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前作から間が空きましたが、どうかよろしくお願いします。
時は十二咲八年の秋。とある島、とある港町、とある人狼と少女がいた。
人狼は己を苛む覚えのない記憶に苦しめられながら執事となり、
少女は兄のように慕う人狼の苦しみに触れることが出来ず主となり、
それでも幸せに毎日を過ごしていた。
そんな二人に忍び寄る”過去”という影は、どこまでも追いかけて来る。
人狼はその過去に立ち向かうこと事を決意し、
少女は彼の過去を知ることを強く望み、
少しだけ。端から見たらそれは小さな進歩にしか過ぎないが、ほんの少しだけ”先”へ進むことになった二人。この物語はそんな二人の、きっかけの物語。
彼らの往き路は他の者たちに比べると危なっかしく、おっかない。それでも手を取り合い、進む彼ら。二人を迎える過去と未来は、一体どのようなものか。期待と緊張を以て見守ろう。
それでは――
「遅いですね……」
思わずそんな声を漏らしてしまい、即座に「執事失格だな……」と己を叱責する。
私――シロはお嬢様の通う学校の前、校門で空に浮かぶ太陽を睨み、授業終了の鐘の音を心待ちにしていた。
いくら季節が秋になったと言っても、残暑はまだまだ厳しい。その上、分厚い毛皮を纏った身体の上にきつめのスーツを着るというのは中々に堪える。押し潰された毛がまるで断熱材かの如く、熱を外に放出するのを遮っている。とにかく、暑い。
恐らく暑いのはそれだけが理由じゃない。あの果てしなく広がる海からの照り返しも、私を苦しめるのに一役買っている。
ここは”浮原”。秋皇の帝都から東の、海に面した港町。およそ山と海岸線に挟まれたこの地には、農作物が山ほど実る”恵まれた土地”などはない。この地はご多分に漏れず、目の前の海原からの富と、帝都への”海の玄関”として栄えたのだ。古くは、この秋皇という列島へ成った竜、その竜の腹に位置するのがこの浮原であるいうおとぎ話がある。
そのおとぎ話では昔々、天に逆らった竜がいたらしい。その竜は天に逆らい、牙を剝いた。そうすると天からは雷が落ち、それは天を駆ける竜の腹を貫いたそうだ。そして竜はそのまま海へと墜ちて、神の命によって島となったのだ。浮原はその破けた腹の地であって、そのため海岸線はズタズタに裂けたように入り組んだ形となり、流れ出した血と臓物に誘われた魚たちが大量に獲れるそうだ。
果たして、そのお話が本当であるかどうかなどは私には分からない。しかし、「魚が血に誘われて」だなど考える人物がいるとするならば、その人物は後世に生きる者たちの気持ちなど全く考えようともしない、デリカシーの欠けた人物なのだろう。
そんなことを考えていると、空を突き抜ける鐘の音が。それと同時に子供たちの騒がしくも晴れやかな騒ぎ声と地響きが校舎から鳴り渡る。
私以外にも何人もの従者が校門で待機している。私含めて彼らが今考えているのは、『何よりも速く、自分の主を見つけること』、それだけだろう。
まず校舎から元気よく飛び出してくるのは低学年の子供たちだ。まだ買い与えられて間もないと見える制服は、既に彼らの成長の早さについていけず、寸の合わない物になっている。
続々とあふれ出す子供たち。そのまま私の横を駆けて家路に着く子供もいれば、従者に抱きつき、手を繋いで帰る者もいる。行き先の違う彼らが唯一共通しているのは、その輝かしい笑顔だろう。
