第一話 残業続きの彼女から香る、知らない男の残り香と、嘘の味
十一月の夜気は、肌を刺すような冷たさを孕み始めていた。
窓の外、アスファルトを叩く雨音が、部屋の中の静寂をより一層際立たせている。
僕はスマートフォンに表示された時刻を確認した。
二十三時四十五分。
テーブルの上には、冷めきって脂が白く固まり始めた煮込みハンバーグと、水滴を垂らしてぬるくなったサラダが並んでいる。
向かい側の席には、誰もいない。
「……やっぱり、今日も遅いか」
独り言は、誰に届くわけでもなく、六畳ほどのフローリングの床に吸い込まれて消えた。
ここは僕の部屋ではない。
大学から電車で三駅ほど離れた、セキュリティのしっかりしたオートロック付きのマンション。
社会人一年目となる彼女、真壁紬希が四月から暮らしている部屋だ。
僕は鴇田律。
都内の大学に通う文学部の四年生だ。
就職活動を無事に終え、今は卒業論文の執筆に追われる日々を送っている。
授業もほとんどなくなり、比較的時間の自由が利くようになった僕は、週の半分ほどをこの部屋で過ごしていた。
合鍵は、彼女が引っ越した当日に渡されたものだ。
『律くんが来てくれないと、私、寂しくて死んじゃうから』
そう言って微笑んだ彼女の顔は、今でも鮮明に思い出せる。
紬希は、僕の所属していた文芸サークルの先輩だった。
一つ年上で、入学当初からキャンパス内でも有名な美人だった。
黒髪のロングヘアに、白磁のような肌。
切れ長の瞳は理知的で、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。
「高嶺の花」。
そんな言葉が具現化したような彼女に、新入生だった僕が恋心を抱くことなど、あまりに身の程知らずだと自分でも思っていた。
しかし、現実は小説よりも奇なり、と言うべきか。
サークル活動を通じて言葉を交わすうちに、彼女の意外な一面を知ることになった。
クールに見えて、実は寂しがり屋であること。
映画の趣味が驚くほど合うこと。
そして、僕の書く拙い文章を、誰よりも真剣に読んでくれたこと。
『律くんの書く物語は、静かだけど温かいね』
その言葉がきっかけで、僕たちは付き合うことになった。
あれから三年。
僕たちは一度も大きな喧嘩をすることなく、穏やかな関係を築いてきたはずだった。
はずだった、と過去形で思ってしまうのは、ここ数ヶ月の彼女の変化があまりにも顕著だからだ。
玄関のドアが開く音が響いたのは、日付が変わる直前だった。
「ただいま……ごめんね、律くん。待たせちゃって」
リビングに入ってきた紬希は、ハイヒールを脱ぎ捨てると、その場にへたり込むような素振りを見せた。
オフィスカジュアルのブラウスに、タイトなスカート。
一流広告代理店に入社した彼女は、学生時代よりもずっと洗練され、大人びた女性になっていた。
「おかえり。お疲れ様。今日も大変だった?」
僕は努めて普段通りの声色で迎える。
責めるような口調にならないよう、細心の注意を払う。
社会人の大変さは、学生の僕には想像することしかできないからだ。
「うん……先輩の付き合いで、どうしても断れなくて。ご飯、作ってくれてたんだよね。ごめん、食べてきちゃった」
紬希は申し訳なさそうに眉を下げ、僕の方へと歩み寄ってくる。
その歩調はどこか頼りなく、けれど以前のような疲労困憊といった重さは感じられない。
彼女が僕の隣に座り、肩に頭を預けてくる。
その瞬間。
ふわりと、鼻腔をくすぐる香りがあった。
それは彼女が愛用しているフローラルの香水ではない。
もっと重く、鼻に残るようなムスク系の香り。
そして、微かに混じるタバコの匂い。
僕はタバコを吸わない。
紬希も、学生時代はタバコの煙を極端に嫌っていたはずだ。
