悪役令嬢に転生したと思ったら、抱きしめてきたのが鉄血鋼鬼と謳われる最強の戦士が婚約者で、彼以外は悪役令嬢に殺意マシマシだった!
耳のすぐそばで、誰かが泣いている。
私は、その人に抱きしめられている。
ものすごく強く。まるで失うことを恐れて、二度と手放したくないみたいに。
「……よかった……」
低く掠れた、男の人の声。激しい嗚咽で、息がうまくできていない。
「本当に……よかった……」
状況がまったく飲み込めない。私は混乱したまま、思い切って目を開けた。
視界いっぱいに、銀色の髪。
ふわっと光をはじいて、月明かりをそのまま編み込んだみたいに綺麗だ。
見ず知らずの男性の腕の中。なのに、おかしなことに、私は安心していた。
抱きしめる腕は強くて、大きくて、背中は意外と骨張っている。
なぜか「この人は信頼できる」と、そう感じてしまっていた。
私が少し頭を動かすと、彼も気づいたらしい。
彼は少し体を離し、私の顔を覗き込んだ。
目が合う。
息をするのを忘れそうなほど、美しい人だった。
彫刻みたいに整った顔立ちに、凍てつく冬の空みたいな青い瞳。
その完璧な顔が、涙でくしゃくしゃになっている。
私を見た瞬間、彼は驚いたように目を見開き、震える指でそっと私の頬に触れた。
「……よかった……本当に……」
言葉を探しているようだけど、うまくいかないらしい。
ただ、熱っぽい吐息だけが口から漏れている。
その青い瞳に映っているのは、私。
――でも、ただ"見ている"だけじゃない。
ずっと探していた大事なものを、ようやく取り戻した、みたいな。
そんな、痛いほど切実な表情をしている。
本当に小さな声で、彼は言った。
「もう、君には二度と会えないと……」
「いやいや、待って。私はまったく状況がわからない」
まず、誰? どなた様? 貴方はいったい誰なの? どうして泣いている?
私の二十五年間の人生で、こんな超絶イケメンの涙を受け止めた記憶は一度もない。
「やっと……やっと会えた……!」
私の混乱なんてお構いなしに、彼は歓喜に震えている。
いよいよ私は、彼に「どなたですか?」と問いかけようとした、その瞬間。
――ざわざわざわざわ――
遠くに聞こえていた喧噪が、一気に現実味を帯びた音量で耳に流れ込んできた。
ハッとして周囲を見る。
そこは、私の想像の何倍も"ファンタジー"な光景だった。
一言でいえば、"貴族の舞踏会"に間違って紛り込んだ、としか思えない。
情報量が多過ぎて、頭が処理しきれない。
とにかく、眩い光で満ちた空間だ。
天井には夜空を模したドーム状のフレスコ画。
中央からは巨大な、水晶と黄金でできたシャンデリアが幾重にも連なって吊り下がっている。
その光の粒子が磨き上げられた大理石の床に反射して、広間全体がまるで星空の中に浮いているみたいだ。
……ただ、異質なことに、床には割れたワイングラスの破片がキラキラと散らばっていた。
「……どうなってんの」
私の体がこわばるのを、彼が気づいたようだ。
彼は涙の痕跡を隠すように表情を整えると、私の肩を支えながら、まるで周囲に言い聞かせるように、はっきりとした声で言った。
「ここは王宮の大広間。今は王家主催の夜会の最中だ」
やっぱり、さっき抱いた印象は間違ってなかった。"貴族の舞踏会"、まさにそのものだったわけだ。
でも、なぜ私がここにいるのか、原因は何もわからない。
「君は、クライスト公爵家の令嬢、ソフィア・フォン・クライストだ」
「ソフィア……。それが名前……? 私は神楽坂 咲夜花なんだけど?」
「混乱していて当然だ。一時的に記憶を失っているのだろう。無理に思い出そうとしなくていい」
その声は、落ち着いていて驚くほど優しかった。
思い出す? 私は何かを忘れてしまっているっていうの?
「君は……。毒を盛られたんだ」
「……ど……毒?」
その言葉で、頭が一気にしびれたみたいになった。
――毒。毒殺。
その二文字が、私の頭の中で現実味のないエコーみたいに繰り返される。
「毒? 私が? 誰に? なぜ?」
混乱する私を、目の前の彼が、痛ましそうな、それでいて安堵したような複雑な表情で見つめている。
私の二十五年間の、ごく平凡な人生の記憶なら、ちゃんとここにある。
でも、こんなファンタジーな世界に来た覚えも、こんな美しい男性に抱きしめられた記憶も。
そして、誰かに毒を盛られるほど恨まれた記憶も、一切ない。
私は、彼の腕に支えられながら、もう一度、恐る恐る周囲を見渡した。
壁には巨大なタペストリーが掛かっているし、柱には金箔で精緻なレリーフが施されている。
広間の四隅では、王宮楽団らしき人たちが楽器を構えていて、今にも優雅で荘厳なワルツを奏でそうだ。
空気には、高価そうな香水と、会場を彩る無数の薔薇の香り、それと微かなお酒の匂いが混じり合っている。
鼻の奥をガツンと殴られたみたいな強烈な香りの暴力に、五感が甘く麻痺していくのを感じる。
周囲の人たちは誰もが背筋を伸ばし、優雅な所作を崩さない。
「やっぱり、どう見ても……」
現実とは思えない。
男たちは、金糸や銀糸で刺繍された豪奢な軍服や、仕立ての良い燕尾服姿。
胸には家柄を示すらしき勲章が輝いている。
女たちは、髪を結い上げ、流行の最先端っぽい、絹やレースをふんだに使った色とりどりのドレスをまとっている。
肌には目もくらむような宝石――ダイヤモンド、ルビー、サファイア――を惜しげもなく飾っていた。
そして、私自身も。
視線を落とし、自分がまとっているものを確認して、息をのんだ。
私は、一度も身に着けたことのない、あまりにも豪奢なドレスを着ていた。
色は、燃え盛る炎か、注ぎたての血のような、強烈な真紅。
光沢の強い最高級のシルクサテンが、私の体のラインをこれでもかと強調している。
胸元は、首筋と鎖骨を大胆にさらすほど広く開いている。
コルセットでギリギリまで絞り上げられた細い腰から、スカートは床に広がる波のように豊かにドレープを描いている。
このデザインは、周囲の令嬢たちが着ているパステルカラーの優雅なものとは、明らかに一線を画していた。
真紅の布地の上には、おびただしい量の黒いレースと、金糸による精緻な刺繍。
モチーフは、棘を強調した薔薇と、公爵家の紋章らしき威圧的な獣。
これは優雅さよりも、むしろ"力"と"富"を誇示するためのデザインだ。
肌に触れる宝飾品の冷たさも、やけに生々しい。
首には、大粒のルビーと黒曜石が幾重にも連なった、重厚なネックレス。
耳にも、お揃いの大ぶりのイヤリングが下がっている。
手には、肘の上までを覆う、しなやかな黒のオペラグローブ。
「なに、これ……」
これは、"目立つ"どころの話じゃない。
他人の視線を力ずくで奪い取り、その場を支配するための、まるで"戦闘服"だ。
「……毒殺されかけたというのに、意識が戻るとは」
「なんて、しぶとい女……!」
ひそひそと交わされる会話が、今度ははっきりと耳に届いた。
「あれが……なんで生きてる……?」
「悪女が……。悪運が強さは、さすがと言うべきか」
「……悪女?」
その言葉が、私の胸に突き刺さった。
私を指す言葉だ。
このドレスを着ている"私"のことを、彼らは"悪女"と呼んでいる。
そして、その"悪女"が毒を盛られたことを、誰も悲しんでいない。
むしろ、"なぜ生きているんだ"と、心底ガッカリしているように聞こえる。
「バルテンベルク辺境伯様はどうしてあんなにお喜びに……?」
「今なら袖に隠したナイフで刺し殺したとしても、誰も咎めないのではないか?」
物騒な言葉まで聞こえてきた。
「私、この人たちに、殺されるほど憎まれてるんだ……」
この豪華絢爛な場所で。
この、どう見ても"主役"ではない、悪趣味なほど派手なドレスを着た"私"が。
目の前の、物語の王子様みたいなイケメンに庇われながら。
周囲全員から憎悪を向けられ、"毒殺"されそうになった。
状況を整理しようとすればするほど、バラバラだったピースが組み合わさっていくのを感じる。
一つの、あまりにも見覚えのある「お約束」を形作っていく。
「待って。このシチュエーション、私、知ってる」
貴族社会。きらびやかな夜会。
ヒロインじゃない、派手な格好の女。
周囲からの憎悪と軽蔑。命を狙われる決定的な"イベント"。
そして、なぜか私を庇う、攻略対象っぽい超絶イケメン。
「……まさか」
背筋に、さっきとは違う種類の、ぞっとするような冷たい汗が流れた。
これは、夢じゃない。だとしたら。
「これってもしかして……。俗に言う、"悪役令嬢"ってやつに、私……なっちゃったの?」
私のパニックをよそに、彼は名乗った。
「私は、アルフレッド・フォン・バルテンベルク。君の婚約者で、この国の辺境伯だ。覚えていないだろうが、心配はいらない」
「はい、覚えてないです。そもそも私は日本で働いていた社畜でしたよ。絶賛デスマーチ中、会社で業務中だったはず……」
そう、大事なことだからはっきり言おう。
「私、恋人はいましたけど、婚約者なんているはずがありません」
「――それは、聞き捨てならないな」
私の言葉を遮ったのは、涼やかで、それでいて有無を言わさぬ威圧感を秘めた声だった。
アルフレッドではない、別の男の人の声。
その声が響いた瞬間、あれほど騒がしかった広間のざわめきが、まるで水を打ったかのように静まり返った。
私とアルフレッドは、同時に声のした方を見る。
そこに立っていたのは、またしても、この世の光を一身に集めた物語の王子様のようだった。