或る少年は己の幼い翼を羽ばたかせて空を往く。或る少女は巨鬼族の従者の背中にしがみつき、抱っこされて帰っていく。或る子供たちの一団は、「誰が一番足が速いか」を決めるべく、校庭の端を駆け回っている。見ている限りでは人虎の少女が一番だが……馬頭族の少年が後から追い抜いていった。
そんな様子を目端で眺めながら、お嬢様を待つ。この時ばかりは暑さに文句は言っていられない。ある意味、一日でもっとも緊張する瞬間だ。
騒がしさに身を任せ、時が流れるまま待つ。そして、校舎の暗がりからおずおずと姿を現す少女を私は見つけた。俯きがちで、猫背。その上、顔の半分を覆うような大きな眼鏡とウェーブの掛かった長い髪が顔を隠しており、表情が全く読み取れない。その少女はその小さな身体には不釣合いなほど大きい本を胸に抱きしめ、一歩一歩ゆっくりと校庭を歩いてくる。
あの人こそ私、シロの主人。私が守るべき対象――ファ氏族スニーラーク家の一人娘、桜さまだ。
「お嬢様! ここです、ここですよ!」
私が声を掛けると勢い良く顔を上げ、キョロキョロと辺りを見渡し始めた。そしてありがたい事に私を見つけていただけたらしく、こちらへ小さな身体を弾ませて走って来られた。
今にも折れてしまいそうなほど細く、白い足。その足が一生懸命、前へ前へと運ばれる。何となく私はその足取りを見て「いけない」と思った。これは「転ぶのではないか?」と。
「きゃっ!?」
不安は的中。お嬢様は己の足で己の足を引っ掛けるという何とも”らしい”ミスで身体のバランスを崩された。
しかし、その時既に私の体は動き出していた。砂埃すら遅れて舞うほどの迅さで地を疾走する。
お嬢様は前のめりに倒れようとしている。私はお嬢様と地面の隙間を埋めるように滑り込み――己の身体で受け止めた。
ぼふ、と柔らかい音が立った。こうしてお嬢様のクッションとなる時だけは、己の体が毛で覆われていることを神に感謝する。心の片隅で感謝を捧げながら、左手で落ちてきた眼鏡をつまんだ。
「大丈夫ですか、お嬢様? どこかお怪我は?」
「え、あ……ゴメンねシロ! シロこそ怪我は――ってゴメン! 今退くから!!」
私の負担になると思ったのだろう、お嬢様は慌てて立ち上がろうとする。だがしかし、眼鏡が外れているということはつまり、何も見えないわけで……。
「きゃあああああ!?」
「グフッ!?」
またも思い切り転ばれた。しかも、肘を曲げていたため私の鳩尾に綺麗に肘鉄が入った。さすがの私もこれには平静を保っておられず、苦悶の声を上げてしまう。
「ご、ご、ご、ゴメンね!? 今すぐ、今すぐ退くからーっ!」
いけない。この調子では絶対に次も転ぶ。私の長年の経験からして、次は頭突きが来る。私は我慢できるが、お嬢様が傷つくのだけは容認できない。私は左手で眼鏡を差し出し、
「お、お待ちくださいお嬢様! 是非とも眼鏡をつけて頂けると私も非常にありがたいのです!! 世界は虹色、私は晴れやか、お嬢様も最高です!」
焦りのため多少、文法がおかしくなってしまったが私の気持ちが伝わったので良いとしよう。お嬢様は私の手から眼鏡を受け取り、掛けようとして――弦を目に突き刺した。
青空に吸い込まれていく、この日何度目かとなる悲鳴を上げる少女。この人こそが私の仕える主、高貴なる血を継ぐハーフ・ヴァンパイアの桜さまだ。
やっと落ち着いたお嬢様は、赤く腫れた目を擦りながら私に頭をお下げになった。
「本当にゴメンね、私がもっとしっかりしてればシロにも迷惑を掛けずに済むのに……。私、何でこんなにドジなんだろう……」
