第四話 社会的制裁と破滅。檻の中の獣と、孤独な冬の空
会議室の空気は、重苦しい沈黙に支配されていた。
長テーブルの上には、私が提出した分厚い資料と、USBメモリが置かれている。
向かい側に座っているのは、人事部長、コンプライアンス室の担当者、そして青ざめた顔をした役員たちだ。
「……真壁さん。ここに書かれていること、そしてこのデータの内容は、すべて事実ということで間違いないですか?」
人事部長の声は震えていた。
無理もない。
私が提出したのは、単なるセクハラ告発ではない。
社内のエース社員による、脅迫、強姦、盗撮、そして継続的な性的搾取の証拠なのだから。
そして同時に、それは私自身の「不貞」と「堕落」の自白書でもあった。
「はい。間違いありません」
私は淡々と答えた。
声に感情は乗せない。
ただ事実だけを伝える機械のように。
「拝島恭也氏による最初の行為は、四月の歓迎会の二次会後、泥酔状態の私に対して行われました。その後、撮影された動画をネタに脅迫を受け、関係を強要され続けました。……LINEの履歴にある通りです」
「し、しかしだね、真壁くん」
役員の一人が、脂汗を拭いながら口を挟んだ。
「後半の動画……これを見る限り、君も、その……同意しているように見えるが? いや、むしろ積極的に……」
言葉を濁す役員。
当然の指摘だ。
私が提出した動画の中には、昨夜のあの「嬌声を上げる私」も含まれているのだから。
「ええ、そうです。否定はしません」
私は真っ直ぐに役員の目を見つめ返した。
「私は、拝島氏による調教……いえ、性的なコントロールによって、正常な判断力を失い、快楽に溺れていました。彼との行為を楽しんでいたのも事実です。ですから、私は被害者面をするつもりはありません」
会議室がざわめく。
自らの恥部をここまで明け透けに語る女社員など、前代未聞だろう。
「私は、社内規定に基づき、どのような処分も受け入れます。懲戒解雇でも構いません。ですが、その前に、拝島氏の行いをすべて詳らかにし、相応の報いを受けさせたいのです」
私が失うものは何もない。
その覚悟が、彼らを圧倒していた。
***
その日の午後、拝島恭也は業務中に呼び出された。
私が待機していた別室のモニターには、彼が会議室に入ってくる様子が映し出されていた。
「なんですか、急に。忙しいんですけど」
不機嫌そうに椅子に座る拝島。
しかし、目の前に並べられた証拠写真とLINEのプリントアウトを見た瞬間、彼の表情が凍りついた。
「な……なんだこれは!?」
「君の部下、真壁さんからの告発だ。警察にも被害届が出されている」
人事部長が冷たく告げる。
「はあ!? ふざけんな! あいつも合意の上だっただろ! 見ろよこの動画、自分から腰振って……」
「黙りたまえ!!」
一喝され、拝島は口をつぐむ。
だが、その目は泳ぎ、必死に逃げ道を探しているようだった。
「最初の行為が泥酔状態での準強制性交等にあたること、そして動画を使った脅迫行為があったこと。これは犯罪だ。警察の捜査が入る前に、我が社としても厳正に対処する」
「待ってください! これはハニートラップだ! 俺を陥れるための……そうだ、俺の婚約者が社長の娘だからって、妬んで……!」
見苦しい言い訳を繰り返す拝島。
だが、ここでさらに追い討ちがかかる。
会議室のドアが開き、一人の女性が入ってきた。
拝島の婚約者だ。
彼女の手には、私が匿名アカウントで送りつけた「拝島の裏の顔」をまとめた資料が握りしめられていた。
「……恭也さん」
「あ、あぁ、君まで……違うんだ、これは誤解で……」
「誤解? このLINEも? 私のことを『ただのコネ』『金づる』って言ってるこの会話も?」
彼女の声は氷のように冷たかった。
私が提供したデータの中には、拝島が別の同僚に送っていた、婚約者を侮辱するメッセージのスクショも含まれていたのだ。
「こ、これは……」
「婚約は破棄します。父にもすべて話しました。……最低ね」
バシッ、と乾いた音が響く。
彼女は拝島の頬を平手打ちすると、涙を堪えながら部屋を出て行った。
「お、おい待ってくれ! 俺の話を……!」
追いかけようとする拝島を、警備員が取り押さえる。
そこへ、通報を受けて到着した警察官たちが踏み込んできた。
「拝島恭也さんですね。不同意性交等および脅迫の疑いで、署まで同行願います」
「は、はなせ! 俺は何もしてない! あいつが悪いんだ! あいつだって気持ちよかったんだろ!? おい紬希! どこだ、出てこい!!」
拝島はモニター越しに私が見ているとも知らず、喚き散らしていた。
その姿は、かつての自信に満ちたエリートの面影などなく、ただの惨めな獣だった。