「……お酒、飲んだの?」
「え? う、うん。少しだけね。先輩が、いいワインを開けたからって」
彼女の声は少し上擦っていた。
顔を覗き込むと、彼女の頬はほんのりと紅潮している。
それはアルコールのせいなのか、それとも別の理由なのか。
彼女の瞳は、どこかトロンとして潤んでいた。
疲れているはずなのに、肌艶は妙に良く、内側から発光するような生々しい色気を帯びている。
「そうなんだ。その先輩って、拝島さん?」
僕が何気なく名前を出すと、紬希の肩がビクリと跳ねた。
拝島恭也。
彼女の教育係を務めている、直属の先輩社員だ。
何度か話に出てきたことがある。
仕事ができて、社内でも有望株のエリート。
そして、非常に女癖が悪いという噂も、彼女の口から以前は愚痴として聞いていた。
「う、うん。拝島さんと、あとチームの何人かで……」
紬希は視線を僕から逸らし、テーブルの上の冷めたハンバーグを見つめた。
「そっか。大変だね、新人教育の一環ってやつかな」
「……そうね。期待されてるから、頑張らないと」
嘘だ。
僕の中の冷静な部分が、警鐘を鳴らしている。
彼女の視線の泳ぎ方。
不自然なまでの身体の強張り。
そして何より、この匂い。
チームの何人かで飲んでいたとして、こんなに濃厚に他人の香水が移るものだろうか。
まるで、抱きしめられていたかのような、あるいはもっと濃厚な接触があったかのような残り香。
以前の彼女なら、タバコ臭い飲み会から帰ってきたら、一番に「臭いからお風呂入るね」と言ってシャワーを浴びていた。
けれど、今の彼女はそれをしない。
この匂いを纏っていることに、無自覚なのか、あるいは麻痺しているのか。
「律くん、怒ってる?」
紬希が上目遣いで僕を見てくる。
その表情は、怯えているようにも見えるし、どこか甘えているようにも見える。
僕の腕に手を回し、身体を擦り寄せてくる。
その仕草に、僕は違和感を覚えた。
以前の彼女は、こんな風に身体を使って機嫌を取るようなことはしなかった。
もっと言葉で誠実に説明しようとしていたはずだ。
「怒ってないよ。ただ、心配なだけ。最近、ずっと帰り遅いし」
「ごめんね。プロジェクトが佳境で……落ち着いたら、埋め合わせするから」
彼女はそう言うと、僕の頬に唇を寄せた。
キス。
以前なら胸が高鳴ったその感触が、今はひどく冷たく感じられた。
彼女の唇からは、微かにミントのタブレットの味がした。
口臭を消すための、安っぽい清涼感。
それが逆に、何を隠そうとしているのかを雄弁に物語っているようで、僕は胸の奥がざらつくのを抑えられなかった。
「私、シャワー浴びてくるね。汗かいちゃったし」
紬希は逃げるように立ち上がると、寝室へと向かった。
僕はその背中を見送る。
タイトスカートから伸びる脚は美しく、ヒールのせいで張ったふくらはぎが艶めかしい。
彼女がバスルームへと消えた後、僕はリビングに取り残された。
静寂が戻ってくる。
ふと、彼女が置き忘れた鞄が目に入った。
普段なら、他人の鞄を勝手に見るような真似はしない。
たとえ恋人であっても、プライバシーは尊重すべきだというのが僕の信条だ。
しかし、今の僕には、その理性を抑え込むだけの余裕がなくなっていた。
突き動かされるように、僕は鞄に手を伸ばした。
中身を漁るわけではない。
ただ、確認したかった。
鞄の口が開いている。
そこから、見慣れないものが見えた。
派手な包装紙に包まれた、小さな箱。
リボンの色は深い赤。
ブランドのロゴが入っている。
詳しくはないが、かなり高価なアクセサリーブランドのものだ。
紬希は自分でアクセサリーを買うタイプではない。
ましてや、こんな平日の何でもない日に。
(先輩からのプレゼント……?)