落ち込み、萎れたその姿はいつもにも増して小さく、そして幼く見える。こう見えても十と半ばを過ぎている。しかし、こうしているとまるで低学年の子と同じだ。これが、吸血鬼の血が為せる技だろうか。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
私は自分に言い聞かせるようにして言葉を紡ぐ。
「私はお嬢様の一部、身体の一部です。お嬢様の身体の中で一番頑丈で、便利な部分。それが私です。私のことは是非そのように扱ってください。足が疲れたからといって文句を言いましょうか? 目が何も見たくないと怒ることがありましょうか? それと同じで私がお嬢様に関することで気分を害することなど一切ありません」
そして、間断なく重ねる。
「打ち棄てられていた私を拾ってくださったお嬢様の為に働くことこそ私の喜び。一度は失くした名前を与えてくださったお嬢様の為に奉仕することこそ私の喜び。消え去った記憶を共に築いてくださったお嬢様の為に生きることこそ私の喜びでありますからに」
全て、私の本心だ。誰かに強制されたものでも、植え付けられたものでもない。私自身の魂がそう言っているのだ。お嬢様の御身の為に生きることこそ”生きがい”だ、と。
「う、嬉しいけど……ううん、何でもない。じゃあ帰ろ、シロ」
一度、お嬢様の顔に何か影が差したように思えたが、それをすぐさま笑顔で塗りつぶしてしまわれ、私は何も問うことが出来なくなってしまった。
「今日は古書店へは寄らなくて良いのですか? 桟橋へは?」
いつもだったらこの後、古書店でお嬢様が心ゆくまで古本を漁るのだが、どうやら今日は違うらしい。海も見に行かないとなると、まっすぐ屋敷へと帰るということなのだろうか?
「うん、今日は暑いし帰ろう? シロも暑くて大変だったでしょ?」
見透かされていたか、と己がお嬢様に気を使わせてしまったと反省する反面、私の事を考えてくださる優しさに幾ばくの嬉しさを感じた。
「……分かりました。では、お乗りください」
私は屈み、お嬢様が乗りやすいように背を晒す。そこへ「お世話になりますっ」という声と共に心地よい重みが圧し掛かった。
お嬢様の通学は私がこうして言葉通り『足』となって済ませている。理由は簡単だ。少し前に造られた鉄の馬、人力車、人馬族の代行のどれよりも私が担いで走ったほうが速いし、安全だからだ。もっとも、お嬢様の『徒歩』が危ない、という稀有な個性も理由の一つではあるが。
両手を後ろに回し、臀部と腰を固定する。特製にあつらえてもらった靴で何度か地面を叩くと―――私は走り始めた。
海に背を向けて走る。上半身が揺れぬよう、細心の注意を払って足を動かす。
浮原は港町、自然と高低差が激しい町作りとなっている。屋敷は山の入り口近く。この海を眺むる学校からは大人の足でもかなりの時間を要するだろう。しかもこの暑さなら尚更、だ。
しかし、人狼の私には問題とはなり得ない。持って生まれたしなやかな筋肉とバネのおかげ……と言うのもあるが、私の体はそれなりに鍛えられており、他の人狼と比べても体力は段違いだろうと自負している。
昇っては下り、下っては昇り。人と人との隙間を吹き抜ける風の如く、走る。海から吹く風は緩やかに、私の起こす風は凄まじく。潮の匂いから離れれば離れるほど、屋敷へと近づいているという実感が得られる。商店が立ち並ぶ坂道は流れ、滲んでいるようにも見えた。
「シロは本当に速いねー。私は夜じゃないと走るなんて無理だなぁ……」
