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13人と黒いリュック――中には、拳銃と“殺人ゲームのルールブック  作者: 妙原奇天


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第8話 正しい射撃

 熊の匂いは、風の向きが変わった瞬間にやってきた。


 生臭さと土の湿った匂いが混ざったような、鼻の奥にひっかかる臭い。沢沿いの道が細くなり、両側の斜面が近づいてきたころ、日高燈はふと足を止めた。


「どうした」


 先頭を歩いていた久我が振り返る。燈は答えず、鼻からゆっくり息を吸い込んだ。湿気の奥に、明らかに人間の汗とは違う重たさがある。


「……獣の匂いがする。さっきまではなかった」


「獣って、まさか」


 寺内が喉を鳴らし、稲葉が足をすくませる。沢の音が、やけに近く聞こえた。


 風が一瞬止み、そのすぐ後で、低い唸り声が木立の向こうから届いた。


「熊だな」


 久我の声は、驚きよりも確認に近かった。

 枝がしなり、黒い影が斜面を舐めるように動く。まだ距離はあるが、こちらの存在には気づいている。


「マジかよ……」


 阿久津が苦笑いを浮かべ、しかし足は動かない。春野は反射的に生徒を庇うときと同じように、体を前へ出し、後ろの稲葉たちを腕で制した。


「動かないで。騒がないで」


 声は震えていたが、ちゃんと届く高さだった。


 久我は素早く周囲を見回す。逃げ込める岩陰はない。沢に下りれば足を取られる。登れば斜面で滑る。

 ここでの選択肢は、限界まで削られていた。


「装備、確認。熊鈴は……」


「さっきから鳴ってますけど」


 佐間が、慣れない冗談で空気をほぐそうとする。腰につけた鈴は確かに微かな音を立てていた。それでも現れたということは、相手があまり気にしていないか、何かの理由で近づいてきたのか。


