第二話 君が間男の上でイッた瞬間、僕たちの三年は死んだ。さようなら、他人の君
重厚なドアが音もなく開く。
その静けさこそが、この空間が外界から隔絶された「楽園」であることを物語っていた。
玄関ホールには、脱ぎ捨てられた男女の靴が散乱している。
紬希が大切にしていたブランドもののパンプスが、無造作に横倒しになっているのが目に入った。
その横には、磨き上げられた男物の革靴。
廊下の奥、リビングへと続くドアは半開きだった。
そこから漏れ出る光と共に、先ほどよりもはっきりと、その「音」が鼓膜を揺らす。
「あっ、あ、そこっ……ダメ、深いっ!」
「ふっ、どうだ紬希、会社じゃ見せられない顔してるぞ」
「んんっ、あぁっ! 恭也さんの、大きくて、好きっ……!」
呼吸を忘れそうになるほどの、生々しい会話。
僕の知っている紬希の声だ。
けれど、そのトーンは僕に向けられたことのない、獣じみた熱を帯びている。
足が竦む。
引き返したいという本能と、すべてを見届けなければならないという呪いめいた義務感がせめぎ合う。
僕は、自分の足音が絨毯に吸い込まれるのをいいことに、ゆっくりとリビングへと近づいた。
半開きのドアの隙間から、中が見えた。
広々としたリビングの床には、衣服が点々と落ちている。
ブラウス、スカート、ストッキング。
そして、見覚えのある淡いピンク色の下着。
僕が去年のホワイトデーに贈ったものだ。
彼女は「勿体なくて着られない」と言っていたはずの勝負下着が、無惨な抜け殻のように転がっている。
そして、その先のソファ。
視界に入った光景は、あまりにも鮮烈で、脳裏に焼き付くには一瞬で十分だった。
紬希がいた。
僕の愛した、清楚で凛とした彼女が。
彼女は全裸で、男の上に跨っていた。
拝島恭也だ。
写真で見たことのある、整った顔立ちの男。
彼はソファにふんぞり返り、余裕の笑みを浮かべながら、腰を振る紬希の豊かな胸を鷲掴みにしている。
「あぁっ、んっ、んんっ!」
紬希は髪を乱し、汗に濡れた肌を照明に輝かせながら、自ら腰を上下させていた。
その表情は恍惚そのものだ。
瞳はとろんと濁り、口元からは涎が糸を引いている。
苦痛の色など、どこにもない。
嫌悪感も、躊躇いもない。
あるのは、ただ純粋な快楽への渇望だけ。
「お前、今日は彼氏の相手しなくてよかったのか?」
拝島が意地悪く尋ねる。
その言葉に、紬希は腰の動きを止めず、喘ぎながら答えた。
「んっ、あ……いいの、そんなのっ……どうでもいい……」
「どうでもいい? 愛してるんじゃなかったのか?」
「愛して、るけどっ……でもっ、体がっ、恭也さんがいいのっ! 恭也さんにイカされたいのっ!」
言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となって僕の心臓を突き刺す。
『そんなの』。
『どうでもいい』。
僕との三年間が、僕の存在が、彼女の中ではその程度のものに成り下がっていたのだ。
この男に与えられる快楽の前では、僕の愛も、思い出も、すべてが塵芥に等しい。
「はは、傑作だな。あの真面目な真壁が、こんな淫乱になるなんてな」
「んあぁっ! 言わないでっ、もっと、奥突いてっ!」
拝島が腰を突き上げるたびに、紬希は嬌声を上げ、背中を反らす。
その姿は美しく、そして決定的に汚れていた。
僕の中で、何かが完全に死んだ音がした。
怒りではない。
悲しみですらない。
ただ、急速に温度を失っていく感覚。
目の前の光景が、まるでスクリーンの向こうの出来事のように、現実感を喪失していく。
ああ、もういいや。
終わったんだ。
僕は、もはや隠れる必要すら感じなかった。
ドアを、ゆっくりと押し開けた。
蝶番が小さく軋む音など、二人の荒い息遣いにかき消されるかと思ったが、拝島は敏感だった。
「……ん? 誰だ」
拝島の視線が、入り口に立つ僕を捉える。
その目が驚きに見開かれ、そしてすぐに、卑しい愉悦の色に変わった。
「おっと、誰かと思えば……」
その声に、快楽に溺れていた紬希が反応する。
彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと、焦点の合わない瞳をこちらに向けた。
そして、僕と目が合った。
その瞬間。
時間が凍りついた。
「ひっ……!?」
紬希の喉から、短い悲鳴のような息が漏れた。
絶頂の余韻で紅潮していた顔から、一気に血の気が引いていく。
蒼白になった唇が、パクパクと何かを言おうとして震える。
「り……りつ、くん……?」
彼女は反射的に体を隠そうとしたが、男の上に跨ったままの状態では、それはあまりに滑稽で無意味な動作だった。
男と繋がっている事実も、その体勢も、何もかもが隠しようのない真実としてそこにあった。
「よお、学生くん。随分と早いお出迎えだな」
拝島は悪びれる様子もなく、むしろ勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
彼は紬希を退かそうともせず、わざとらしく彼女の腰に手を添えたまま、僕を見下すように言葉を続ける。