お褒めの言葉を授かり、思わず鼻がひくついてしまった。見られていないと良いのだが。
「人狼であります故にこの程度は」
「私もこのぐらい速く走れたら気持ち良いんだろうなぁ……」
溜息を襟足に感じ、どうお嬢様を励ますか考える。安易な励ましは何の支えにもならない。過剰な励ましはただの毒。一体どうすべきか。
「……人には得手不得手があります。私は身体を動かすことには絶対の自身を持っていますが、異国の事情になど明るくありません。それどころかこの世の理など全くもっての門外漢であります。生き物とは他人のほんの少し秀でたところをひどく羨ましがる性分を持ち併せているものでありますからに」
結局、安易なものを選んでしまった。そんな自分を殴りつけてやりたいと思っていると、
「私の知っていることなんて、本を読めば誰でも勉強できるもん。でも、シロみたいに速く走れるのは才能でしょ? 才能はどんな本を読んでも手に入らないよ……」
少しお嬢様が落ち込んでいた。その様子にいつものものとは違い、何とも言えない違和感を覚え、思わず訊ねてしまった。
「何か学校であったのですか? よろしかったら私にお教えいただけますか?」
「……お父様とお母様には言わない?」
一瞬悩み、優先すべきはお嬢様の悩みを共有すべきと判断。
「お嬢様に戴いたこの名に誓って」
ぅん……、と小さな頷きは風にかき消されそうになりながらも、私の耳に届いた。
「実は、ね。また『ネクラ』って馬鹿にされちゃった……」
またか、と怒りが沸々とこみ上げてきた。
お嬢様はその性格と容姿からよく軽んじられることがある。もう十年近くお仕えしているが、その回数たるや驚くばかりだ。
私が供に居るときならば良い。私が睨みを利かせたり、その場で謝罪を要求することが出来る。だが、学校ではそうはいかない。あそこは社会とは断絶された空間だ。必要とされるのは「協調性」とかいう糞の役にも立たない鎖のみだ。
先ほどは「お嬢様の身体の一部」とまで言った私が出来ることが、ただ矮小な己を卑しい怒りに晒すことだけというのがどうしても歯がゆく、滑稽だった。
「左様で、ございますか……」
思わず私まで弱気な言葉を口走ってしまい、どうしようもない怒りを感じた。従順な僕なら、主のことを励ますことが何よりも急務であるはずなのに。
「お嬢様は」と、前置きして言葉を選ぶ。どうすべきか、どうすればお嬢様を励ませるか。しかし私はそれよりも、己の思うがままの本心を告げることにした。
「お嬢様は心優しく、極めて聡明な素晴らしいお方です。家柄も優れ、他の者より豊かな生活を送っていられます。……人とは自分よりも優れた者を認めたがらないモノでもあります。そのため、引け目がある者はお嬢様と対峙すると己の矮小さを嫌でも目にすることとなり、それ故にその醜い自分から目を逸らす為にお嬢様を貶すのです」
あと数分で屋敷に着く。駆け上る坂からは商店は無くなり、立ち並ぶのは民家のみ。人もまばらで、聞こえるのは遠くの雑踏から響く喧しさ、そして私の呼吸とお嬢様の心音だけだ。
「心弱き者たちに寛容と慈悲を、桜さま。怒りはどうぞ、私へぶつけてください」
敢えて、滅多に口にしないお嬢様の名前で語りかけた。そして同時に「執事失格だ」と己を詰った。全く何の解決にもならない自己満足な慰め、なにより優しいお嬢様が私に当り散らすことなどあるわけが無い。私はただ、結論から言うと己の浅はかな忠誠心を見せ付けたかっただけなのだ。
何たる無知、何たる無恥、何たる無智! この傲慢さ! 自分で自分を縊り殺してやりたいほどだ!!