きらめく金色の髪は、アルフレッドの月光みたいな銀髪とは対照的に、燃える太陽を思わせる。
瞳の色は、深い森の湖みたいな、穏やかながら底知れない緑色。
彼がまとっているのは、アルフレッドや他の貴族たちよりも格段に豪奢で、精緻な金刺繍が施された純白の服だ。
周囲の貴族たちが、まるで合図でもあったかのように一斉に、男たちは深く頭を垂れ、女たちは膝を折ってカーテシーをとる。
格上の存在。それが、嫌でも理解できた。
金色の髪の青年は、アルフレッドに支えられている私を見ると、痛ましげに眉を寄せた。
いや、そう見せかけた、完璧な表情だ。
彼はゆっくりと数歩近づくと、私の体調を気遣うように、穏やかな声で言った。
「ソフィア。先ほどの発言の真意を問う前に、尋ねよう。身体はつらくはないか? すぐ椅子を用意させよう」
「いえ、体は不思議と、なんともないです。ただ、状況が分からなくて――」
彼は、私の返事を待たず、私に興味を失ったかのように視線を外した。
私を庇うように立つアルフレッドを一瞥し、そして再び、笑みを私に向けた。
「しかし、驚いた。まさか、あの鉄血鋼鬼と謳われるバルテンベルク辺境伯が、これほど取り乱すとはな。君が倒れた時の彼の慌てようは、実に見ものだった」
まるで親しげな軽口。だが、アルフレッドは私を支える腕に力を込め、目の前の青年を鋭く睨みつけている。
青年は、そんなアルフレッドの敵意など気にも留めない様子で、私に問いかけた。
「気分が優れないのは分かる。だが、ソフィア。さきほど恋人はいたと申したな? まさか私のことを言っているのなら、はっきり否定させてもらおう」
「え? 告白もしてないのに振られた気分なんだけど?」
「……そんな初対面のような顔をされると、さすがの私も傷つくのだが?」
彼は、わざとらしく胸に手を当ててみせる。
「まさかとは思うが……」
その緑の瞳が、私を射抜いた。
試すような、探るような、ねっとりとした視線。
「他でもない、君が、この私のことを、見忘れたなどとは言わないだろうね?」
それは、質問の形をした、"答え"の強要だった。
けれど。
私にとっては何もかもが分からないことだらけなのだから。
なにを今更、一つや二つの分からないことが増えても、ぜんぶ、わからない。
だから、はっきりと言ってやる。
「はい、わかりません。どなた様?」
私の言葉が、広間に静かに響いた。
一瞬。 本当に、まばたき一つ分ほどの時間が、止まった気がした。
シャンデリアの水晶が揺れる微かな音さえ聞こえなくなり、広間は真空の静寂に包まれた。
次の瞬間、その静寂が爆発した。
声にならない悲鳴。
四方八方から上がる、息を呑む音。
そして、押さえ殺しきれないささやき声が、大理石の床を舐めるように一気に広がっていく。
「い、今……なんとおっしゃった?」
「あの女……! シルヴェリウス殿下に……!」
「"どなた様"……だと……?」
空気が、凍るどころじゃない。怒りと侮蔑と、そして何よりも強烈な困惑で、ビリビリと震えている。
「ふ、不敬だ!」
「無礼にもほどがある! この国の王位継承者たるシルヴェリウス殿下のお顔を忘れるなど!」
「ましてや、面前で"誰だ"と問い返すなど……! 正気か!?」
まさに非難の嵐。
だが、その非難以上に、周囲の人々の顔を支配しているのは、信じられないものを見た時の、歪んだ好奇心だった。
「待って……。だが、忘れたのは……あの"悪女ソフィア様"なのよね?」
「そうよ、あのソフィア様が……殿下を?」
「……ありえない。あんなに……あんなに執拗に殿下に付きまとっていたというのに?」
耳に流れ込んでくる情報を、私は必死でつなぎ合わせる。
「そうよ! 殿下の行く先々、どこにでも現れて! 王妃教育も受けていないのに"次の王妃はこの私"と公言して憚らなかった!」
「殿下に近づこうとする令嬢がいれば、片っ端からクライスト公爵家が圧力をかけて潰していた……」
「あれほど殿下のことで頭がいっぱいだったあの悪女が……殿下を、忘れた……?」
――なるほど?
この"ソフィア"という悪役令嬢は、アルフレッドという婚約者がいながら、この国の第一王子であるシルヴェリウスに執着していた。
王妃の座を狙って邪魔する者を蹴落としてきた、正真正銘の"嫌われ者"だったわけだ。
そんな女が、毒を盛られて意識を取り戻した途端、一番執着していたはずの相手を前にして。
"はい、わかりません。どなた様?"
それは、周囲の貴族たちにとって、天地がひっくり返るほどの衝撃だったらしい。
彼らの視線は、もはや"憎悪"や"軽蔑"を超えていた。 まるで、"理解不能な恐ろしい化け物"でも見るかのような目だ。
「……また、新しい手口か?」
「殿下の気を引くための、狂言……?」
「だとしても、度が過ぎている。あれは……」
「いや、しかし、毒の後遺症だとすれば……」
人々の困惑と非難が渦巻く中、渦中の人――シルヴェリウスは。
彼は、この劇的な反応の嵐の中心で、ただ一人、完璧な笑みを崩していなかった。
いや、むしろ?
その緑の瞳は喜悦に細められ、口元は笑いをこらえきれないかのように、かすかに吊り上がっていた。
「あれ……? この人、私が忘れてて、すごく嬉しそう……?」
私の呟きに、シルヴェリウスは満足げに一つ頷くと、この大騒ぎを鎮めるどころか、楽しむように、あえて朗々とした声で言った。
「――そうか。なるほど。本当に、私を忘れてしまったのだな、ソフィア」
その声色は、まるで待ち望んだ知らせを聞いたかのように、弾んでいた。
――そのとき。大きな号令が発せられた。
「静粛に! 陛下よりのお言葉がある!」
皆が一斉に、声の主を見る。
大広間の最も奥、正面にあたる壁際には、高さにして大人の背丈ほどもある重厚なひな壇が築かれている。
深紅のベルベットが敷かれた段を五段上ったその中央に、この国の権威の象徴たる、黄金の彫刻が施された王座が二つ並んでいた。
王座の背後には、建国の英雄たちの姿を描いた巨大なタペストリーが広がり、天井の高さまで伸びる壮麗な空間を、さらに厳かなものにしていた。
左右の壁には、壇上の王を柔らかく照らすため、特殊な魔導具が仕込まれた燭台が、炎ではなく神秘的な青白い光を放っている。
声を張り上げた人物が舞台から舞台袖へとはけていき、代わりに、玉座に座っていた壮年の男性が立ち上がった。
強い視線が真っすぐ私を射抜いた。
「公爵令嬢は、奇跡的に一命を取り留めたようだ。無理をせずとも壁際の席に座って、少し休んでいると良い」
その低い声が広間全体に響き渡る。アルフレッドが、私の代わりに答えてくれた。
「はっ。陛下の温情、身に余る光栄にございます。お言葉に甘えさせていただきます。ソフィア、参ろう」
陛下。……つまり、王様だ。
アルフレッドに手を引かれて、私と彼は壁際に移動した。
先に座っていた貴族がさっと席を譲ってくれたので、私はそこに座り、アルフレッドは私に寄り添うように後ろに立った。
私たちが座ったのを見届けてから、王は広間全体を見回しながら、はっきりと告げた。
「無事であったことは僥倖。……しかしこれを、単なる不幸な事故で終わらせるつもりはない」
それ聞いた私の印象として、まるで目星をつけた"特定の誰か"に宣言しているかのように思えた。
「王家主催の場で、公爵家の令嬢を毒殺しようとした――。これは王家に対する、重大な反逆である!」
ざわり、と空気が震えた。
「大広間を閉鎖する! 衛兵、すべての出入り口を固めよ!」
扉が重々しく閉じられ、貴族たちの間から小さな悲鳴が漏れる。
「犯人が明らかになるまで、この場から誰一人として出すことは許さん!」
毒殺未遂。犯人はこの中。
私の頭は、まだ処理が追いつかない。
血の気がサーッと引くのが自分でもわかった。
アルフレッドが、私の肩にそっと手を乗せてくれた。
「大丈夫だ」
彼の声は、さっきよりもずっと穏やかで、落ち着いていた。
「何があっても……今度こそ、必ず君を守る」
"今度こそ"。その言葉の重さに、胸がきゅっと締めつけられる。
「今度……こそ? ……前にも、何かあったの……?」
疑問は増えるばかり。でも、今の私にできるのは、震える己の手を握りしめることだけだった。
「静まれ。これより、証言をとる」
王が、衛兵っぽい人たちに目配せすると、その人たちが慌ただしく動き出した。
「え、何? 何が始まるの?」
広いホールのど真ん中、さっき私が倒れていた場所よりも、少し玉座に近い位置に。
あっという間に、即席のステージみたいなものが出来上がっていく。多分、証言台ってことなんだろう。
踏み台。それに、小さなテーブル。そのテーブルの上に、真っ赤なビロードみたいな、ふかふかした布が敷かれて。
その上に、ドン!と置かれたのは、占い用の水晶玉みたいな魔法具だった。
玉座に戻った王が、冷たく広間を見渡す。
「問うは一つ。"其方にとって、公爵令嬢のソフィアはどういう存在か"。これは、動機を持つ者を探し出すためだ」
アルフレッドが、私にだけ聞こえるように顔を寄せて、教えてくれた。
「テーブルの上にあるのは、手を置き、宣誓した上で、嘘をつくと、神罰が下るという、強い力をもつ魔法具だ」
王は高らかに宣言した。
「神への宣誓のもと、真実のみを語れ。偽証は神罰を招く。通例に従い権利として、証言を拒否するのなら沈黙せよ。犯人が特定されるまで、繰り返される。自らの番が来る前に、犯人が名乗り出ることを祈るがよい」
「えええええ!?」
つまり、この場にいる全員が、公爵令嬢のソフィアさんへの"本音"をぶちまけるってこと!?