私はモニターを見つめながら、小さく呟いた。
「さようなら、恭也さん。あなたは、あなたの欲望のせいで死ぬのよ」
拝島は手錠をかけられ、連行されていった。
会社のエントランスを、多くの社員が見守る中、彼は引きずられるようにパトカーに乗せられた。
そのニュースは瞬く間にネットニュースになり、彼の名前と顔、そして所業は全国に晒されることとなった。
社会的抹殺。
一流企業からの懲戒解雇、多額の慰謝料請求、婚約破棄による社会的信用の失墜、そして刑事罰。
彼の人生は、完全に終わった。
そして、私も。
私は会社を自主退職した。
というより、事実上の追放だ。
社内不倫、しかもあのようなスキャンダルの当事者を置いておけるはずがない。
実家の両親にもすべてが伝わり、「家の恥だ」と勘当された。
アパートを引き払い、私は東京の片隅にある安アパートへと移り住んだ。
貯金は慰謝料と引っ越し費用で底をつきかけ、今は深夜の工場でアルバイトをして食いつないでいる。
華やかな広告代理店での日々も、ブランド物の服も、将来への希望も、すべて夢幻のように消え失せた。
狭い部屋で、コンビニの弁当を食べながら、私はぼんやりとテレビを眺める。
ニュースでは、拝島恭也の初公判の話題が流れていた。
彼は法廷でも「女も合意だった」と主張し、見苦しいあがきを見せているらしい。
だが、証拠は明白だ。
彼が実刑判決を受けるのは時間の問題だろう。
復讐は終わった。
間男を地獄へ突き落とした。
でも、私の心は晴れるどころか、より深く、暗い沼へと沈んでいくばかりだ。
「……律くん」
名前を呼んでも、返事はない。
ここには、彼の残り香も、温もりもない。
私が拝島を破滅させたところで、律くんとの時間が戻ってくるわけではない。
壊れた信頼は、二度と修復されない。
私は一生、この後悔と罪悪感を背負って生きていくのだ。
「あの時、お酒を飲まなければ」
「あの時、すぐに相談していれば」
「あの時、快楽に負けなければ」
無数の「たられば」が、毎晩私を枕元で嘲笑う。
私は布団を頭から被り、耳を塞ぐ。
それでも聞こえる。
律くんの、あの最後の言葉が。
『さようなら、紬希さん。お幸せに』
幸せになんて、なれるはずがない。
私は、私が殺した愛の亡骸を抱いて、灰色の人生を歩き続けるしかないのだ。
***
数ヶ月後。
季節は巡り、春が訪れようとしていた。
北関東のとある地方都市。
澄み渡るような青空の下、鴇田律は新しいスーツに身を包んでいた。
大学を卒業し、彼は東京を離れた。
誰も自分を知らない、新しい土地での就職を選んだのだ。
文具メーカーの営業職。
派手さはないが、堅実で穏やかな職場だ。
昼休み。
律は会社の屋上に出て、缶コーヒーを開けた。
冷たい風が心地よい。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
ニュースアプリには、まだ時折、あの事件の続報が小さく載ることがある。
『元大手広告マン、実刑判決確定』
『被害女性の悲痛な叫び』
律は、その記事をタップすることなく、指でスワイプして消した。
彼の中では、もう終わったことだ。
あの夜、雨の中で捨て去った過去。
紬希がどうなったか、彼は風の噂で知っていた。
全てを告発し、自らも破滅する道を選んだこと。
今は一人、孤独に暮らしていること。
「……バカだな」
ぽつりと漏れた言葉には、軽蔑も、同情も混じっていた。
復讐なんてしても、何も戻らないのに。
彼女は、最後の最後まで、自分勝手で、不器用な人だった。
でも、それももう、他人事だ。
律は空を見上げた。
雲ひとつない、突き抜けるような青。
東京の空よりもずっと高く、広い。
胸の痛みは、まだ完全には消えていない。
ふとした瞬間に、彼女の笑顔や、柔らかい手の感触を思い出してしまう夜もある。
人間不信になりかけ、新しい恋に踏み出す勇気なんて、当分湧きそうにない。
それでも、世界は続く。
息をして、ご飯を食べて、仕事をして、眠る。
そんな当たり前の日常が、今は何よりも尊く、愛おしい。
「よし」
律は缶コーヒーを飲み干し、空き缶をゴミ箱に投げ入れた。
カラン、と軽い音が響く。
彼は背伸びをし、大きく深呼吸をした。
肺いっぱいに、新しい春の空気を吸い込む。
「行くか」
午後の仕事が始まる。
律は屋上のドアを開け、オフィスの喧騒へと戻っていった。
振り返ることは、もうしなかった。
彼の背中は、過去の重荷を下ろし、少しだけ軽くなっているように見えた。
冬が終わり、春が来る。
それは誰にでも平等に訪れる、残酷で優しい、再生の季節だった。




