。
きっと、俺の人生の中で最も穏やかな時間だっただろう。過去のことは分からないが、それで良い。
音を立てないようにベッドから抜け出す。勿論、少女に布団を掛け直す。
ここでは沢山のものを貰った。それは数え切れないほど沢山だ。だから――そう、せめて”シロ”という名前だけは此処に置いていこう。俺はまた、ただの人狼に戻ろう。
名残惜しい温かさを残して、俺は部屋から出て行く。とにかく、何処かへ。此処じゃない何処かへ。
廊下を音も立てずに駆けていく。傷が癒えたこの身体は、記憶に無い古傷だらけだ。そして、自分でも驚くほどの運動神経。間違いなく、『何か』をしていたのだろう。それはきっと日の目に触れてはいけない汚い職業だ。そうでなければ、あんな路地で行き倒れているはずが無い。
薄暗い廊下を通り抜け、階段を下り、一階へ。玄関から出ると誰かに見つかるかもしれない。窓から出よう、そう決めたとき
――――――ガシャン……。
遠くからガラスの割れる音が聞こえた。窓を開けようとしていた手が止まる。一体どうしたのか。見に行くべきか、気にせず出て行ってしまうか。スキュラの使用人は……あぁ、今日は出掛けるとか言っていたな。じゃあ今、この家に居るのは両親と使用人、それに少女だけだ。どうしようか。
窓枠に身を乗り出して悩む俺を動かしたのは、泣きながら俺を呼ぶ、少女の声だった。
「…………シロぉ……!」
遠くから、確かに俺の耳に届いた。それはもう、俺が手放した名前。もう俺のモノではない名前。それがどう言った意図で発せられた言葉であるかは俺には分からない。だが、呼ばれた。此処に居るただの人狼を”シロ”と呼んで。呼ばれたんだ。ならば―――走れ!
踵を返し、先ほどよりも迅く、出来るだけ迅く脚を動かす。一息で廊下を端から端へと駆け抜ける。その勢いを殺さず、階段は壁を蹴って宙を舞う。一瞬、一階の廊下の窓が破かれていたのが視界を掠めた。恐らく、ここから何者かが侵入してきたらしい。
相手は何人か? どんな武装をしている? どんな闘い方をしてくる?
あらゆる疑問は、一つの答えに収束した。
「全員、殺す」
口から突いて出た物騒な言葉。しかし、俺は確信する。この身体ならやれる。この俺ならやれる、と。
二階の廊下に着地。少女の部屋の扉は―――開いている! 音を立てずにその部屋まで進み、心を”在るべき”地点まで落とし込む。それだけで、世界は変わる。
闇はほどよく俺の姿を隠してくれる。極限まで集中力を引き絞り、部屋へ飛び込んだ。
「――――――っ?」
部屋には巨鬼族、小鬼、人間、鳥人族の計四人。いずれも男。小鬼の手にはダガー。人間の男の手には一振りの刀。あとの二人は無手。
少女にナイフを押し付けている小鬼とそれを眺めている鳥人族の男。二人はまだ俺の存在には気付いていないが、扉付近を見張っていた巨鬼族の男が俺の存在に気付くのは時間の問題だ。今も訝しげに闇を覗き込もうとしている。俺はまず、コレを最初の標的と定めた。
脚の筋肉を爆発させるように加速。そして跳躍。横への加速をそのまま強引に縦への力に換えて、右脚を思い切り巨鬼族の首筋へと伸ばす。普段は隠している爪が飛び出し、そのまま男の首を――刎ねた。
闇夜に瞬く銀月の煌き。
恐らく影が飛び出し、目の前で回転したようにしか見えなかったはずだ。影が顔を覆う時には既に、その首は胴体から離れて空に浮かんでいた。
その西瓜ほどある頭が落ちるより速く、次の標的へ。しかし刀を持った男はいち早く異変に気付いたようだ。
「てめ……チィッ!」
走り寄る俺目掛けて、腰溜めした居合い抜きを放つ。予測していた動きは思ったより緩慢だ。そのまま屈んでやり過ごし、喉に右手の爪を捻じ込もうとするが―――
「キエエエエエッ!」
人間の背中の影から、小鬼がダガーを突き出して飛び出してきた。絶妙なタイミングでの奇襲。この小鬼を始末するのは簡単だが、そうすると返す刀で人間に斬られる。だからと言って小鬼のダガーを無視するわけにはいかない。ならば――
「なッ!?」
顎で小鬼を噛み砕きながら、人間を切り裂くのみだ!
