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快楽に溺れ、嬌声を上げる君と目が合った。その瞬間、全てが終わったと悟った君は、僕を捨てた間男を地獄へ道連れにする。だが、もう遅い』  作者: ledled


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第三話 「無理やりだった」なんて、気持ちよくなっていた私が言えるはずがない。だから私は、私の人生を使って彼を殺す

乾いた金属音が、私の世界を断ち切った。


律くんが置いていった合鍵が、靴箱の上で鈍く光っている。

バタン、という扉が閉まる音が、これほどまでに重く、永遠のような響きを持つことを、私は今の今まで知らなかった。


「あ……ぁ……」


喉から漏れたのは、言葉ですらない、壊れた楽器のような音だった。

私は全裸のまま、床に這いつくばっていた。

膝が震えて力が入らない。

手を伸ばせば届きそうな距離に、彼が残していった赤いリボンのかかった小箱が転がっている。


行ってしまった。

律くんが、行ってしまった。


「律くん……律くんっ、待って……!」


ようやく意味のある言葉が口をついて出た時には、もう遅かった。

廊下の向こうには、静寂しかない。


「おいおい、大声出すなよ。近所迷惑だろ」


頭上から降ってきたのは、粘着質な嘲笑を含んだ男の声だった。

拝島恭也。

さっきまで私がその上で腰を振り、快楽を貪っていた男。


彼がソファから立ち上がり、私の元へと歩み寄ってくる。

その手には、まだ情事の余韻と、私を支配したという征服感がこびりついているようだった。


「行ってくれたじゃねえか、あの邪魔なガキ。これで晴れてお前は俺のものだ」


拝島の手が、私の肩に触れる。

その瞬間。


「触らないでっ!!」


私は弾かれたように、その手を振り払った。

自分でも驚くほどの拒絶反応だった。

皮膚が粟立ち、胃の腑から強烈な吐き気がせり上がってくる。


拝島は目を丸くし、やがて不愉快そうに顔を歪めた。


「なんだよ、急に。さっきまで『恭也さんがいい』って泣いてねだってたのはどこのどいつだ? 体がまだ熱いぜ? 続き、するだろ?」


「しないで……! 来ないで……!」


私は床を這って後ずさりし、脱ぎ捨てられた自分のブラウスをかき集めて胸元を隠した。

違う。

私は、この男が好きなんじゃない。

愛しているのは律くんだけだ。

それなのに、どうして私はあんなことを言った?

どうしてあんなに気持ちよさそうに喘いでいた?