思わず「ここはいじめのあったクラスでの学級会か!」ってツッコミが口から出そうになった。
でも、この場の貴族たちにとっては、それほどのんきな状況ではないらしい。
貴族たちの顔が絶望に染まっていくのが見てとれる。
しかし、ふと頭を過ったアイデアがある。それって……。
「ねえ、アルフレッド?」
「なんだ?」
「あ、呼び捨てにしちゃた。敬称をつけた方が良かったのかしら?」
「いや、いいさ。好きに呼んでくれ。それで?」
「ええ。あの魔法具が、そんなに強制力が強いのなら、いっそ"お前が犯人か?"って聞けばいいんじゃない?」
「ああ……。それは良い問いとは言えない。何故なら、証言を拒むは万人の権利として認められている」
「黙秘権、ってことね」
「たとえ王とて、証言を強制できない。強制された証言には宝珠は反応しない。そして、証言を拒否したことを理由に拘束することも禁じられている」
「しっかりしたルールがあるのね。でも、それでも進んで証言する"無実の人"か、黙ってしまう"疑わしい人"かの選別は出来そうなんじゃ?」
「いや、そう簡単にはいかない。真に罪を犯した者は、当然だが、黙る。だが、そうでない者であっても、犯人かと問われたら、やはり黙る。何故なら、何の罪も抱えていない者など、聖人しかありえない。疑われていると思えば、やはり口を閉ざしてしまう」
「あー。それもそうか。探られたくない腹を探られるようなものだものね」
「そうだ。だから、自ら進んで、その口を開きたくなる、そのような問いかけが望ましい。そうでなければ証言を拒む」
「なるほどね」
「ソフィア、今から始まる証言は君にとって、つらいものになるだろう。心して聴くか、耳を塞いでいてもいい」
「いや、大丈夫だって。公爵令嬢なんでしょ? きっと「素晴らしい方です」とか「才色兼備で」とか、良いことしか言われないに決まってる――」
「……ほら、証言が始まりそうだ。最初の証言が重要だ」
「では、まずシルヴェリウス。そなたからだ」
最初に指名されたのは、さっきの金髪の王子様、シルヴェリウスだった。
アルフレッドが「この国の第一王子だ」と、わざわざ耳打ちしてくれたけど、そんなのさっきの騒ぎで知ってる。
彼は完璧な笑みを浮かべ、宝珠にそっと手をかざし、神への宣誓をしたあとで。
「そこにいる彼女は、公爵令嬢として実に模範的に振る舞うだろう。常に気品と礼節を欠かさず、聡明で教養も具えることになる」
その一節だけでも、すでに周囲はざわつき始めた。
「己の立場というものを、よく弁える。そうなれば、将来の王妃候補として何一つ不足ない器量だが……」
残念そうに証言するシルヴェリウスを、皆が口をぽかんと開けていた。
「王家の取り決めとはいえ、そこにいる美しきクライスト公爵家の令嬢が、すでにバルテンベルク辺境伯家の婚約者であることは、実に惜しまれるな」
徐々に、その証言が皆の頭に染み込んでいくにつれて、がくがくと震える者さえ現れた。
「記憶を失くしたようだが、それでも貴族令嬢として、私に見せる忠誠心は、責務感の表れだろう。その行動はすべて、私個人へというより、王家への敬愛ゆえだと理解している」
皆が一斉に宝珠を見た。それは本当に機能しているのかと疑った。しかし、宝珠には、変化なし。
私は、神罰とやらがどういうカタチで下されるのか知らないけど、何も起こらないということは、今の証言は"真実"ってことだ。
「よかった、悪役令嬢かと思ったけど、違ったみたい。 ソフィアさん、模範的な令嬢だったんだ。彼にも理解されてたんだ。ちょっと感動――」
その私の呟きに反応したみたいに、アルフレッドが私にしか聞こえない声でボソッと言った。
「どこまで本気で言っているのか。あの王子は」
「え?」
「周りの貴族の顔を見てみろ。"信じられないものを見る目"……、いや、あれは"化け物を見る目"だ」
言われてみれば、みんなドン引きしている。
「う、嘘だろ……!? なぜ神罰が下らない!?」
「あ、あんな仕打ちをされていながら? その名を聞いただけで怯えて逃げ廻っていたというのに。本当は違ったのか?」
「あの悪女ソフィア様を前にして、……"敬愛"だと!? 神罰が下らないのなら、心からそう思っているということ。殿下は聖人か!?」
会場が、先ほどとは違う意味でどよめいた。
「え? どういうこと? あれ? 私、もしかして、あの王子に"敬愛"とは程遠い、ヤバいことしてた感じ……?」
「続く証言を聞けば、すぐに分かる」
そのアルフレッドの言葉通り、すぐに王子の証言が、どれほど異常だったかを思い知らされることになった。
「次! ギルバート!」
王に指名されたのは、神経質そうなメガネの男性だ。
彼は宝珠に手をかざすと、早口に神への宣誓を済ませ、堰を切ったように捲くし立てた。
「毒を盛ったと疑われたとしても、恐れずに言わせてもらう! 忘れてなるものか! 私の妹が! 殿下と薬草学の話をしていただけで!ソフィアは"王子を薬草学で誘惑した!"や"殿方が発情する香水を常に身に着け襲われるのを待っている毒婦だ"や"茶会ではすべての令嬢の飲む茶に肌がしわしわになる毒を混ぜた"などとあらぬ噂を――」
「ええー…。薬草学で誘惑って、どんな高等テクニック? "このトリカブト、素敵と思わない?"とか?」
「君の発想も大概だが、問題はそこではない。ソフィアは、王子と"会話した"という事実だけで、相手を社交界から追い出すために、噂を流したんだ」
私とアルフレッドが、こそこそと話している間にも、証言は続いていく。
「――そして、ついに妹は自ら命を……。悪女ソフィア、なぜ、先ほどの毒で死ななかった?!死ねばよかったのに!殺せるものなら私が殺してやる!」
あまりに興奮しすぎたせいで、彼は陛下の命令で衛兵に証言台から引きずりおろされ、会場の隅へと連れて行かれた。
「え、彼の妹さん、まさか自殺しちゃったの?」
「いや、未遂だと聞いている。今も伯爵領の別荘で療養中だそうだ」
「うわぁ。それでも、ひどい。っていうか、あの人、殺意しかなかったよ? 動機って意味なら、もうあの人でしょ、犯人」
「陛下はそう思わなかったようだ」
陛下は、何事もなかったかのように、証言を続けさせる。
「次! マーサ!」
今度は、地味な見た目だけど、芯の強そうな目をした令嬢だ。宝珠に手をかざし、神への宣誓を小さく呟く。
「私の領地は、毎年のように洪水に悩まされています! 父上は、その治水予算を王家に申請しましたが、ソフィア様は、私への嫌がらせのために、それを妨害しました。どうしてそんなことをするのかと、ソフィア様に問いただすと、"私が王妃になったら、景色の良い別荘地にするつもりだから、余計なことにお金を使わないで"と。ソフィア様は、治水予算の申請を、公爵家の力で握り潰したのです! 今も領民がどれだけ苦しんでいるか!」
「ええええ!? ソフィアさんて、そんな権限があったの?」
「ソフィアにはないが、クライスト公爵家にはその権限がある。今の君にわかるように言えば、王家と言えど無暗には逆らえないほどに、クライスト公爵家は強大な権力を持った大貴族なんだ」
「そ、そうなんだ。そして、ソフィアさんのご両親は、ソフィアさんの言うことを聞いて、握りつぶしたってこと? でも、どうして?」
「それは、マーサ嬢が言ったように、彼女への嫌がらせのためだ。彼女は才女でね、王子から目をかけられていた。そのことが気に食わなかったのだろう。領地や領民がどうなろうと知ったことではなかった。"この国は私のもの。土地も財宝もすべて手に入れて見せる"と言っていた。それがソフィアだ」
「ソフィアさんって、すっごい悪女キャラだね。そしてそれを実行できてしまう権力を持ってるってのがまたすごい」
証言は、まだまだ続く。
「次! バルガス!」
王に指名されたのは、私と同年代とは思えないほどガタイのいい青年だった。
彼は私をにらむのではなく、なぜか隣のアルフレッドに同情するような目を向けた。
「俺も言わせてもらおう。陛下に直接聞いていただける、良い機会だ。半年前のことだ。ここにいる皆が知っているように、我が領地が隣国からの侵攻を受けていた。すぐに当主であった父上は王家とクライスト公爵家に、バルテンベルク辺境伯家の援軍を要請した。我が領地はバルテンベルク辺境伯領から近い。王都からの援軍ではなく、バルテンベルク辺境伯家からの援軍なら間に合ったはずなのに。――悪女ソフィア、なぜ邪魔をした?!」
「え、そんなの、ソフィアさんは関係なくない? 王子様がらみじゃなさそうだし、男の人だから気に食わないってこともなさそうだし。そもそも、邪魔って?」
「この国の軍部を掌握しているのが、クライスト公爵家なんだ。つまり、バルガスのゼフィラン男爵家からの親書を携えた使者は、君の御父上を訊ねて来た。だが、御父上は不在。偶然に居合わせ、その内容を知った君は、援軍要請に来た使者を、部屋に閉じ込めた」
「は?なんで――」
そんな私の混乱なんてお構いなしに、激高したバルガスは叫んだ。
「どれほどの被害が出たと思っている!? 父上はこの戦いで戦死された。私が当主となったが、領地では、今もその戦火が燻ぶっている。ギルバート様がおっしゃったように、俺も繰り返そう。お前は今、死ねばよかった! ……以上です、陛下」
バルガスは、私を射殺すような視線でにらみながら、証言台を下りて行った。
「ごめん、わかるように言って欲しい。意味が分からなさ過ぎて困る。そもそも、なんでソフィアさんはそんなことをしたの?」
「私への嫌がらせのため、それだけのために。ソフィアは、使者の事を御父上に伝えなかった」
「どんだけあなたを嫌ってたのよ……」
「そして、御父上が屋敷に戻った後も、黙って閉じ込め続け、丸二日経ってから、ようやく解放した。君の御父上から私のところに援軍要請が来たのは三日後になってしまった」
「どうして、それであなたへの嫌がらせになるの? むしろ、一番の迷惑は、あのバルガスさんの領民たちでしょう?」
「そうだ。しかし、侵略者を国の外へと追い出すのは我がバルテンベルク辺境伯家の役目。初動の遅れから、国内に侵攻された状態から追い出すまでに、多大な犠牲が出た」
「……さすがに言葉を失うんだけど。どれだけ被害が出たのか、怖くて聞きたくない」
私が恐る恐るアルフレッドを見上げると、彼は凍てつくような青い瞳で、"ソフィア"への軽蔑を隠そうともせずに言った。
「ソフィアは、婚約者である私への嫌がらせのためなら、この国がどうなっても構わなかった。王家が認めた婚約者である私が邪魔で邪魔でしようが無かった。私を窮地に陥らせて、戦場で惨たらしく死ねば良いのに、そう思っていた女だ」
「ソフィアさん、もう誰に殺されても文句言えないんじゃ……」
証言は、もはやソフィア断罪ショーと化していた。
「ソフィア様は“殿下のお歩みを阻む者は、存在そのものが礼を失している”と申され、王都の大通りで殿下に道を譲らなかった老婦人に、侍従を使って連行していました。その御仁がどうなったのか、もう誰もわかりません」
「ソフィア様は“殿下と踊る資格のあるのは私だけですわ”と仰せで、王太子妃教育を受ける令嬢方の舞踏会参加をすべて取り下げさせました。“殿下の足元で影が動くのは不快ですもの”と……。」
「ソフィア様は“殿下の御心を曇らせぬため”と称し、王宮魔術師に“王都の気候を殿下好みに調整しなさい”と命じられました。出来ぬと言うなら、その首を刎ねよ、と」
「ソフィア様は私どもが殿下と政治談議をしていただけなのに、“殿下を疲れさせる会話など万死に値しますわ”と仰って、私どもが持っていた書簡や資料などすべて焼却処分を命じられました」
「我が男爵家から派遣した侍女に、殿下がありがたくもお励ましの言葉をくださった折、ソフィア様は"殿下の言葉は国家の宝。軽々しく授かるものではありませんわ"と、解雇させ、王都から追放するよう圧をかけてきました」
「ソフィア様は"殿下の香りを曇らせるから"と、殿下お好みの花を私が香水に使っていたことを咎め、二度とその香りで殿下の空気を汚さないで”と香水瓶を粉砕なさいました」
「ソフィア様はアルフレッド様に"殿下の未来の礎となる資格はあるのかしら?"と、口するのも憚る様な屈辱的な行為を強要しして、それを躊躇うと"あなたの忠誠はその程度?"と迫られておいででした。しかし、アルフレッド様は逆らわず、あのようなことを……。見るに堪えませんでした」
「ソフィア様は"殿下の鼓動をかき乱す声色ね"と私を侮辱し、殿下に挨拶しただけの私の喉元に扇子を突きつけ、"無駄な音を殿下に届かせないで"と脅されました」
出るわ出るわ、悪行の数々!