いや、ただの教育係が、新人の部下にこんな高価なものを贈るだろうか。
しかも、今日は彼女の誕生日でもなければ、何かの記念日でもない。
僕はその箱に触れることができなかった。
パンドラの箱のように思えたからだ。
もしこれを開けて、中に入っているものが指輪やネックレスで、そこにメッセージカードでも添えられていたら。
僕たちの三年間の信頼は、音を立てて崩れ去る。
手を引っ込め、僕はソファに深く身を沈めた。
シャワーの音が聞こえる。
水音が、僕の鼓膜を叩く。
想像したくない光景が、脳裏をよぎる。
拝島という男と、彼女。
ホテルの一室か、あるいは人気の少ないオフィスの一角か。
彼女のあの美しい肌に、男の手が這う。
嫌がっているのか、それとも受け入れているのか。
三ヶ月前。
彼女が最初に「残業」と言い始めた頃、帰宅した彼女の様子は明らかにおかしかった。
顔色は蒼白で、小刻みに震えていた。
「どうしたの?」と聞いても、「仕事でミスをして怒られた」としか言わなかった。
あの時、彼女は泣いていた。
シャワーを浴びながら、声を殺して泣いていたのを僕は知っている。
僕がもっと強引に問い詰めていれば、何かが変わっていたのだろうか。
しかし、最近の彼女はどうだ。
泣かなくなった。
震えなくなった。
代わりに、妙な「艶」が出てきた。
肌は上気し、瞳は潤み、どこか熱に浮かされたような表情を見せることが増えた。
それは、苦痛に耐えている人間の顔ではない。
もっと別の、抗いがたい快楽に溺れ始めている人間の顔だ。
「律くん?」
不意に声をかけられ、僕は現実に引き戻された。
バスローブを羽織った紬希が、タオルで髪を拭きながら立っている。
湿った髪から立ち上る湯気と、シャンプーの香り。
そして、その奥にまだ微かに残る、あの男の匂い。
「あ、ごめん。考え事してた」
「ふふ、難しい顔してる。卒論のこと?」
紬希は僕の隣に座り、自然な動作で僕の手に自分の手を重ねた。
その手は温かく、柔らかい。
「ねえ、律くん」
「ん?」
「……私ね、律くんのこと、大好きだよ」
唐突な言葉だった。
彼女は僕の目を真っ直ぐに見つめている。
その瞳の奥に、揺らぐような光が見えた。
罪悪感なのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか。
「知ってるよ。僕も好きだよ、紬希」
僕は彼女の手を握り返した。
まだ、信じたい。
決定的な証拠を見るまでは、彼女を信じていたい。
この三年間、僕たちが積み上げてきた時間は嘘ではないはずだと。
しかし、僕の視線は捉えてしまった。
バスローブの襟元がわずかに乱れ、露わになった鎖骨のあたり。
そこに、ファンデーションで隠しきれなかった赤紫色の痕。
キスマーク。
心臓が早鐘を打つ。
血の気が引いていくのがわかる。
虫刺されではない。
あんな場所に、あんな生々しい痕がつく理由は一つしかない。
彼女は僕の視線に気づくと、慌ててバスローブの襟を合わせた。
「あ、これ……虫に刺されちゃって。会社の倉庫、蚊が多くて嫌になっちゃう」
笑って誤魔化す彼女の笑顔は、ひきつっていた。
下手な嘘だ。
十一月のオフィスビルに、蚊なんているはずがない。
しかも、これほど鮮明な痕を残すような虫など。
「……薬、塗ったほうがいいんじゃない?」
僕は精一杯の虚勢でそう言った。
これ以上追及すれば、すべてが終わってしまう気がして、言葉を飲み込んだ。
「う、うん。後で塗っておくね」
彼女は逃げるように視線を逸らし、テレビのリモコンを手に取った。
画面には深夜のニュース番組が映し出される。
キャスターの淡々とした声が、重苦しい空気を埋めていく。
「あ、そうだ。今週末なんだけど」
僕は話題を変えることにした。