律くんの、あの目。

怒るでもなく、泣くでもなく、ただ汚いものを見るような、いや、道端の石ころを見るような無関心な瞳。

あの目が、私にかかっていた魔法――おぞましい快楽という名の呪いを、一瞬にして解いたのだ。


「チッ、興が削がれたな。まあいい、どうせお前は俺から離れられないんだ。落ち着いたら連絡してこいよ」


拝島は鼻で笑うと、床に落ちていた自分の服を拾い上げ、悠々と着替え始めた。

まるで、自分の所有物が一時的に癇癪を起こしているだけだとでも言うように。


私は震える手でスマートフォンの画面を点灯させた。

律くんに電話をかけなければ。

誤解だと、無理やりだったと言わなければ。

いや、誤解じゃない。

快楽に溺れていたのは事実だ。

でも、心は違うと、必死に伝えなければ。


発信ボタンを押す。

『プー、プー、プー……』

話し中。

もう一度かける。

話し中。


拒否されている。


LINEを開く。

『ごめんなさい、話を聞いて』

送信。

既読がつかない。

ブロックされている。


「う、うあぁぁぁ……っ!」


私はスマートフォンを握りしめたまま、その場に泣き崩れた。

涙が止まらない。

嗚咽で呼吸が困難になる。


私の叫び声を聞き流しながら、拝島はネクタイを締め直し、鏡の前で髪を整えていた。

「じゃあな、紬希。また会社で」

そう言って、彼は出て行った。

残されたのは、散乱した衣服と、冷え切った空気、そして取り返しのつかない現実だけだった。


***


どうして、こんなことになったのだろう。


シャワーを浴びながら、私は自分の体をこすり続けた。

肌が赤くなるまで、血が滲むほど爪を立てて洗っても、拝島の匂いが、感触が、細胞の奥まで染み付いて取れない気がした。


始まりは、半年前の四月。

新入社員歓迎会の夜だった。


私は緊張していた。

憧れの広告代理店。

教育係になった拝島さんは、仕事が出来て社内でも評判のエリートだった。

「君、見込みがあるよ」

そう言われて注がれたワインを、断れなかった。

一杯、二杯。

記憶が曖昧になる。

あのワインには、何かが入っていたのだろうか。

それとも単に度数が高すぎたのか。


目が覚めた時、私はホテルのベッドにいた。

激しい頭痛と、下半身の違和感。

隣には、裸の拝島さんがいた。


パニックになる私に、彼はスマートフォンを突きつけた。

そこには、意識が朦朧としている私が、彼に抱かれている動画が映っていた。


『酔っ払って誘ってきたのは君だよね? これ、会社のみんなに見せてもいいのかな? それとも、あの学生の彼氏くんに送ろうか?』


脅迫だった。

私は泣いて懇願した。

会社に知られれば居場所がなくなる。

律くんに知られれば嫌われる。

それだけは避けたかった。


『いい子だ。じゃあ、俺の言うことを聞け』


そこから、地獄が始まった。

最初は抵抗した。

泣いて嫌がった。

けれど、彼は巧みだった。

豊富な女性経験とテクニックで、私の未熟な体を徹底的に開発していった。

律くんとの優しいセックスしか知らなかった私に、暴力的なまでの刺激と、動物的な快楽を教え込んだ。


悔しいけれど、体は正直だった。

回数を重ねるごとに、拒絶反応は薄れ、代わりに快楽への期待が芽生え始めた。

「嫌だ」という言葉が、「もっと」に変わるのに、三ヶ月もかからなかった。


罪悪感はあった。

律くんの顔を見るたびに、胸が張り裂けそうになった。

でも、拝島さんとの行為の最中だけは、脳内麻薬が溢れ出し、すべての思考が吹き飛んだ。

『律くんにはこんなことできない』

『私は女としての喜びを知ってしまっただけ』

そんな歪んだ正当化を心の隅で繰り返すようになった。


拝島さんは、それを「調教」と呼んで笑った。

私は否定できなかった。

事実、彼からの呼び出しを待っている自分がいたからだ。

律くんとの穏やかな日常が、どこか物足りなく感じるようになっていたのだ。


そして今夜。

私は完全に、一線を越えていた。

薬も酒も使わず、シラフの状態で、自ら彼の上に跨った。

律くんへの裏切りを、快楽のスパイスにして楽しんですらいた。


『君が間男の上でイッた瞬間、僕たちの三年は死んだ』


律くんの声がリフレインする。

そうだ。

殺したのは私だ。

拝島さんじゃない。

私が、私の意志で、腰を振って、律くんを殺したのだ。


シャワーを止める。

鏡に映る自分を見る。

首筋、胸元、太もも。

至る所に赤い痕がついている。

それは愛の証などではなく、家畜の焼印のように見えた。


「……会わなきゃ」


このまま終わらせるわけにはいかない。

どんなに罵られてもいい。

土下座して、殴られてもいい。

律くんに謝らなければ。


私は髪も乾かさずに服を着ると、部屋を飛び出した。

深夜二時。

雨脚は強くなっている。

タクシーを捕まえ、律くんのアパートへと向かった。


三十分後。

私は見慣れたアパートの前に立っていた。

彼の部屋の窓を見る。

明かりはついていない。


階段を駆け上がり、ドアの前に立つ。

チャイムを鳴らす。

反応がない。

もう一度。

何度も。


「律くん! 開けて! お願い、私が悪かったの! 話を聞いて!」


ドアを叩く。

鉄の冷たい感触が拳に伝わる。

鍵はかかっている。

私が持っていた合鍵は、さっき自分の部屋に置いてきてしまった。


「律くん……!」


その時、隣の部屋のドアが開いた。

ジャージ姿の男性が不機嫌そうに顔を出す。


「おい、うるせえぞ」


「あ、すみません! でも、彼が……中にいるはずなんです」


「あぁ? 鴇田さんのことか?」


「はい! 鴇田律くんです!」


隣人は怪訝そうな顔をして、ため息をついた。


「鴇田さんなら、もうここにはいねえよ」


「……え?」


「ついさっき、夜逃げみてえに荷物まとめて出てったぞ。鍵もポストに入れてたしな」


時が止まった。


「で、出て行った……? どこへ?」


「知るかよ。実家か、友達んちか……とにかく、もう空き部屋だ。騒ぐなら他でやれ」