「鍵が開いてたか? 悪いな、こいつが早くしたくてたまらないって言うもんで、閉め忘れたみたいだ」
「ち、ちがっ……あ、いや、その……」
紬希はパニックに陥っているようだった。
拝島の上から降りようともがくが、腰が抜けているのか、それとも拝島が放さないのか、その場でもたつくばかりだ。
その醜態を、僕はただ無表情に見つめていた。
「律くん、ちがうの、これは……その……」
「何が違うの?」
僕の口から出た声は、自分でも驚くほど平坦で、冷ややかだった。
感情の波が凪いでいる。
「誤解だ、って言うつもり? それとも、無理やりされたって?」
「そ、そう! 無理やりなの! 私、抵抗したんだけど……!」
紬希は縋るような目で僕を見て、必死に言い訳を紡ごうとした。
涙を浮かべ、被害者を演じようとするその姿。
さっきまで、あんなに気持ちよさそうに、「恭也さんがいい」と叫んでいた口が、よくもまあそんな嘘を吐けるものだ。
「ははは! 無理やり? おいおい紬希、さっきまでの勢いはどうしたよ。『律くんよりずっといい』って泣いて喜んでたじゃないか」
拝島が爆笑しながら、残酷な事実を突きつける。
紬希は「やめて!」と叫ぶが、それは僕への弁明のためか、自分の本性をバラされたくないためか。
「……聞こえてたよ」
僕は静かに言った。
「全部、聞こえてた。『どうでもいい』って言ったのも。『気持ちいい』って言ったのも」
紬希の動きが止まる。
絶望が、彼女の瞳を黒く塗り潰していく。
「あ……あぁ……」
「誕生日おめでとう、紬希」
僕はポケットから、用意していた小さな小箱を取り出した。
赤いリボンのかかった、ブランド物のネックレス。
それを、床に転がる彼女の下着の隣に、ぽとりと落とした。
「これ、渡そうと思ってたんだけど、もういらないよね。君にはもっと、素敵なプレゼントをくれる人がいるみたいだし」
小箱が乾いた音を立てて転がる。
それは、僕たちの関係が終わった音だった。
「いやっ! 待って、律くん! 違うの、お願い、捨てないで!」
紬希が半狂乱になって叫ぶ。
ようやく拝島の上から降り、全裸のまま、床を這うようにして僕の方へ手を伸ばしてくる。
その姿には、かつての「高嶺の花」の面影など微塵もない。
ただの、快楽に溺れ、大切なものを自ら踏みにじった哀れな女がいるだけだ。
僕は一歩、後ずさりした。
彼女の手が空を切る。
「触らないでくれ。汚い」
その一言は、どんな罵倒よりも深く彼女を切り裂いたようだった。
紬希は息を呑み、凍りついたように動かなくなる。
目から大粒の涙が溢れ出し、床を濡らす。
「さて、邪魔したね。鍵はここに置いていくよ」
僕はポケットから合鍵を取り出し、玄関の靴箱の上に置いた。
金属音が、冷たく響く。
「お前も大変だな、こんな中古品押し付けられて」
拝島に向かって、僕は初めて感情のこもった皮肉を投げた。
拝島は眉をひそめ、「なんだと?」と不快感を露わにするが、僕はもう彼になど興味はなかった。
彼への復讐など、僕が手を下すまでもない。
この女が、いずれ勝手に自滅し、彼を道連れにするだろうという予感があったからだ。
「さようなら、紬希さん。お幸せに」
僕は踵を返した。
背後から、「待って!」「行かないで!」「律くん!!」という絶叫が聞こえた。
悲鳴のような、慟哭のようなその声を、僕は背中で受け止めながら、振り返ることなく廊下を歩いた。
エレベーターに乗り込み、ドアが閉まるその瞬間まで、彼女の泣き叫ぶ声は聞こえていた。
だが、僕の心はもう、ぴくりとも動かなかった。
建物の外に出ると、雨が降り始めていた。
冷たい雨が、火照った頬を冷ましてくれるわけでもなく、ただ淡々と僕の身体を濡らしていく。
僕は空を見上げた。
真っ暗な空。
涙は出なかった。
ただ、胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感だけが広がっている。
三年間の思い出が、走馬灯のように駆け巡ることもなかった。
ただ、あの瞬間の、彼女の恍惚とした表情と、僕と目が合った時の絶望に歪んだ顔だけが、残像として焼き付いている。
彼女は今頃、どうしているだろうか。
拝島に縋り付いているのか、それとも一人で泣き崩れているのか。
どちらにせよ、もう僕には関係のないことだ。
彼女は、僕にとって「他人」になったのだから。
僕は雨の中、駅へと歩き出した。
足取りは重かったが、どこか憑き物が落ちたような軽やかさもあった。
これでもう、嘘の味のするキスに悩まされることも、知らない男の匂いに怯えることもない。
終わりだ。
そして、始まりだ。
僕の人生から、真壁紬希という文字が消えた、新しい日常の始まり。
しかし、僕はまだ知らなかった。
この夜の出来事が、単なる「破局」で終わるものではないということを。
僕が捨てたことで、紬希という女が、ただの「浮気女」から「復讐の鬼」へと変貌し、拝島という男を地獄の底へと引きずり込んでいく未来を。
だが、それはもう、僕の物語ではない。
僕が去った後の、泥沼の物語だ。