大口を開いて、小鬼を喰らう。交差する刹那、小鬼の顔を食いちぎった。鮮血が飛び散り、俺の顔半分を真っ赤に染める。口内からも血が溢れ、顎を伝っていく。
赤い、赤い衝動。それはそのまま刀を振り抜いたままの男にぶつけられた。
開いた胸に肘を叩き込み、押し飛ばす。
離れ、咳き込む喧しいその喉に爪を突き刺す。
「がぽ……」と奇妙な声を上げて崩れ落ちる人間の男。その身体に、口から真っ赤な肉塊を吐き出した。
一瞬の攻防で三つの死体が出来上がった。俺の目の前には驚き、思考停止している鳥人族と―――涙を流し、呆然としている少女がいた。
少し、寂しさを覚えたが、俺はもう『シロ』じゃない。俺はただの人狼。人狼は、目の前に立ちはだかる敵を食い散らかすだけだ。
「う、うおおおおおおおおおおおおお!!」
自暴自棄になった鳥人族の男はその背中に生えた翼をはためかせて飛び掛ってくる。発達した両足には、小鬼が持っていたダガーよりも鋭い爪が備えられており、アレで俺を引き裂くつもりなのだろう。 抜き身の殺意は、この俺の底のソコに隠されていた何かを引き摺りだした。
(全く、全く甘い。その程度では、この俺の―――を越える事など出来はしない!)
ズキリ、と頭が痛む。何かが俺の頭の中を掠めていった。それはとても大切なもので、――と共に血が滲むような努力の下に……。
タガが外れ、瘡蓋が剥がされるように、記憶が頭の中に溢れる。しかし、それも迫り来る無数の爪の前に掻き消されてしまい、滲みそうになるも、
「俺は……ウァァァァァァァッ!!」
ひび割れた心が軋み、俺に叫び声を上げさせる。バラバラになった記憶の断片が次々と俺の手から零れ落ちていく。
襲い掛かる爪/見知らぬ人狼の背中。
少女の泣き顔/いびつに割られた饅頭。
むせ返る血の臭い/己の爪にこびり付いた黒い血。
月明かり差すベッド/刺され、ドブへ転げ落ちる自分。
血走った鳥人族の眼/微笑みかける優しい真っ赤な瞳。
『オレガオマエヲマモッテヤルカラナ』
俺が知らない、懐かしい声。
『ダッテオレハ、オマエノ――ダカラ』
ノイズだらけの記憶は、その言葉を最後に暴走するのを止めた。途端に世界はグルリと変わり、現在自分が置かれている状況を再認識させた。
「おおおおおおおおおおッ!!」
目前の爪。俺の顔を引き裂かんとする目論見を阻止すべく、その脚をしっかりと掴んだ。
両者、一瞬の硬直。先に動き出したのは俺だった。
「はぁ……!」
呼気を吐き出し、脚を掴んでいる手を捻る。頭に描くのは、水の奔流。己の内で荒れ狂う濁流を支配し、向かうべき先へと。
硬直によって生まれた力の均衡は、俺の操るまま思いのまま動かされる。
まずは下へ。それに伴い、鳥人族の身体も捻られて下へと落ちていく。
次は上へ。一度は沈んだ身体は、その反動に翻弄されながら中空に。
男は自分の身体に何が起きているか理解できないようだ。まさか、右手一本の僅かな動きだけで振り回されるとは、にわかには信じられないのだろう。
その驚きも、そのがら空きの身体も、俺にとってはただの好機。手を離し、呼吸を整え―――
「―――鉄狼鐘!」
不意に叫んだその言葉は俺の知らない単語だった。だが、俺の身体はソレを覚えていたようだ。
軸足を捩じり。
身体を回転させ。
肩と背で敵を砕く。
言うなればそれは、己の身体を巨大な拳とするに等しい。純粋な筋力による加速、体重を乗せた軸回転、その溜め込まれた力を放つために足を踏み込むと床はその力に耐え切れず、叩き割れた。
吹き飛びそうな意識にしがみ付き、己の身体を手繰る。全ては刹那の出来事。一瞬の空白、そしてついに―――爆発した。
まずは振動。次に衝撃。最後に音。振動は視界を揺らし、衝撃は空間に響き、音は屋敷を軋ませる。
肩と背に奔る痺れ、それは勝利を確信させるには十分な手応えだった。その証拠に俺の技が直撃した鳥人族の男は、壁をぶち破って中庭へ落ちていた。片翼は捥げ、顔はひしゃげ、手と足が明後日の方向を向いている姿は、ここからでも生きているとは思えない。
全ての脅威を排除した俺は、肩に貼りついた羽を払いながら少女の安否を確認する。
「……大丈夫だな」
こいつらが何の為にこの屋敷へやって来たかは分からないが、少女には怪我は無い。今もただぼんやりと俺を見ている。
綺麗だったシーツには血が飛び散り、部屋には肉塊と大穴。そして、その中心にいる俺は血で毛を濡らし、熱い息を吐いている。後はそう、一番の脅威である俺がこの部屋から出て行けば、万事解決だ。
俺は少女に背を向ける。片手を挙げて別れを告げると、部屋に開けた穴から飛び降りようとする―――
「おいおい……」
尻尾が掴まれた。振り返るとそこには、涙を目に溜めた膨れっ面の少女が。何をどうしても泣き出してしまいそうだ。それよりも、早くしないと誰かがやって来てしまう。
「どうしたもんかな……」
怒っているのだろうか? 裏切られたと感じているのだろうか?