今週末は、紬希の誕生日だ。
二十四歳の誕生日。
「うん? どうしたの?」
「誕生日、空いてるよね? 久しぶりにどこか行こうかと思って」
彼女の手が止まる。
一瞬の沈黙。
その数秒が、僕には永遠のように感じられた。
「……ごめん、律くん。その日、休日出勤になっちゃったの」
予想していた答えだった。
けれど、実際に言葉にされると、胸を抉られるような痛みが走る。
「そうなんだ。誕生日に仕事なんて、大変だね」
「うん……クライアントの都合で、どうしても外せなくて。本当にごめんね。埋め合わせは絶対にするから」
彼女は必死に謝ってくるが、その瞳の奥には、安堵の色が見え隠れしていた。
僕と会わなくて済むことへの安堵なのか。
それとも、別の誰かと会えることへの期待なのか。
「わかった。仕事なら仕方ないよ。頑張ってね」
僕は物分かりの良い彼氏を演じ続けた。
これ以上、彼女に嘘をつかせたくなかったからだ。
嘘をつくたびに、彼女の中の何かが磨耗し、別の何かに染まっていくのがわかる気がしたからだ。
その夜、僕たちは背中合わせで眠った。
彼女の呼吸はすぐに寝息へと変わったが、僕は朝まで一睡もできなかった。
隣で眠る彼女の身体から発せられる熱が、僕を苛み続けた。
彼女の夢の中には、誰が出てきているのだろう。
僕なのか。
それとも、あの男なのか。
翌朝、彼女は慌ただしく出勤していった。
「行ってきます」というキスもそこそこに、逃げるように部屋を出ていく彼女の背中を、僕はベランダから見送った。
マンションのエントランスを出た彼女は、通りに停まっていた一台の高級車に乗り込んだ。
黒塗りのセダン。
運転席の男の顔は見えなかったが、助手席に乗り込む彼女の足取りは軽く、昨夜の疲れた様子とは打って変わって、心なしか弾んでいるように見えた。
車が走り去っていく。
僕はそれを、ただ黙って見送ることしかできなかった。
***
週末。
彼女の誕生日当日。
僕は一人、彼女の部屋にいた。
『休日出勤』という言葉を信じたふりをして、彼女には内緒でサプライズを用意していたのだ。
彼女が仕事から帰ってきた時に、驚かせてやろうと思って。
テーブルの上には、彼女が好きな有名パティスリーのホールケーキ。
部屋には控えめな飾り付け。
そして、僕がアルバイトで貯めたお金で買った、ネックレスのプレゼント。
時刻は二十時を回っていた。
彼女からの連絡はない。
僕はスマートフォンを握りしめ、LINEの画面を見つめていた。
既読にはなるが、返信はない。
二十一時。
二十二時。
蝋燭の火を点けることもないまま、時間は無慈悲に過ぎていく。
二十三時を過ぎた頃、ようやく通知音が鳴った。
『ごめんね律くん! 仕事トラブルで長引きそう。今日は会社近くのホテルに泊まることになるかも。本当にごめんね(泣)』
画面に表示された文字の列。
その文面からは、切迫感など微塵も感じられなかった。
むしろ、定型文のような軽さすらある。
会社近くのホテル。
その言葉が意味するものを、僕は理解していた。
理解したくなかったけれど、理解せざるを得なかった。
彼女は今、仕事なんてしていない。
あの男と一緒にいるのだ。
誕生日の夜を、僕ではなく、あの男と過ごすことを選んだのだ。
僕は立ち上がった。
足元がふらつく。
空腹と、絶望と、そして静かな怒りが、ない交ぜになって胃の腑を重くしていた。
「……確かめなきゃ」
僕は呟いた。
このまま一人でここで待ち続けて、朝になって「ごめんね」と帰ってくる彼女を笑顔で迎えることなど、もうできない。
現実から目を背けるのは終わりだ。
僕はケーキを箱に戻し、冷蔵庫にしまった。
プレゼントの小箱をポケットにねじ込む。
彼女の会社がどこにあるか、僕は知っている。