 そのときだった。


 久我の胸元、黒いリュックの中から、微かな振動が伝わってきた。まるで携帯電話のバイブレーションのような、機械的な震え。

 全員の視線がリュックに集まる。


「……ルールブックか」


 門脇が呟く。久我は一瞬迷ったが、熊から目を完全には離さないようにしながら、片手でファスナーを開けた。

 ブックレットを取り出し、表紙をめくる。紙の表面に、いつもよりも速い速度で文字が走る。


〈接近する脅威 種別:大型哺乳類〉

〈正しい射撃の具体例を提示します〉


「正しい射撃……」


 春野が小さく繰り返す。

 ページの中央に、太字の項目が浮かび上がった。


〈ケース1 人間への直接の攻撃〉

〈ケース2 野生動物による集団への脅威〉

〈ケース3 暴走車両等の物理的障害〉


 その中から、二番目の行が勝手に拡大される。


〈ケース2 野生動物による集団への脅威〉

〈推奨:標的一体への制圧射撃。ただし、装備火力が不十分な場合は警告射撃に切り替え〉

〈目的:即時の脅威排除/集団の退避時間の確保〉


「熊を撃てば『適切』ってことか」


 阿久津が乾いた声で言う。

 門脇は目を細め、補足を読んだ。


「『ただし装備火力が不十分な場合は』って注がある。拳銃一丁で、熊を本当に止められるの?」


「口径にもよるが、距離と当たりどころ次第だ。動物相手は、そう簡単じゃない」


 久我が低く答える。表情は固い。


「撃ち損じたら、逆に興奮させるだけかもしれない。怒らせて突っ込んでこられたら、こっちが終わる」


「でも、ページは『正しい』って言ってる」


 寺内が不安げに視線を彷徨わせる。

 熊の影は少しずつ近づいている。斜面の樹木の間を縫うように移動し、時折こちらの様子をうかがうように立ち止まっては、鼻を鳴らした。


「それに」


 久我が続けた。


「ここで撃ったら、音が谷に響く。人間を呼ぶ」


「人間を……?」


 稲葉が言葉を繰り返す。

 この山域には他にも登山者がいるはずだ。救助隊の可能性もある。だが、それだけではない。


「このリュックを仕掛けたやつが、まだ山にいるなら。銃声を合図として動く設計もあり得る」


 門脇の言葉に、全員の背筋が冷える。

 記録は常に装置側の都合で動いている。音もデータだ。この山のどこかで、誰かが「人間の反応」を観察している可能性は、十分にある。


 熊は、さらに数歩進んだ。

 間近で見ると、その肩の盛り上がりと頭の大きさが、圧倒的だった。毛は濡れており、鼻先が光る。立ち上がれば、人間より高い。


「来るぞ」


 久我が低く告げる。彼は拳銃をホルスターから抜き、スライドをゆっくり後退させて薬室の確認をする。弾は八発。

 その一発が、熊を止める保証はどこにもない。


 ページの文字が、さらに細かく変化した。


〈推奨射撃 距離 二十メートル以内〉

〈推奨部位 頭部・心臓〉

〈備考 射撃後は速やかに退避〉


「マニュアルみたいに簡単に書くなよ……」


 阿久津が吐き捨てる。

 久我は銃口を熊の方向に向けたまま、視線だけで燈を見た。


「……燈」


「え?」


「決めてくれ」


 予想していなかった言葉に、燈は一瞬呼吸を忘れた。

 熊は、少しずつ距離を詰めてくる。まだ走り出してはいない。こちらを見定めている段階だ。


「なんで俺に」


「所有者の判断を助けるための記録だ、ってこれまでページは言ってきた。だが、今の所有者は俺じゃない」


 そう言って、久我は視線で門脇を示した。門脇は短くうなずく。


「所有権は私にある。けど、『正しい射撃』の判断を、私と装置だけで決めるのは違う。現場で熊を見ているのは、最前列の君だ」


 ほんの数秒のあいだに、合意が形作られた。

 命令系統の一番上が、判断を一段下へ渡してくる。紙ではなく、人間側のパス回しだ。


 燈は、熊とページと仲間たちを見比べた。

 手の中のストックが汗で湿っている。背中のザックの脇ポケットには、熊避けスプレーが入っている。ファスナーの位置も、重さも分かっている。


「……撃ったら、当たる?」


 燈は具体的に聞いた。感情ではなく、事実の可能性として。


「分からない」


 久我は即答した。虚勢も希望も混じっていない。


「この距離、この銃、この角度。止められる可能性はゼロじゃないが、高くはない。むしろ、撃った後の展開のほうが読めない」


「撃たなかったら?」


「熊次第だ。ただ、ここは奴にとっても歩きにくい地形だ。お互いこの場で鉢合わせしたくて来たわけじゃない。追い払えるなら、それが一番いい」