「世話になった。さよならだ」
さらに強く、尻尾が握られた。涙もはらはらと頬を伝っていく。
「シロぉ……」
砕けた記憶の欠片はそれを俺の『名前』と認めようとしない。だが、俺の中の現れた「拾われた人狼」は『名前』で呼ばれたことを喜ぶ。俺は……誰なんだろうか? 俺は何処に居るべきで、何処に行くべきなのか?
「シロ……」
分からない。この子の傍に居てあげたいと思う。だが、迷惑は掛けたくない。俺はきっと「違う」んだ。それはもう、先ほどの戦いで確信した。嫌というほど現実を見せ付けられた。
疑問ばかりが浮かび、沈む。だから、そう。せめてこの子が泣き止むまでは傍に居てあげよう。
「あ……」
そう決めると、いつものように屈んで少女に目の高さまで腰を下ろす。片目を閉じ、待つ。そうすると、いつもの重みが首と肩に掛かる。首に回された心許ない細腕。俺は、少女を両腕で支えると立ち上がった。
肩に座る……と言うよりは凭れ掛かっているという状態に近い。ぷしっぷしっ、と鼻息が頬を撫でる。俺には見えないが、満足げな笑みを浮かべているのではないだろうか。
「ずっと、いっしょっ」
「……………………」
俺が何と返そうか迷っていると、規則正しい駆け足とともに少女の父親が現れた。こんな時間にも係わらず、パリッとしたシャツとジャケット、スラックスを着込んでいるのは吸血鬼ゆえだろうか。
「あぁ―――なるほど。これは君がやったのだね?」
落ち着きを払った態度。揺らぐ事のない姿。まるでそこにいるのに、額の中の絵を見ているような錯覚に陥る。目の前にいる紳士からは生きている気がしないのだ。
この人物がこの少女の父親。俺はまだ名前は知らないが、普段からの立ち振る舞いからそれなりの身分の高さを備えているのだろう。今もステッキを片手に、口元の髭を撫でている。
「……はい、そうです」
嘘をつく必要は無い。だからと言って胸を張る必要も無い。どちらにせよ、自分はすぐに出て行くのだから、悩む必要すら無いはずだ。
「この子が落ち着いて、寝付いたら出て行こうと思います。お世話になった貴方たちに迷惑を掛けたくない」
「迷惑? 迷惑とは一体何だね? 君は私の愛娘を守ってくれたのだろう? 一体君は何をもって迷惑と言っているのだい? 君の生まれか? 君の力か? どれもこれも、大した事では無いだろう? 今のご時世、そんな過去など誰でも背負っているものさ。それとも君は自分だけが特別だとでも? 自分だけはありきたりな日常には馴染む事が出来ないとでも? そんな感傷など誰でも持っているものさ。はたして君は子供なのか大人なのか? 子供ならここで守られていなさい。大人ならそんな独りよがりな考えは捨てるべきだ」
次々と投げかけられる質問の多さに、俺が答えられずにいると、
「そもそも君は、桜に拾われてこの家の門をくぐった時点で私たちの家族だ。家族は家族に迷惑を掛けるのが当然だ。だが、勝手に家族を辞めるなど言語道断、私は決して許さない。……君が私たちに「迷惑を掛けたくない」と言ったのは、それなりに私たちを大切に思ってから、と自惚れても良いかな?」
「……確かに、俺は貴方たちに感謝もしているし、情も湧いている。だからこそ、です。俺は出て行くべきだ。俺がここに居ても出来る事など何も無い」
決別の意味も込めて、そう告げた。俺に出来る事が無ければ、此処に居る意味も家族である意味もないのだから。
だがしかし、目の前の紳士は俺の言葉に笑みを浮かべた。まるで「良い事を聞いた」と悪巧みを考える小鬼のように。