そして、彼女が「会社近くのホテル」と言うなら、どのあたりが怪しいかも検討がつく。
いや、もっと単純だ。
彼女のスマートフォンには、僕たちが入れている位置情報共有アプリがある。
「防犯のため」と彼女自身が提案して入れたものだ。
最近、彼女はこれの設定をオフにしていることが多かったが、たまにオンにし忘れていることがある。
僕は震える指でアプリを開いた。
地図上に表示されたアイコン。
それは、彼女の会社のオフィス街ではなく、そこからタクシーで十分ほどの距離にある、繁華街の一角を指し示していた。
そこは、高級ホテルが立ち並ぶエリアだ。
アイコンは動いていない。
とあるホテルの場所で、静止している。
「……ここに、いるんだね」
僕はアパートを飛び出した。
冷たい夜風が頬を叩く。
走る気力もなかったが、足は勝手に駅へと向かっていた。
電車に揺られながら、僕は何度も彼女に電話をかけようとしたが、そのたびに指が止まった。
電話で問い詰めて、言い訳を聞くのはもう沢山だ。
この目で見るしかない。
彼女が何をしているのか。
誰といるのか。
そして、僕という存在が、彼女にとって何になってしまったのかを。
一時間後。
僕は目的のホテルの前に立っていた。
煌びやかなエントランス。
次々と吸い込まれていくカップルたち。
僕はロビーのソファに座り、ただ待つことにした。
位置情報はまだこのホテルを指している。
出てくるのを待つか、あるいは……。
その時、僕のスマートフォンの画面が光った。
位置情報が微かに動いた。
いや、動いたのではない。
GPSの精度が補正され、より正確な位置を示したのだ。
それは、このホテルの上層階ではない。
すぐ近くの、別の建物。
……いや、違う。
僕は地図を拡大した。
ホテルの隣にある、レジデンス棟。
長期滞在者や、一部の富裕層が借り上げている高級マンションタイプの部屋だ。
拝島という男は、独身貴族で羽振りがいいと聞いていた。
もしかしたら、ここに住んでいるのかもしれない。
あるいは、セカンドハウスか。
僕はホテルのロビーを出て、隣のレジデンス棟へと向かった。
エントランスは強固なセキュリティに守られている。
中には入れない。
だが、天は僕に残酷な運命を用意していたらしい。
ちょうど中から住人が出てきて、自動ドアが開いた瞬間、僕は隙を見て中へと滑り込んでしまった。
犯罪だということはわかっている。
けれど、ここで引き返すわけにはいかなかった。
エレベーターホールには、誰もいない。
僕は位置情報が示す階数、最上階のボタンを押した。
上昇するエレベーターの中で、僕は鏡に映る自分の顔を見た。
酷い顔をしていた。
幽霊のように青白く、瞳には生気がない。
チーン、という軽い音と共にドアが開く。
ふかふかの絨毯が敷かれた廊下。
静まり返った空間。
僕は、廊下の奥にある一室の前に立った。
位置情報のアプリアイコンは、ここで重なっている。
ドアの前に立つと、中から微かな音が漏れ聞こえてきた。
テレビの音ではない。
音楽でもない。
それは、人の声だ。
「……ん、あぁっ、すご……い」
聞き間違いようのない、紬希の声だった。
甘く、とろけるような、そして快楽に溺れきった声。
「……恭也、さん……もっと……」
その名前を聞いた瞬間、僕の中で何かがプツンと音を立てて切れた。
ああ、そうか。
やっぱり、そうだったんだ。
僕は震える手で、ドアノブに手をかけた。
鍵がかかっているはずだ。
そう思って回したノブは、抵抗なく回った。
鍵がかかっていない。
不用心なのか、それとも邪魔が入るなど微塵も考えていない余裕の表れなのか。
ドアが、ゆっくりと開く。
隙間から漏れる暖色の光。
そして、濃厚な甘い香り。
僕は、地獄の入り口に足を踏み入れた。