これってソフィアを殺そうとした人を探すための証言だよね? ソフィアを断罪するための証言じゃなかったよね?
「……そりゃ、毒も盛られますわ」
私はすっかり落ち込んで、アルフレッドの袖を小さく引っ張った。
「ソフィアさんは、王子シルヴェリウス様のこと、好きだった?」
「違う」
アルフレッドは、キッパリと否定した。
「ソフィアが執着していたのは王位継承権を持ち王太子である"第一王子"という地位と、その配偶者に与えられる"王妃"という権力だ。彼本人ではない」
「じゃあ……あなたのことは?」
私は、恐る恐る尋ねた。
証言によれば、ソフィアさんは彼に死んでほしくて、戦場に送り込んだり、よほどひどいことをたくさんしていたらしい。
「口にするのも憚ることって……。あなたに、ひどい仕打ちをしたと、さっきの人が言ってた。それなのに……」
私は、彼の冷たい青い瞳を見上げた。
「でも、あなたは、ソフィアさんが毒で倒れたとき、ただ一人、悲しんでくれていた。今も続いているソフィアさん断罪ショーの証言者は、口をそろえて"死ねばよかった"と言う中で、今も、あなただけがソフィアさんを庇ってくれているように感じる。どうしてそんなソフィアさんのことが好きでいられる? 愛なんて、ない。政略結婚なんでしょ?」
アルフレッドは一瞬、何かに耐えるように目を伏せた。
その顔は、私が知る由もない、遠い過去を懐かしむような、ひどく苦しそうな顔だった。
彼は、私の手を強く握った。
そして、周囲の貴族たちにも聞こえるように、だけど私にだけ真っ直ぐに告げた。
「誰がソフィアをどう思おうと、ソフィアは私の"心"だ。――そして君が俺をどう思っていようと、俺は君を愛している。それだけだ」
「え……」
彼の言葉に、私は何も返せなかった。
会話の前半と後半で、誰に向けて言ったのか、意図して違えていたように感じた。
ただ、その「愛」という言葉が、あまりにも重すぎて……。
その時、広間の扉が乱暴に開かれた。
「陛下! 毒が判明いたしました!」
術師らしい男が、息を切らして叫んだ。
術師らしい男が、息を切らして王のところへ駆け寄った。
「毒は、"銀霧の雫"と呼ばれる、極めて珍しい高山植物の毒素を用いた毒にございます!」
「ほう。どのような毒なのだ?」
「詳しくはこちらの古文書に書かれています」
その術師らしい男は古びた書類を王に手渡しながら、ゴクリと唾を飲み込み、恐る恐る、私の隣の人物――アルフレッドを見た。
「この花が自生しているのは、王国広しといえど、ただ一箇所! バルテンベルク辺境伯領、その最奥"霧の山"のみにございます」
しーん、と広間が静まり返る。
そして次の瞬間、すべての視線が、槍みたいにアルフレッドに突き刺さった。
「やはり……!」
「無理もない。あれほどの仕打ちを受けていらっしゃったのだ……」
「そうよ! 私たちも噂していたわ。"もし悪女ソフィア様が誰かに殺されるとしたら、それはアルフレッド様に違いない"って!」
「さっきの"愛している"という言葉も、我々を欺くための演技だったのね!」
「え、え、え、ちょっと待って!?」
私が隣で真っ青になっているっていうのに、アルフレッド本人は、まるで他人事みたいに冷めた顔で騒ぎを眺めている。
「黙れ」
その時、王の低く、でも威圧的な声が響いた。
「アルフレッドよ、証言せよ」
「はっ」
アルフレッドは、私の肩をポンポンと優しくたたいてから、証言台へと向かう。何の心配もいらない、そう告げるように。
その姿を見る周囲の貴族たちの目には、なんか同情みたいな色すら浮かんでいる。
彼が毒を盛ったんだとしても、それは仕方ないよね、みたいな。
アルフレッドは、宝珠にそっと手をかざし、はっきりと神に宣誓をした。
広間の誰もが固唾を飲んで見守る中、王様が厳かに問うた。
「アルフレッドよ。"其方にとって、公爵令嬢のソフィアはどういう存在か"」
アルフレッドは、私から視線を外さないまま、静かに、でもはっきりと通る声で答えた。
「我が婚約者であるソフィアは――。私が知る限り、誰よりも不器用で、誰よりも臆病な人間です」
その第一声に、広間がざわめいた。臆病? あの傲岸不遜な悪女ソフィアが?
「ソフィアは、周囲が望む『クライスト公爵家の令嬢』という理想を演じ続け、その本心を頑なな鎧の下に隠しています。悪評により己が傷つくことなど厭わない。彼女が真に恐れるのは、自身の弱さゆえに家の矜持を傷つけ、人々を失望させてしまうことだけなのです」
ドキッとした。
これまで証言した誰もが、ソフィアさんの悪行に対する批判であったのに、アルフレッドだけは、それを彼女の強がりだと言った。
日本でも、あるいはこのファンタジーな貴族社会での、誰もが"役割"を演じるのに必死で、誰も本当の自分なんて見てくれない。
でもこの人は、ソフィアさんの"強がり"を剥がそうとするんじゃなくて、"強がらなきゃいけない理由"ごと愛してる感じがする。
君のことはなんでも無理してるって上から言うんじゃなくて、ただ静かに受け止めている。
これこそ"包容力"って感じ。
「ソフィアは、誰も見ていない場所で、たった一人で泣いている。自分の至らなさを責め、それでも明日にはまた完璧な仮面をつけようと、必死にもがいている」
それは、アルフレッドの知るソフィアさんの本当の姿なんだろう。
周囲は"いやいや"と否定してる。"いったい誰の事を言っているんだ?"と困惑しているみたいだけど。
「ソフィアが本当に望んでいるのは、権力でも地位でもありません。ただ、"もう十分頑張った"と、その努力を認めてくれる誰か。ただ、ありのままでいていいと許してくれる居場所です」
周囲の困惑なんて無視して、アルフレッドは続けた。その青い瞳は、まるで遠いどこかを見ているようだった。
「ソフィアは、道端に咲く小さな花を踏みつけず、そっと愛でるような優しさを持っています。ですが、その優しさをどう表現すればいいかを知らない。知らぬがゆえに、自らとは正反対の"自分"を演じて、自分を守るしかなかった」
水を打ったような静寂が、広間を包み込んでいた。
誰も、身じろぎひとつできない。アルフレッドの紡ぐ言葉は、決して劇的なものではなかった。
でも、その"真摯さ"は鋭い刃のように人々の胸に突き刺さった。
アルフレッドはただ真実を語っている。
けれどその姿は、世界で最も静かで、最も情熱的な求愛を見せつけられているようでもあった。
凛と背を伸ばし、愛する者を守るために言葉を重ねる彼の横顔は、神々しいまでの美しさを帯びており――。
その場にいた誰もが、彼の深い愛に圧倒され、ただ立ち尽くすしかなかった。
「私にとって彼女は――」
そこで彼は一度言葉を切り、私の方へと向き直った。
なんだか、そこに居たのは辺境伯であるアルフレッドじゃなくて、私が良く知る誰かみたいに見えた。
私と彼が、真っ直ぐに見つめ合う。
「ソフィアは、この世界でただ一人、私が命をかけて守り抜かねばならない、唯一無二の存在。我が"心"です。―—そして、君が、俺に関する一切の記憶を失っていたとしても、世界の果てまで飛ばされようとも、かならず見つけて見せる。俺の愛は、君だけのもの。――以上です、陛下」
アルフレッドが手を宝珠から離す。
宝珠は、静かな光をたたえたまま、何の反応も示さない。神罰は、下らなかった。
まただ。
会話の前半と後半で、明らかに発言の対象を違えていた。いや、"彼"自身も、まるで別人のように感じた。
ざわめきが、一気に大きくなった。
証言が終わった瞬間、広間はさっきまでとは比べ物にならないほどの大混乱に陥った。
「う、嘘だろ……!? 神罰が下らないぞ!」
「アルフレッド様が……狂われたとしか思えん!」
「一人で泣いている? 道端の花を愛でる? あの悪女ソフィア様が!? 馬鹿を言え、寝ている赤子すら踏みつけかねないぞ!」
「我々が受けた仕打ちは何だったのだ! あれもすべて"不器用"で済ませろと!?」
「だが、神は嘘ではないと認めた……。王子殿下の証言といい、辺境伯様の証言といい……」
貴族たちは、私とアルフレッドを交互に見ながら、信じられないものを見る目でひそひそと囁き合っている。
ソフィアへの"憎悪"や"殺意"が、今はただ純粋な"混乱"と"恐怖"に変わっていた。
自分たちの知る現実が、根底から覆された、みたいな顔をしている。
玉座の王が、パン、と大きく手を打った。その音で、あれほどうるさかった貴族たちが水を打ったように静まり返った。
「……ふむ。証言は確かに聞いた。神罰が下らぬ以上、それが真実なのだろう」
王様は、冷徹な目でアルフレッドを見据えている。
「アルフレッド。証言はそれで良い。皆も聞いたであろう。皆も知っているであろう。彼は恐ろしいほどの侮辱を受けながらも、一度たりとも彼女を責めず、"愛している"とまで言った。憎しみで人を殺すなら、とうに殺せたはずだ。アルフレッドがそうしなかったのは、バルテンベルク家と王家が交わした"契約"。バルテンベルク家が王国の"盾"であると同時に、王家がバルテンベルク家の"心"を守るという"神の契約"を、彼が今も守っている証拠。彼が殺意で動くことは、断じてない!」
「……え? 契約? 心?」
よくわからないけど、王はアルフレッドを、めちゃくちゃ信頼しているようだ。
「――だが、毒についてはどう申し開きをする? 毒がそなたの領地からしか産出されぬ、この事実を」
「毒の材料が、それほど重要でしょうか? 私にはそうは思えません。むしろ、その毒の効果こそ、重要なのではありませんか?」
王様が、目を細めて黙った。アルフレッドの問いかけは、王様の何かを射貫いたみたいだ。彼は古文書の一節を読み上げる。
「死と再生。肉体を生かしたまま、その魂だけを殺し、新たな魂を呼び込む。すなわち、"生まれ変わり"の秘毒」
「!!!!」
私がここにいる原因。私が"転生"してしまったのは、この毒のせいだったんだ。
そして、もう、私の中にはソフィアさんはいない。毒によって、彼女の魂は死んでしまった。そういう事実。
王様は、鋭い目で会場を見渡し――そして、ある一点でその視線を止めた。
「この毒の効果を知り、この毒を使った犯人が、ここにいる。そなただ」
王様が指さした。まるで名探偵が犯人を追い詰めるみたいに。言い逃れは許さないと、突きつけるために。
その指さした先に居たのは、シルヴェリウス。この国の第一王子だ。
会場が、今日一番の衝撃で凍り付いた。
「……父上。ご冗談を」
シルヴェリウスは、指名されたというのに、あの完璧な笑みを崩さない。
「私が彼女を殺すため、毒を盛ったと? 動機がありません。先ほどの証言通り、私は彼女を理解していました。宝珠は神罰を下さなかった。つまり神も認めてくださった」
「それだ」
王は、シルヴェリウスを真っ直ぐに指差したまま、宣言した。
「それこそが証拠だ。 ここにいる全員が、神前でソフィアの悪行を証言した。 それが真実であることは我もよくわかっている。だが、そなたとアルフレッドだけが"彼女は素晴らしかった"と証言し、神罰は下らなかった。つまり、そなたの証言も、アルフレッドの証言も、また"真実"。なぜだ?」
玉座から降り、王はシルヴェリウスの目の前に立った。
「そなたとアルフレッドだけが、彼女の中身が"すでに別人になっている"ことを知っていたからだ!」
「ならば! 私が、私だけが毒の効果を知っていたとしても、それは毒を盛ったという証拠にはならない。奴もまた、"すでに別人になっている"ことを知っていたというのなら、奴こそ、あの悪女を恨んでいたはずだ!」
「申したであろう、バルテンベルク家と王家が交わした"契約"。これがある限り、アルフレッドではありえない」
「いったい、その"契約"とは?」
シルヴェリウスが、まだ余裕の笑みを崩さないまま、父である王に尋ねた。
王は、シルヴェリウスからアルフレッドへと視線を移し、その声に重い響きを乗せて言った。
「バルテンベルク家は、永きにわたり王国の"盾"として、この国を守り続けてきた。その力は強大無比。だが、その強大すぎる力と引き換えに、彼らは呪いとも言える宿命を負っている」
王様は広間を見渡し、すべての貴族に聞かせるように続けた。
「その宿命とは、バルテンベルクの者は"愛した者を必ず失う"。それも悲劇的としか言いようのない残酷な運命がその身に襲い掛かる。その絶望が引き金となり、過去、何度かその強大な力が暴走し、国そのものを滅ぼしかけたことがある」
「愛した者が、必ず失われる……?」
この状況がまさにそれだ。
アルフレッドはソフィアさんを愛していた。だからこそ、ソフィアさんの魂は失われたと?