「だったら私の娘を護ってくれないか? それだけ強いんだ、どうって事は無いだろう? キヌだけではさすがに限界だろうし、私たちとていつも屋敷に居るわけでも、ましてや娘の傍に居られるわけでは無いからね。……恥ずかしい話、もっと娘と共に過ごすべきだとは思うが、時代がそうさせないのだよ。おっと、すまない。これは愚痴だね。つまりは―――そう、頼りになる護衛が欲しい。どうだろう、君なら出来るんじゃないだろうか」
今回は結果として「護れた」に過ぎない。次はどうなるか分からない。とてもじゃないが、俺には護衛など出来ない。その旨を伝える。
「……俺に出来る事なんて、殺す事だけです。誰かを護るための力じゃない。こんな汚れた力なんて……」
無意識のうちに握り締めた手が酷く痛む。その手には誰のものか知らない血が。多分、この手はこうして何度も血に染まったのだろう。
ステッキを床に突く音が、俺の沈んだ顔を上げさせる。
「君は殺す力で良いのか? そうしてただ誰かを傷付けるだけの力で満足か? ……その力で誰かを護れるなんて、存外に愉快なものじゃないかな? なに、護り方なんてこれからいくらでも学んでいきたまえ。私としても協力を惜しまない、何せ娘と家族の為だからね。何だったら護衛じゃなくて執事でも良いぞ、ん?」
ハッハッハ、と乾いた笑い声はとことん血生臭いこの部屋には似合わない。吸血鬼にとっては血の臭いなど晩餐のしたたる肉汁と変わりないのかもしれない。
「――分かりました。命も身体も心も、この家に」
説得された……というよりは、俺の本当の”気持ち”に気付いていたのだろう。少女の父親にとっては子供をあやすのと同じだったのだろう。俺は、そんな自分の幼さを恥じた。
「うむ、ありがとう! ありがとう、ありがとう!!」
両腕を広げて笑う吸血鬼の瞳は赤く輝き始める。微笑で歪む口元からは二本の牙が。風も無いのにゆらめく髪は、水面にたゆたう水草のようにも。
(俺はもしかして……とんでもない軽はずみな決断をしてしまったのでは……?)
俺がいくばくかの不安を覚えているとも露知らず、
「おおっ! なんと喜ばしい事か! 桜もついに吸血鬼として”成長”したか! 初めて愛しい人から血を飲みたいと思ったか! ならば、”家族を増やす”のは桜に任せようっ!! シロ、首筋を曝け出して”家族”になる準備をっ!!」
酔いしれて叫ぶ。俺はこの時になって気付いた。己の肩に乗せていた少女が目を妖しく輝かせ、その蕾のような口から可愛らしい棘にも似た牙を出していたことに。
「……怖がることはない。これは”誓い”のようなものだ。人と人が出会った時、握手をするだろう? 恋人と恋人が愛を囁く時、口づけを交わすだろう? それだけのこと、それだけの事だ!」
「ちょ、ちょっと待っ―――――痛ッ!?」
かぷ、という甘噛み。次いで、首に鋭痛。細長い牙が肉を押し分け、内部に入り込んでくる感覚は、激痛と呼んでも差し支えないだろう。
深々と刺さった牙は、血管を探し当てるとそこへ猛烈な勢いで穿ち、抉る。流れ出す血液、流し込まれる何か。
俺はこの時になって”家族”の指し示す意味を知った。この行為によって、俺は”家族”となるのだろう。それは「血の繋がり」、「家族の絆」と言った不確かなモノにも似た、曖昧なものだった。
次は少し、間が空くかもしれません。申し訳ないです。
もし、何か改善点などがありましたら教えてくださるとありがたいです。