バタン、と隣のドアが閉まる。

私は呆然と、律くんが住んでいた部屋のドアノブを握りしめた。

回らない。

鍵がかかっている。


郵便受けを覗く。

空っぽだった。

いつも入っていたチラシも、表札のプレートも、綺麗になくなっていた。


膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。

コンクリートの冷たさが、スカート越しに伝わってくる。


彼は、用意していたのだ。

今日、この瞬間のために。

あるいは、もっと前から気づいていて、いつでも私を捨てられるように準備していたのかもしれない。


私との関係を清算するのに、彼は一晩もかけなかった。

数時間の猶予すら私には与えられなかった。


「あぁ……あああぁぁぁ……っ!!」


雨音にかき消されるように、私は慟哭した。

失って初めて気づく、なんて陳腐な言葉では足りない。

私は、私の人生の光を、自らの手でドブに捨てたのだ。

快楽という一時の熱に浮かされて、一番大切なものを焼き尽くしてしまった。


***


翌週の月曜日。


私は会社に出社した。

抜け殻のようだった。

食事も喉を通らず、一睡もできないまま、顔に厚いファンデーションを塗ってクマを隠した。


オフィスに入ると、いつもの喧騒があった。

電話の音、キーボードを叩く音、笑い声。

何も変わらない日常。

私の中身だけが空っぽになっているのに、世界は残酷なほど通常通りに回っている。


「おはよう、真壁ちゃん」


背後から声をかけられ、心臓が跳ねた。

拝島恭也。

爽やかな笑顔で、コーヒー片手に立っていた。


「……おはようございます」


「顔色が悪いな。週末、激しすぎたか?」


彼は小声でそう囁き、ニヤリと笑った。

誰も見ていない一瞬の隙に、私の腰に手を這わせる。


「触らないでください」


「つれないなあ。あんなに感じてたくせに。……ああ、そうそう。彼氏とはどうなった? 別れたんだろ?」


彼の口調は軽い。

他人の人生を破壊した自覚など微塵もない。


「……連絡が取れません。引っ越してしまいました」


「ハハッ! 逃げ足の速いガキだな。ま、いいじゃねえか。これでお前はフリーだ。俺が可愛がってやるよ。教育係としてな」


彼は私の耳元に顔を寄せ、低い声で告げた。


「今日の夜、またホテル取ってあるから。来いよ。新しい動画、撮りたいしな」


そう言い残し、彼は自分のデスクへと戻っていった。

背中を見送る私の視界が、赤く染まっていくような感覚を覚えた。


こいつは、何もわかっていない。

私が律くんを失って、どれほどの絶望の中にいるか。

そして、守るべきものを失った人間が、どれほど恐ろしいかということを。


私はトイレの個室に駆け込んだ。

鍵をかけ、便座に座り込む。


スマートフォンの画面を見る。

律くんのLINEアイコンは、初期設定の人型に戻っていた。

アカウントごと削除されたのだ。

もう二度と、彼と繋がることはできない。


私にはもう、未来がない。

律くんのいない未来なんて、生きていても死んでいるのと同じだ。

会社での地位?

世間体?

親からの期待?

そんなもの、律くんを失った痛みに比べれば、ゴミ屑以下の価値しかない。


ふと、拝島から送られてきていた過去のLINEを遡る。

『動画ばら撒くぞ』

『言うこと聞かないと彼氏に送る』

『今日ホテル来ないと会社にいられなくしてやる』


数え切れないほどの脅迫メッセージ。

そして、保存させられていた、私が無理やり抱かれている最初の動画。

その後の、薬で酩酊させられているような動画。

そして、昨日のような、快楽に溺れている動画。


これらすべてが、私の罪の証拠であり、私の汚点だ。

これらを公にすれば、私は社会的に死ぬだろう。

「ふしだらな女」「枕営業」「不貞行為」。

そんなレッテルを貼られ、会社を追われ、両親からも勘当されるだろう。


でも。

どうせ私はもう死んでいるのだ。

律くんに捨てられた時点で、私の人生は終わったのだ。


なら。

私のこの残りの惨めな人生を、すべて薪にしてくべてやろう。

この身を焼き尽くす業火で、あの男を道連れにするために。


私は涙を拭った。

鏡の中の私は、酷い顔をしていたが、その瞳には暗く冷たい炎が宿っていた。

修羅の目だ。


拝島恭也。

あなたは勘違いしている。

私が、あなたの快楽に屈して、言いなりになる都合のいい愛人になったと思っている。

「自分も気持ちよくなっていたんだから、被害届なんて出せるわけがない」と高をくくっている。


ええ、その通りよ。

私は気持ちよかった。

あなたとのセックスに溺れていた。

それは認めるわ。


だからこそ、私は私自身を告発する。

「私は快楽に負けた汚い女です」と世間に晒す。

その上で、「でも、始まりはあなたのレイプと脅迫でした」と突きつける。


私が失うものはもう何もない。

でも、あなたにはあるでしょう?

エリートとしての地位。

出世コース。

そして、社長令嬢だという婚約者。


すべて、奪ってあげる。

律くんが私から去ったあの冬空のような、何もない絶望を、あなたにも味あわせてあげる。


私は震える指で、すべての証拠データをクラウドにバックアップし始めた。

そして、警察署の場所と、人事部長の連絡先、さらには拝島の婚約者のSNSアカウントを検索した。


もう、迷いはない。

律くんへの謝罪は、言葉では届かない。

私ができる唯一の贖罪は、私をこんな体にした元凶と、それに溺れた私自身を、社会的に抹殺することだけだ。


「待っててね、拝島さん」


個室の中で、私は小さく笑った。

それは、壊れてしまった心が漏らした、乾いた笑い声だった。


「地獄へ行きましょう。二人で」


私は個室を出た。

ハイヒールの音が、カツン、カツンと、まるで処刑台へのカウントダウンのように響いた。

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