私はアルフレッドの横顔を盗み見た。彼は表情を変えず、ただ王の言葉を聞いている。
「しかし、バルテンベルク家の力は、この国にとって必要不可欠。そこで、歴代の王たちは誓ったのだ。バルテンベルク家が"盾"として国を守り続ける限り、王家は、バルテンベルク家の"心"――すなわち、その伴侶となる者を王家が選び、定め、そして王家の名において、その"心"を守り抜く。これは神に誓った絶対の"契約"である!」
貴族たちが息を呑むのがわかった。
ソフィアは、あの悪女がこれまで好き勝手に権力を振るえたのは、何もクライスト公爵家の権力によるものだけではなかった。
ソフィアは、王家がアルフレッドのために選んだ"守るべき心"。それゆえに、王家がソフィアの横暴をすべて黙認し、握りつぶしてきたのだろう。
「アルフレッドもまた、この"呪い"に縛られている。彼にとってソフィアは、たとえどれほど憎むべき相手であったとしても、王家が定めた"守るべき心"そのもの。彼が自らその"心"を毒で害することなど、自身で毒を呷るようなもの。そして王家との"契約"への裏切りでもある。彼がそのようなことをするはずがない!」
王の断言に、アルフレッドは反論も肯定もせず、ただ静かに佇んでいる。
「アルフレッドが、ソフィアの中身が"すでに別人になっている"ことを知っていたのは、この"契約"による魂の結びつきによるものだろう。それでもなお、アルフレッドはソフィアと名をはっきりと証言に含めた上で、我が"心"であると証言し、これを神は認めた」
そこで、王は一拍だけ、発言をせずに、皆が理解するのを待った。
水面に投じられた石が波紋を生むような風景が浮かぶ。
そうして、波紋が鎮まったのを見て、王はアルフレッドからシルヴェリウスへと視線を移す。
「だが、そなたの証言は異質であった。 そなたが語ったのは過去の事実ではなく、眼前の『生まれ変わり』に対する歪んだ願望のみ。偽証とならぬよう、計算づくで『ソフィア』の名を証言から外したのであろう? その『別人』を愛していると装えば、ソフィアを害する動機などないと錯覚させられるとな。残念だが、それこそが余の描いた筋書きよ。その不自然な証言こそが、貴様の狂気を何よりも雄弁に語っている」
その瞬間。シルヴェリウスの、完璧な笑顔の仮面に、小さなヒビが入ったのが見えた。
「……は」
彼の口から、乾いた息が漏れた。
「……ふふ……アハハ……アハハハハハハハハハハハハ!!!!」
次の瞬間、シルヴェリウスは、狂ったように大声で笑い出した。
さっきまでの理知的な王子の姿は、もうどこにもない。
彼は、自分の髪をぐしゃぐしゃにかきむしり、血走った目で、私を――いや、たぶん私の背後にいる"悪役令嬢ソフィアの亡霊"でも睨みつけているんだろう。
「そうだ! そうですよ、父上!あの女は"汚物"だ! "混沌"だ! 私の完璧な計画、私の清浄な世界を、土足で踏み荒らす"害虫"そのものだった!」
あまりの変貌ぶりに、私は普通にドン引きした。
シルヴェリウスは、まるで舞台役者みたいに、大げさな身振り手振りで叫び続けている。
「私の寝室に毎日忍び込み! 私が飲んだワイングラスを"宝物"と言って盗み!私の愛馬のたてがみを"お揃い"と言って切り落とし!挙句の果てには、我が母、王妃陛下の肖像画を! "これが未来の私よ!"と、自分の顔に描き替えた!!」
それ、マジ? やってることが、過激なアイドルファンが推しにすることとそっくりだ。
想像の斜め上を行く奇行の数々に、ちょっと同情しそうになる。
「殺したかったさ! もちろん殺したかった!!だが殺せない!」
シルヴェリウスの顔が、絶望に歪んだ。
「あの女を殺せば、公爵家が黙っていない! 私の王位継承権を狙う第二王子派が喜ぶだけだ! 私の完璧な経歴に"殺人"という最大の"汚点"がつく!」
シルヴェリウスは、私をビシッと指差した。
「だから"消した"のだ! あの狂った魂だけを!この"生まれ変わり毒"でな!肉体さえ残っていれば、公爵家は文句を言うまい! 中身が空っぽの人形になれば、私への執着も消える! 記憶喪失のフリでもすればいい! そうすれば、私の秩序は、私の完璧な世界は、守られるはずだった……!」
彼は、膝からガクッと崩れ落ちた。
「なぜです……父上……。なぜ、私の"完璧な計画"を邪魔するのですか……」
その姿は、もはや王子様じゃなくて、お気に入りのおもちゃを壊された子供みたいだ。
王は、崩れ落ちたシルヴェリウスに冷たい視線を投げかけ、衛兵に命じた。
「シルヴェリウスを捕らえよ。地下牢へ」
「秩序が……清浄が……完璧な世界が……」
シルヴェリウスはもう抵抗もせず、虚ろな目で何かを呟きながら連行されていく。
その姿は、あまりにも哀れだった。
王子が連れ去られた後、大広間は死んだような静けさに包まれた。
貴族たちは、あまりにも衝撃的な結末を前に、言葉を失い立ち尽くしている。
王は、疲れたように一度目頭を押さえたが、すぐに王としての威厳を取り戻し、残った者たちへ向けて声を張り上げた。
「衛兵! 大広間の扉を開けよ!」
重々しい音を立てて扉が開かれ、外の空気が流れ込む。
貴族たちは、まだ現実を受け止めきれない様子で、互いに顔を見合わせている。
「これにて、一件落着とみなす。皆、今夜のことは胸に納め、速やかに退去することを許可する。今夜起きたことの仔細については、王家より追って沙汰する!」
王の言葉で、貴族たちは我に返ったように動き出す。
しかし、その視線は好奇と混乱、そして少しの同情を含んで、私とアルフレッドに注がれていた。
「ただし!」
王の強い声が、動き出そうとした貴族たちを再び制止する。
「クライスト公爵夫妻、ならびに令嬢ソフィア。そして、アルフレッドは、この場に残るように」
「……クライスト公爵夫妻。それが、ソフィアさんの……ううん、今の私の、お父様とお母様?」
私は恐る恐る、王が視線を向けた先に目をやった。
そこには、この広間の誰よりも豪奢で、そして誰よりも冷たい威圧感を放つ、一組の男女が立っていた。
軍服のように隙のない装いの中年男性と、氷の彫刻のような美貌を持つ女性。
彼らは、娘であるソフィアさんが毒殺されかけ、その犯人が王子だったというのに、表情一つ変えていない。
ただ、その冷たい目が王を射抜いていた。
貴族たちは、私たちに最後の視線を投げかけ、まるで嵐から逃げるように、足早に広間から退室していく。
やがて、重い扉が再び閉じられ、広大な大理石のホールには、王と、私、アルフレッド、そしてお父様とお母様だけが残された。
お父様とお母様は、大広間の中央に設置された証言台の横を通って、ひな壇の下まで歩み寄った。
それを見て、王は、玉座から降り、その顔に深い疲労を滲ませながらお父様とお母様と向き合った。
私は、相変わらず、三人から離れたところ、壁際の席に座ったままで、アルフレッドも私の後ろに控えてくれている。
たぶん、空気を読むなら、私もアルフレッドも近づいていくべきなんだろうけど……。
どうなるんだろうと様子を見てたら、タイミングを逸した。
アルフレッドも何も言わないし。
「クライスト公爵、夫人。王家は今回の件、全面的に責を負う。シルヴェリウスの愚行は、王家の不始末だ。そなたらの名誉と、令嬢の命を傷つけた責、最大限の補償を約束しよう」
そうこうしてたら、向こうで話し合いが始まった。
クライスト公爵――つまりソフィアさんのお父様は、王の謝罪を値踏みするように聞きながら、冷徹な表情のまま、一歩踏み出した。
「陛下の温情、痛み入ります。ですが、補償は追々として……」
お父様は、そう前置いたうえで、王に剣を突きつけるような眼光で、はっきりと告げる。
「まずは王命により締結されたバルテンベルク辺境伯家との婚約を破棄していただきたい」
「なに?」
「我が娘ソフィアは、毒によって魂を失い、今は"異邦の魂"が宿った抜け殻。バルテンベルク辺境伯家の"心"足り得る器ではありません。王家とバルテンベルク辺境伯家の"契約"を汚すことは、我が家の望むところではありません。バルテンベルク辺境伯家との婚約は、ここをもって即座に破棄をお願い申し上げます」
お母様が、蛇のように冷たい視線を王に向けた。
「陛下。ご存知の通り、我が家は当初から、バルテンベルク辺境伯家との婚約は、王命あればこそ従ったまで。今やバルテンベルク辺境伯家の"心"として不適格と公に証明されたのです。この娘を解放し、王家から受けた屈辱に対し、我が家が王位継承の件で新たな貢献を果たす機会を与えていただきたいですわ」
私は、小さな声で、隣にいるアルフレッドに助けを求めた。
「ごめんなさい、アルフレッド。お父様とお母様は何を……?」
「簡単に言えば、ソフィアを王妃の座につけたいと願った黒幕は、彼らだということだ」
「うわぁ。ソフィアさんが暴走してたってだけじゃないんだ?」
「ああ。そして、第一王子がああなってしまった今、王位継承権を持つ第二王子に鞍替えさせろ、そう王に詰め寄っている」
「なるほどね」
「公爵、待たれよ」
王は、公爵の勢いに押されまいと、敢えて静かに言った。