脳内で何度も何度も私が私を殺していると、首に回されていたお嬢様の腕が強く私を掻き抱いた。
「うん、何かあったら甘えさせてもらうね? シロに聞いてもらったら少し楽になっちゃった」
その声色はいつものお嬢様のものだった。それだけで私は、救われたような晴れやかさを感じていた。私のような若輩にはもったいないお言葉だ。つくづく、私は主に恵まれたと思う。駆ける足も、何処となく軽い。
無機質な民家が並ぶ坂道から、湿った土と木々が繁る道へ入る。その木陰が与える爽やかさがひとしおなのは、お嬢様の言葉あってこそだと私は確信する。
急な坂道も終わりを告げ、あとはこの緩やかな曲線を描く道の突き当たりにある屋敷まで走れば、私の仕事も一旦終わりを告げる。”終わり”と言ってもそれは『お嬢様の乗り物』から『お嬢様の世話係』へと変わるだけのことだが。私自身、己を『執事』であるというよりも『雑用』、『護衛』、『子守』と、”何でも屋”に近いものだと認識している。それが普通の”何でも屋”と違うのは二十四時間年中無休で、時には命を張り、そしてお客様はお嬢様しか望まないという点ではあるが。
「いつになったら山は紅くなるかなぁ……」
何気なく漏れる疑問は独り言の様ではあったが、
「空が澄み、海が揺らぐことがなくなり、掴雲島と潮珠岩がはっきりと見えるようになる頃には山も紅葉に染まりましょう―――はい、着きましたよ」
答え、たどり着いた門の前で私はしゃがみ込んだ。
もぞもぞと動くお嬢様。「ありがとう、シロ。お疲れ様」という労いの言葉を背で受け止め、お嬢様が完全に降りたのを確認して立ち上がる。
木製の、純”秋皇”風の門はどこか威圧的で閉鎖的な印象を受ける。木と土と鉄によって作られているこの門は、正面に両開きの扉。隅に目立たないように備え付けられている扉と、二つの入り口が設けられている。
「ほら、早く早くー」
既にお嬢様は隅の小さな扉をくぐって門の内へと入られてしまった。私もすぐに後を追う。この身体には小さすぎる扉、どうにか身体を屈めて縮こませて強引に通る。
「おかえりなさい、お嬢様」
庭に出ていたメイドが微笑み、会釈する。お嬢様も「ただいまー!」と笑って手を振る。何とも明るく清清しい光景だ。私も頬を綻ばせて、お嬢様から鞄と本を預かり、追従する。
門と塀に囲まれたソコは、外界の煩わしさから遮断された場所でありながら周囲の自然を取り込む。その”外と内”が同居した造りは、秋皇独自のモノだろう。
張り巡らされた石畳、暗がりへ続く白い漆喰の壁、そして上から覆いかぶさるように伸びた大樹たちの枝たち。黄土色の土が見える空間には様々な種類の背の低い木々が、玉砂利で埋め尽くされた空間には岩と苔によって見立てられた海が。左右対称に立ち並ぶ灯籠が備え付けられた石畳の向こうに見える二階建ての屋敷が、スニーラーク家の住まいだ。
門と庭の装いとは打って変って、その屋敷は町に広がるような平屋ではなく、お嬢様が属する氏族が生まれた土地の物に似せて建てられている。
「ふぅ……」
何度見ても溜息が洩れる美しさだ。秋皇の家は木と土を重んじるのに対して、この屋敷は鉄と石、そして硝子を重んじる。そう、何よりも硝子だ。ありとあらゆる所に窓を作って硝子で閉じる。直接、光を取り入れる手法は、光を「感じさせる」秋皇のモノとは趣が全く異なる。その違いは屋敷全体の形にも影響を与えている。
目前の屋敷を、例えるならばそれは葛篭に似ていると言えるだろう。頑強さと無骨さを感じさせる佇まい。だが透明な硝子の窓が柔らかさと開放感を、随所に見られる花や鳥をイメージした紋様の美しい装飾が華やかさを、絶妙なバランスでそれらが調和して成り立っている。
陽光を浴び、さらに美しさが増す。その屋敷にお嬢様は私へ振り返りながら歩いていく。不思議と、お嬢様はこの敷地の中では転んだり怪我をしたりすることはない。
「今日は何も無かったよね! じゃあ、どうしよっかなぁー」
家庭教師による座学は、本日は休みだ。お嬢様は自由に使える午後のひと時を喜び、嬉しそうに言葉に節を付け、ステップを刻む。
「夕食までは充分に時間はあります。しかし、何よりもまずはお着替え……いや、うがいと手洗いですね」
「んー、シロはどうするの?」
「私は、お嬢様と供に在るだけです」
私の返答が不服なのか、「むぅ……」と頬を膨らませるお嬢様。
「そうじゃなくて! シロが何かしたいこととか無いの?」
「私はお嬢様と一緒に居たいです」
即答する。考えるまでも無く、それが答えだ。我ながら、立派な「犬」だと思う。
「――そう。それじゃあ、一緒に居て」
「了解しました」
ほんの少し、お嬢様が哀しそうだったのは何故だろうか。今の私には、分からなかった。