「バルテンベルク家との婚約は、単なる家の繋がりではない。歴代のバルテンベルク家との誓い、王家がバルテンベルク家の"心"を守るという神聖な"契約"だ。それを、そなたの都合で覆すことは、王家の根幹を揺るがしかねん」
アルフレッドが、私にだけ聞こえるよう静かに囁いた。
「陛下は、元よりクライスト公爵家の強い権力を削りたかった。だが"王子による令嬢の暗殺未遂"という取引カードを奪われた今となっては、今まで以上に強く出られない」
「え、じゃあ、このままじゃ、私とあなたの婚約は破棄されちゃうってこと?」
「ああ。このままでは。しかし、私にしても、無理に君を連れ去れば、王家への反逆とみなされる。陛下に頑張ってもらうしかない」
アルフレッドの顔には、焦燥の色が浮かんでいた。
王は、お父様とお母様に、まずは小手調べと言わんばかりに、先送り案を提示する。
「よろしい。婚約の件、ただちに返答はできぬ。ソフィアの異変について、王家はさらなる調査をせねばならん。ひとまず、彼女は王家の保護下に置く」
しかし、お父様もお母様も、絶大な力を持つという貴族の当主だ。頷くはずもない。
「保護? 我が娘を毒殺しようとしたのは、王家でしょう? 今となっては王家の汚点として、都合の悪い存在となった娘を謀殺されかねません。承服できかねます」
「そうですわ、娘はわたくしたちがきちんと、教育を施します。魂こそ入れ替わろうとも、その身体に流れている血脈は我が家の者。どこに出しても恥ずかしくないように、しっかり貴族としての規範を叩き込みますわ」
思わず、私は小さく呟く。
「貴族として教育? なんか、毎日のようにしごかれる最悪な未来しか想像できないんだけど……」
「ああ。君の想像以上だろうな」
私のうんざりとした呟きを、アルフレッドは同情してくれる。
「……」
王は黙ってしまった。お父様の指摘はそれだけ正鵠を得ていた。
王国の最高権力者が、臣下の前で言葉に詰まる。それは、権威の崩壊を意味しかねない。
お父様は、王の沈黙を勝利と受け取り、ますます優位に立とうと、冷笑を浮かべた。
「陛下。王家が王太子殿の愚行に責を負うとおっしゃった。ならば、我が家の令嬢を政治の鎖から解き放ち、我々が望む形で補償していただくのが、筋ではないでしょうか」
王は、その言葉を遮ることもできず、一度、深く息を吸い込んだ。
その表情は、苦悶と、そこから何かを絞り出そうとする苦心に満ちていた。
「クライスト公爵。そなたの言い分は理解できる。今回の件、王家の責である。だが、"王家の名において、バルテンベルク家の心を守る"という誓いは、我が王国が神に誓った"契約"だ。それは、一臣下たる公爵家の都合で、軽々に破棄して良いものではない」
王は、公爵夫妻から視線を外し、広間の巨大な柱に掛けられた、歴代の王が描かれたタペストリーを見上げた。
「バルテンベルク家は、永きにわたり、王国の"盾"として、呪いにも等しい宿命を負いながら、この国を守り続けてきた。彼らの強大な力が、暴走するのを防ぐため、我々王家は彼らの"心"を守ると誓ったのだ。この"契約"が破られれば、バルテンベルク家が、王家への信頼を失い、国の"盾"がその剣を収める。その時、この王国はどうなる?」
王の言葉に、お父様は鼻で笑った。
「バルテンベルク辺境伯家の忠誠心は、疑いようがありません。陛下。バルテンベルク家の"心"は、必ずしもソフィアである必要はない。別の、瑕のない令嬢を王家が選び、バルテンベルク家に贈れば、王家の"契約"は果たされます」
「その通りですわ。陛下。バルテンベルク家に新たな"心"を定めれば、我が家への補償と、バルテンベルク辺境伯家の忠誠、そして王家の"契約"の履行が、全て果たされる。誰も損をしない円満な解決でしょう」
王は、そこで目を閉じ、痛みを堪えるように眉間に深い皺を刻んだ。
そして、再び目を開けた時には、ある種の決意が宿っていた。
「クライスト公爵よ。そなたは、"心"とは、王家が用意する、入れ替え可能な道具だとでも思っているのか?」
王は、怒鳴るのではなく、静かに諭すように言った。その声には、建国の王から受け継がれたような、重い響きがあった。
「歴代のバルテンベルク家への誓いは、"王家が選んだ相手が、彼らの心とする"と、押し付けるものではない。王家が"彼らが愛した者を、王家の名において、いかなる困難からも守り抜く"という誓いだ」
王は、視線をお父様とお母様からアルフレッドへと移した。
「そして、アルフレッドは、この場ですでに"ソフィアは我が心"と、神の宝珠の前で、ソフィアへの愛を証言した。それが真実であったと、宝珠も証明した」
お父様とお母様もまた、私とアルフレッドの方を見る。
それは、"娘とその婚約者を見つめる両親の目"じゃない。"自分たちの野望を邪魔する敵とみなした目"だ。
「王命によって定めた婚約者が、毒によって心変わりをさせられ、記憶を失おうと、あるいは魂が入れ替わろうと、バルテンベルク家当主が、彼女こそが自らの"心"であると、神の前で、真実を以て、公に宣言したのだ」
「しかし――」
王は、お父様の反論を遮り、続けた。
「――我々は、神の裁きを侮ることはできぬ。バルテンベルク家の"心"は、アルフレッド自身が、神に誓って、ソフィアと定めた。王家は、その愛を否定し、神前での真実をなかったことにはできない。それは、王家の権威ではなく、王国の信仰を揺るがす行為となる」
「……」
「故に。王家が今、バルテンベルク家とクライスト家の婚約を破棄し、別の令嬢を"心"として押し付けることは、神に誓った"契約"に反する。"契約"を、王家が公然と踏みにじる行為に等しい。国家の"盾"を自らへ向ける最大の愚行だ」
王は、ここで言葉を区切ると、再び、お父様とお母様を鋭く見据えた。
「そなたらの言う"貸"は、シルヴェリウスの愚行に対するものだ。だが、その"貸"を、バルテンベルク家の忠誠と、王国の信仰を損なう形で返済することは、王として、断じて容認できぬ」
王は、お父様とお母様に、彼らの要求へに対する拒絶の姿勢を、明確にした。
「ソフィアの処遇については、王家が定める。婚約の破棄は、現時点ではあり得ない。それが、王国の秩序と、バルテンベルク家との"契約"を守る、唯一の道である」
王は、絶大な権力を誇るクライスト公爵家の"圧"と、王家の"体面"という二つの圧の間で、"神に誓った契約"と"神が認めた愛"という、事実に基づく論理的に強い武器を苦心してひねり出し、お父様とお母様の要求を一旦、硬直状態へと押し戻したのだった。
しかし、お父様は決して引き下がらなかった。まだ誰も知らぬ最後のカードが伏せられている。
お父様は自信に満ちた表情で、そのカードを切った。まさに『切り札』と呼ぶに相応しい、局面を覆すための一撃として。
だが、気づいていない。自身が腕を振り上げ、盤上に晒したその『死神』が、真に刈り取ろうとしているのは、一体誰の首であるのかを。
「陛下。彼の愛が真実であったとしても、神の宝珠は彼の"行動"の真実まで証明してはおりませぬ」
「行動、とな?」
「ええ。毒の材料たる"銀霧の雫"が、辺境伯領最奥の"霧の山"からしか産出されないのは明白な事実ですな?」
「……」
私には、お父様が何を言いたいのかさっぱりだけど。
王やアルフレッドの表情が険しくなっていく様子から、お父様が何を言おうとしてるのか、それ察したようだと思った。
「あの地は、バルテンベルク家の許可と、熟練の領民の先導なしには、一歩たりとも踏み入れられぬことはご存じのはずだ。毒と魔獣が満ちた禁域です」
「……ああ」
「シルヴェリウス殿下が、いかにソフィアを憎もうと、バルテンベルク家の協力なくして、あの"毒の材料"を調達できたはずがない。つまり、シルヴェリウス殿下とバルテンベルク家の共謀が疑われます」
「……」
「あの"銀霧の雫"は、十年に一日、特定の魔力の波動が満ちる明け方の霧の中でしか採取できません。その時期を逃せば、十年待つしかない。また、採取後も、極低温の魔石で封じなければ、毒性は即座に失われる。非常に緻密な手順と知識を必要とします」
「……」
「シルヴェリウス殿下は、なぜ、"魂の暗殺"という、この極めて異質な毒を選んだのでしょう? ただ排除したいだけなら、毒は無数に存在する。毒とわからぬような毒もある。それでもなお、"魂の暗殺"を行ったのは、もちろん、殿下が王となるために、必要な事だったからに他ならない」
「……」
お父様の巧みな論法に、王は口を挟めない。
「シルヴェリウス殿下が王となるために、邪魔な存在は多い。これらを一掃するために、殿下は"魂の暗殺"という手段を選んだ。つまり――。いや、陛下にはすべて説明するまでもありませんな。我が公爵家との決定的対立の回避、辺境伯家の軍事力の封じ込め、そして外部勢力との協定履行。これらを――」
「……」
お父様が、その"死神の首狩り鎌"を、王に振るわんとしているが、そうは問屋が卸さない。
三人は、議論に集中するあまり、私が席から立ち上がり、そしてお父様とお母様の後ろに立っていたことに気付いていない。
アルフレッドも、私に付き従って、この"愛を守る戦い"に、共に立ってくれている。
さあ。反撃をしよう。
「つまり、お父様はシルヴェリウス殿下に毒を提供されたんですね?」
私の一言が、あまりに唐突で、そして急所を射貫いており、そして無警戒だったために、お父様は直ちに反論を用意できなかった。
私の存在に気付き、お父様もお母様も驚き、飛び退くように身を翻して、私を見た。
その表情は驚愕に満ちていた。しかし、私は構わずに、続けざまに攻撃を放つ。
「お話を聞いていて、びっくりしました。ずいぶんと毒の材料となる花の存在のことを詳しくお知りなんですね。たぶん、シルヴェリウス殿下はご存じないと思いますよ? 試しに、先ほどの尋問で用いられていた神への宣誓を伴う宝珠で問うのもいいでしょう。知らない、そうお答えになるはず」
誰もが何も言えずに、私を見つめている。ここに居るのが、魂をさらわれてきた哀れな被害者だと思っていたからだ。警戒などする必要が無い。
「ああ。そうか。そんなことしなくても、ここでお父様が証言すれば済みますね。さて、何を問えばいいのでしょう?」
私はわざとらしく、首を傾げて、あごに人差し指を添えながら、あざといポーズで、お父様を追い詰めていく。
「お父様がクライスト公爵家の権力を以て、バルテンベルク家の許可を得ず勝手に、権力か財力でねじ伏せた上で、熟練の領民の先導を得て、毒の材料を得たことでしょうか?」
この国でも最高の権力を誇るというクライスト公爵家の権力があれば、容易だろう。
「あ! いけない、私ったら。うっかりとしてました。そうだ、そうだ。材料だけあってもダメですね? その毒の事を知り、そして調合できる術師の存在も必要です。専用の道具も必要ですか?」
毒の材料を揃えたところで、あれほど狂気に侵された王子が、冷静に調合に必要な人材や道具を、誰にも助けを求めずにできたとは思えない。
状況は明らかに"共犯者の存在"を示唆していたのだ。それも、強力な力を持つ――、まあ、クライスト公爵家であれば、簡単だろう。
「もう、面倒ですね。もっとはっきりと"犯行に一切関与していませんか?" と問うべきでしょうか? あの証言台に立ち、神に誓って否定できますか?」
神の宝珠を使った証言では「お前が犯人だろう?」と聞いてはいけないって、アルフレッドは言ってたけど。
今回の場合は、対象となるのがお父様とお母様なのだから、言い逃れを許さない、明確な問いの方が良いかもね。
私の言葉が、重い槌で床の大理石を粉々に叩き壊したかのように、皆の心に重く強く響いた。
お父様は、あからさまに動揺し、言葉を失った。
「なにを言っている、なぜ私がそのような証言を――」
「お父様がおっしゃった動機、辺境伯家の軍事力の封じ込め、外部勢力との協定履行、でしたっけ? それは、すべてお父様にとっても都合の良いこと。今まさに結果として、"辺境伯家と公爵家の婚約破棄"と"王家に対する決定的な貸し"という交渉カードを手に入れた」
「黙れ、誰に物を申しているかわかっているのか? お前はもはや娘でもなんでもない、異邦の魂が封じ込められた器でしかない。公爵家の力をもってすれば――」
お父様が、咄嗟に反撃として選んだのは、自分が常に信じ、すべてをねじ伏せて来た伝家の宝刀、"権力を揮う"という――。
それは、弱弱しいもの。
「笑える。そんなの、異邦の魂である私に、何の脅しになるとお思いで?」
「な、な、なんだと?」
「それに、お父様が恐れるべきは、私じゃない。もちろん、王家でもない。この世界では誰もが畏怖すべき存在なんでしょう?」
「なにを、いって、いるんだ……?」
神への宣誓。
偽りを述べたとき、神罰が下るという。
お父様は、その強制力を誰よりも知っているのだろう。神罰を、見たことがあるんじゃないんかな?
お父様が真に恐れるのは、悪役令嬢でも、辺境伯家でも、王家でもなく、神の裁き。
「証言せよ」
その隙を、王は見逃さなかった。見逃すはずがなかった。王は、冷徹な声でお父様に裁定を下した。
「陛下、お待ちください。この者はもはや――」
「どのような申し開きも受け付けぬ。証言をするか、せぬか。二つに一つだ」
王は、続けて、お父様が望む"逃げ道"をちらつかせた。
「証言をせずとも良い。それは万人に認められた権利だ。拒否するのならば、沈黙を守れ。だが、雄弁に語って見せた王家に対する無礼な要求も、すべてその沈黙の中に封じ込めよ。証言を黙るなら、要求も追及も黙れ、だ。そして、このままソフィアをアルフレッドに嫁がせるのだ。――沈黙ならば、今夜の犯行は、すべて王家の責として、処理しよう」
私がきっかけを与えておいてなんだけど、王はとても良い笑顔である。
「しかし、証言をして、それが神に認められたのならば、王家はそなたの望むようにバルテンベルク家との婚約を破棄を許そうではないか。そして、王位継承においても、新たな貢献を果たす機会を与えよう。――すべてが、そなたが望むがままだ」
にやり、って効果音をつけたいくらい、王は、満面の笑みで告げた。
「ただし、宝珠に手をかざし"シルヴェリウスの犯行への関与はない、毒の提供を行ていない"と、神に誓った上で、だ」
お父様とお母様の顔は、苦悩と怒り、そして絶望に歪んだ。
「お父様。証拠は処分済みなんでしょ?」
お父様は呆然として、思わずして、頷いてみせた。完全犯罪への絶対的な自信が、彼を自然と動かしたかのようだ。
「本来なら、お父様の権限なら、王命と言えど、証言を拒否することは容易だった。言い逃れする方法はいくらでもあった。でも、だからこそ、欲に目を晦ませた」
私はゆっくりと歩み寄る。そのたった一歩に圧されたように、お父様とお母様がじりじりと後退した。
「"毒の材料"の調達。今回の毒殺未遂において最も重要な証拠だものね。言いたくなっちゃったんだよね? どんなに苦労したのか、聞いてほしかったんだね? 気持ちわかるよ」
あえて同情するように、小首をかしげてみせる。その態度が神経を逆撫でしたのか、お父様の額に青筋が浮かんだ。
「――でも、藪蛇だった。自ら断頭台に首をのせてしまった。そして、その首に斧が振り下ろされるかどうか、ご自身の発令によって決まる」
お父様の顔から一気に血の気が失せ、唇がわなないた。王は、愉悦に目を細めてその様を見守っている。
「……お前は、何者だ?」
お父様が、私を化け物でも見るような目で、怯えてるのがわかる。
「では、改めて名乗ってさしあげますわ。わたくしは、ソフィア・フォン・クライスト――。父母に溺愛され、この国が疎み、恐れ、悪女と讃えた女。その厭わしいほどの真実を、一番よくご存じなのは貴方たちでしょう?」
私は、存分に悪女っぽく笑いながら、言った。
「けれどね、以前とひとつだけ違うことがありますわ。わたくしは、貴方たちの掌から抜け落ちた“凶器”となった。まずは、愛した王子の喉元を切り裂き……。次に、己の安寧を信じて疑わない真っ白な貴方たちの首に、丁寧にその斧を振り下ろしてさしあげるわ」
お父様はもう、何も言葉を発することが出来ない。そして、王が静かに告げる。
「証言せよ。あるいは――」
お父様は、屈辱に震えながらも、重い頭を垂れた。
「証言は……。拒否いたします。陛下」
その瞬間、王の顔に、勝利の笑みが浮かんだ。
王は、待ってましたとばかりに、私たち以外は誰もいない大広間全体に響き渡る声で、王命を宣言した。
「よろしい! クライスト公爵家の意向、確かに聞き届けた! アルフレッド!」
王はアルフレッドに断固たる口調で命じた。
「直ちに、ソフィアを連れ、辺境の領地へと戻れ! これを王命とする! ソフィアは、王家の名において定められた、そなたの"心"であり、王家の"盾"たるバルテンベルク家との正当な"契約"である! 一切の異論は認めん!」
「はっ!」
アルフレッドは、深く膝をつき、感謝の意を込めて騎士の礼を取った。
王は、お父様とお母様を冷たい視線で見据えた。
「クライスト公爵。この裁定は、そなたらの沈黙によるものだ。不服申し立ては、一切受け付けない」
王がお父様とお母様をを完全に封じ込めたのを確認したアルフレッドは、立ち上がり、迷いなく私へと手を伸ばした。
「参ろう、ソフィア」
アルフレッドは、私の返事を待たず、私を軽々とお姫様抱っこにした。
「きゃっ!?」
バルコニーへと向かうアルフレッドの背中に、お父様とお母様の、屈辱に満ちた、押し殺したような憎悪の視線が突き刺さる。
アルフレッドは、バルコニーの手すりに立つと、夜空に向かって、鋭く口笛を吹いた。
ヒュウウウウウウッ!
直後、凄まじい風圧と共に、月を遮るほど巨大な影が、バルコニーに音もなく着地した。
「りゅ、竜!?」
月明かりに照らされたのは、鋼のような鱗を持つ、巨大な「飛竜」だった。
アルフレッドは、私を抱えたまま、慣れた様子でワイバーンの背に飛び乗る。
私を彼の体の前にしっかりと固定すると、彼は私の耳元で短く言った。
「舌を噛むなよ。――行け!」
グオオオオオオッ!
ワイバーンは咆哮し、バルコニーを蹴って、王都の夜空へと一気に舞い上がった。
「いやあああああああ!」
眼下の王宮が、急速に小さくなっていく。
私の絶叫は、王都の夜に吸い込まれていった。
どれくらい飛んだだろう。
恐怖で固まっていた私も、ようやく目を開ける余裕ができた。
「うわ……」
そこは、言葉を失うほど美しい世界だった。
私たちは、分厚い雲の海、その上を飛んでいた。
頭上には、手が届きそうなほど近くに、無数の星々が瞬いている。
風の音だけが響く、二人きりの世界。
私が寒さに小さく震えると、アルフレッドは私に自分のマントを巻き付け、懐から小さな包みを取り出した。
「お腹が空いただろう? 夜会ではソフィアはまだ何も食べてなかった」
渡されたのは、まだほかほかと湯気が立つ、「おにぎり」だった。
「……おにぎり……? なんで……」
戸惑いながらも一口食べると、懐かしい塩の味が口に広がり、なぜだか涙が出そうになった。
「美味しい……」
「塩むすびしか用意できてなくて申し訳ないが」
風の音に負けないよう、アルフレッドは私の耳元で言った。
「君は昔から、高級なディナーより、こういうのが好きだった」
「……え?」
「二人で会社で残業してる夜は、君に声をかけて、二人でコンビニに行き、おにぎりを買った。君はいつも"梅"で、俺は"鮭"だった」
「―――!?」
私の心臓が大きく跳ねた。
それは、私と"恋人"だけが知っている、大切な思い出。
「まさか……」
震える声で、私は振り返る。
「あなたは誰……?」
アルフレッドは、竜の速度を少し落とさせ、雲の切れ間から見える月を背に、私を真っ直ぐに見つめた。
「俺だよ、長谷川琅汰だ。神楽坂 咲夜花の恋人の」
「う、うそでしょ、どうしてロウタくんを名乗るの……? そんなイケメンな顔で?」
「……その言い方だと、元はイケメンじゃなかったみたいじゃないか。まあ、自分でイケメンだったと言うつもりもないけど、さ」
「ごめん、わかるように言って欲しい。本当に、ロウタくんなの?」
「ああ。証明する方法はないけど、そうだな……。何か質問してくれれば、答える、でどうかな」
夜空を切り裂く風の音。でも、不思議と寒くはない。
彼のマントが温かいし、何より、このおにぎりの味が、私の心を芯から温めてくれているからだ。
「質問……そうね、じゃあ」
私は、少しだけ意地悪な質問を投げかけることにした。
「去年の私の誕生日、ロウタくんがくれたプレゼントは?」
アルフレッド――中身が琅汰だという彼は、苦笑した。
その美しすぎる顔で苦笑されると破壊力が凄まじいけど、その表情の作り方は、確かに私の知る彼だ。
「"ナマケモノの特大抱き枕"だろ? 君が"家では何もしたくない、ナマケモノになりたい"って言ってたから選んだのに、君は"置き場所がない!"って怒った」
「……正解。あのあと、しょうがないから愛用してた」
「ああ、君が毎日それを抱いて寝てたのを知ってるよ」
間違いない。
こんな些細で、少し恥ずかしい記憶を知っているのは、世界でただ一人。
「ロウタくん、なのね? 本当に、ロウタくんなの?」
「ああ、咲夜花。会いたかった」
彼は、手綱から片手を離し、私を受け止めるように広げた。
私も、食べかけのおにぎりを握りしめたまま、感動に突き動かされて彼に飛びつこうとし――。
「……って、ちょっと待った!」
寸前で、私は急ブレーキをかけた。
「え?」
「いやいや、感動の再会はしたい! したいけど、今はまだ無理! 事情が分からな過ぎて、脳がバグりそう!」
私は彼の胸板を手で押しとどめ、真剣な顔で詰め寄った。
「私、悪役令嬢に転生したってことは……もしかして死んだの? 絶賛デスマーチ中だったけど、ついに過労死した? 私、死んじゃったの!?」
「いや、落ち着いてくれ。君は死んでない」
ロウタくんは、私のパニックを見越していたように、優しく否定した。
「君は死んでないし、向こうの世界でも身体は生きてる。ただ……中身が入れ替わったんだ」
「入れ替わった?」
「ああ。ある日、突然だった。業務中の君が、急にパソコンを前にして立ち上がった。何事かと声をかけた部長に向かって"無礼者"って言い放ったんだ」
「……うわぁ」
想像しただけで胃が痛い。
「君は、まるで別人のように傲慢で、でもどこか気高い雰囲気を纏うようになった。周囲は"過労で頭がおかしくなった"と心配したけど、俺だけは違和感を持った。あんなキャラ変、演技でできるもんじゃない。だから、二人きりになった時に聞いたんだ。"貴女様は高貴なお方とお見受けする。どなた様でしょう?"って」
琅汰は、懐かしむように目を細めた。
「そうしたら彼女は、ふふんと笑って"よく気づいたわね、愚民にしては"と言ったよ」
「……それ、完全にソフィアさんだわ」
「彼女――ソフィアさんの話では、自分が毒を盛られた瞬間に、意識が遠のき、気づいたら日本のオフィスにいたらしい。彼女はすぐに状況を察した。"たぶん、毒よ"って。魂だけを殺して別人を呼び込む"生まれ変わり"の毒があるって、聞いたことがあったそうだ。"あのくそったれ王子が、私に手渡したグラスに仕込んだのね"と激怒してたよ」
「やっぱり、あの王子が犯人だったのね……」
「俺は彼女に聞いたんだ。"どうすれば、咲夜花を取り戻せる? 俺が咲夜花と再会するにはどうすればいい?"って。彼女はしばらく考えて、ある"契約"の話をしてくれた」
「契約、ってまさか、あの?」
琅汰は表情を引き締め、真面目なトーンで語り始めた。
「バルテンベルク家には、古くからある"呪い"がかけられているらしい。"愛した者を必ず失う"という呪いだ」
「王様もそんなことを言ってた……」
「ああ。だが、この家系に生まれる者は例外なく強大な魔力と武力を持つ。王国にとっては代えがたい"国の盾"だ。だから王家は、その血脈を絶やさないために、バルテンベルク家と"神の契約"を交わした」
「王家が"心"を守る、ってやつ?」
「そうだ。バルテンベルク家が国を守り続ける限り、王家はその当主の"心"となる伴侶を選び、王家の名において守り抜く。……つまり、ソフィアさんは、王家によって定められた、この家の"心"として、魂レベルで"契約"されていたんだ」
風が強く吹き、ワイバーンが大きく翼をはためかせる。
「ソフィアさんは言った。"わたくしは異世界に飛ばされたけれど、契約の鎖は繋がったまま。わたくしが元の世界に戻ることは難しいけれど……"」
「けれど……?」
「"戻ることはできなくても、手繰り寄せることはできる"と。今回の件はソフィアさんとしては契約違反だと神に訴えたらしい。でも、身体は無事だから契約違反ともいえないんじゃないかと神は曖昧な態度だったという」
「え、ソフィアさん、神と話をしたの?」
「そうみたい。だからソフィアさんは、神に交渉した。契約の繋がりを使って、婚約者であるアルフレッドの魂を日本へ呼び寄せる。それと同時に、生じた空白に俺の魂を送り込む。それなら可能かもしれない、と」
「……それって、アルフレッドを巻き込むことになるじゃない」
「ああ。だから、神は一つの条件を示した。ソフィアさんが、アルフレッドさんへの"永遠の愛"を誓わなければならない、そういう条件だ」
私は呆気にとられた。
「え? でもソフィアさんは、アルフレッド様のことが嫌いだったんじゃ……」
「俺も聞いた。"貴族の婚約者同士、しかも勝手に決められた相手なら、愛なんて無かったのでは?"って。そうしたら彼女、少し顔を赤くして、そっぽを向いて言ったんだ」
琅汰は、少しおどけた口調で、ソフィアさんの真似をした。
"……今だから言いますけれど、あいつのことは、嫌いじゃありませんでしたわ。ううん、好きって言ってもいいかもしれません"
「ええええ!?」
"ただ、王家によって、勝手に決められた婚約者というのが気に食わなかっただけ。お父様もお母様も、お怒りでした。我が娘は王妃こそが相応しいというのに、あんな鉄血鋼鬼と謳われる化け物に嫁げというのか!と。でも、アルフは、わたくしの無茶な要求にも、全部黙って従ってくれましたもの。アルフからの愛は感じていましたし、わたくしもいつしか、アルフが横にいるのが当たり前になっていましたの"
「ツンデレだ……。究極のツンデレ悪役令嬢だわ……」
「彼女は言った。"この世界に独りぼっちというのも寂しいですし。だから、アルフも巻き込んでやりますわ"って」
琅汰は優しく笑った。
「そうして彼女は神に祈り、永遠の愛を誓った。神はその願いを聞き届け、俺とアルフレッドの魂を入れ替えたんだ。……神の計らいで、互いの記憶を共有した上で」
「記憶を、共有?」
「ああ。俺の中には、今までの俺の記憶と、アルフレッドとしての記憶、両方がある。アルフレッドがどれだけソフィアを愛していたか、その切ないほどの感情も、全部ここにある。証言したのは、俺の代弁だが、間違いなくアルフレッドの気持ちに違いなかった」
「そう。アルフレッドは、ソフィアさんにどれだけ虐げられていても、愛していたのね」
「俺がこの世界に来たのは、君が毒で倒れた直後だった。目が覚めた瞬間、目の前で愛する人が倒れているのを見て……。俺自身の"君を失うかもしれない恐怖"と、アルフレッドの"守れなかったという絶望"が混ざり合って、涙が止まらなかったんだ」
だから、あの時。
私のことを、そしてソフィアさんのことを、あんなにも必死に、壊れ物を扱うように抱きしめてくれたのか。
あれは、二人分の想いが込められた抱擁だったのか。
「じゃあ、今のあなたは……」
「俺は琅汰だ。でも、アルフレッドでもある。そして日本の向こうでは、アルフレッドの記憶を持った俺の身体が、ソフィアさんと再会しているはずだよ」
「そっか……。向こうの二人も、一緒なんだね」
日本のオフィスで、社畜の身体に入った悪役令嬢ソフィアと、最強戦士アルフレッド。
……うん、二人なら、日本の過酷な社会でも、きっと無双して幸せになれる気がする。
「きっと、あの二人は感動の再会をしてる……、と良いなぁ。なんとなく、ソフィアさんは、素直になれなくて、アルフレッドさんに「あんたが守らなかったからこんなことに!」ってひっぱたいていそうでもあるけど」
「ありそう!」
琅汰は、ふっと表情を緩め、いつもの彼らしい、少年のような笑顔を見せた。
「でも、こっちの俺たちの"感動の再会"は、今ようやく、始まるところだ」
彼はもう一度、両手を広げた。
今度は、私もためらわなかった。
「ロウタくん……!」
私は彼に飛び込んだ。
たくましい腕が、私をしっかりと受け止める。
鎧越しでも伝わる体温。懐かしい匂いと、安心できる強さ。
「よかった……本当によかった……」
「ああ」
満天の星空の下、巨大な竜の背に乗って。
私たちは、世界が変わってしまっても変わらない温もりを確かめ合うように、強く、強く抱きしめ合った。