 燈はゆっくり息を吸った。鼻から吸い込んだ空気は獣の匂いで重たい。それでも、その重さを肺の底まで沈め、口から細く吐き出す。


「……熊スプレーと、火を使う」


 決めた。

 熊に向けて銃を撃たない選択。ページが「正しい射撃」として示したテンプレから外れる道。

 その代わりに、「正しい脅し」を選ぶ。


「春野さん、ライターありますか」


「え、あ、うん……」


 春野は慌ててザックを探り、小さなライターを取り出した。生徒に注意するために、普段は使わないようにしているものだ。

 燈はそれを受け取り、自分のウインドブレーカーのポケットから、小さく丸めた着火剤用の紙片を出す。濡れないよう、ずっと奥にしまっておいたものだ。


「佐間さん、消毒用アルコールってあります?」


「ジェル状ならある。スプレーはないが」


「それでいいです。紙に染み込ませて、短時間だけ火柱を作る」


 即席の火炎スティック。危険だが、ここで銃を撃つよりはコントロールできる。

 燈は熊避けスプレーの位置を確認しながら、膝を曲げて姿勢を低くした。


「みんなは、後ろへ下がって。熊と俺たちの間に、スペースを作る。ロープは張ったまま。逃げる方向は沢の下じゃなく、斜面の上」


「了解」


 久我が短く答え、阿久津の肩を押して後退させる。寺内と稲葉も数歩ずつ下がる。門脇はブックレットを握りしめたまま、視線だけで全体の位置を追っている。


 熊は、もう十数メートル先まで来ていた。

 黒い毛並みがはっきり見える距離。鼻がこちらの匂いを嗅ぎ、前足が大地を踏みしめる。


「行く」


 燈は紙片にアルコールを染み込ませ、ライターで火をつけた。ぼう、と小さな炎が立ち上がる。すぐに風にあおられそうになるが、手で風下を塞いでやると、炎は少しだけ高くなった。


 同時に、熊避けスプレーの安全カバーを親指で外す。

 熊が一歩、こちらに体重を移した。


「おいで、じゃない。帰れ」


 燈は自分にしか聞こえない声量で呟き、一歩前へ出た。火のついた紙片は顔の横、小さく揺れるように掲げる。

 熊の目に、炎の光が映る。耳がピクリと動いた。


 次の瞬間、熊が低く唸り、半身をこちらに向けた。

 燈は地面を踏み込み、一気にスプレーの噴射ボタンを押し込む。


 シューッ、という甲高い噴射音とともに、オレンジ色の霧が風に乗って熊の顔めがけて飛ぶ。


「うわ……!」


 阿久津が思わず顔を背ける。辛味成分を含んだ霧は、少しでも逆風になればこちらにも降りかかる。燈は息を止め、さらに一歩前へ出て噴射を重ねた。


 熊が、突然前足で顔をこすり始めた。鼻と目の周りが焼けるように痛いのだろう。唸り声が高くなり、頭を振る。


「戻れ!」


 久我の声が飛ぶ。燈はそれに合わせて、一歩後ろへ下がった。スプレーを振り切るように、前方へもう一度短く噴射し、その直後に火のついた紙片を手前の地面へ投げ捨てる。


 乾いた枯葉と小枝に火が移り、小さな炎が一瞬だけ立ち上がった。

 炎はすぐに湿った土と石に押さえ込まれる。それでも、熊の目には十分な脅威だったらしい。辛味と炎と人間の動きが重なり、熊は大きく後退した。


 鼻を鳴らし、斜面の上へ駆け上がる。

 土と石が転がり落ち、沢の音にバラバラと混ざる。数秒後には、黒い影は木立の向こうに消えていた。


「……行った?」


 稲葉が震える声で問う。誰もすぐには答えない。

 風の音と沢の流れだけを数えていると、やがて熊の唸り声も足音も聞こえなくなった。


「よし、全員そのまま」


 久我が周囲を見渡し、耳を澄ませる。異常なしと判断すると、ようやく銃口を下げた。

 燈は息を吐き、足の力が抜けて膝をついた。


「燈くん!」


 春野が駆け寄る。佐間も膝をつき、燈の顔色と呼吸を確認した。


「スプレー、少し自分にもかかっただろ。目は? 喉は?」


「平気です。ちょっと鼻が痛いくらい」


 燈は笑おうとして、上手く笑えなかった。心臓はまだ早く打っている。


「よくやった」


 久我が短く言う。その声は正直で、余計な飾りがない。


 そのとき、門脇が小さく息を呑んだ。


「……ページが」


 全員が振り向く。

 ブックレットの下段で、弾薬数の表示が揺らいでいた。


〈弾薬数 七〉


「あれ?」


 佐間が首を傾げる。


「撃ってないのに、一発減ってる……?」


 門脇はすぐに隣の行に目を走らせた。小さな注釈が追加されている。


〈本日の罰 免除〉

〈理由 共同判断による脅威回避〉

〈備考 適切な射撃に準ずる行動として、弾薬を一単位消費〉


「……どういう理屈だよ、それ」


 阿久津が額に手を当てる。


「撃ってないのに『消費』扱い? ケチくさいっていうか、なんていうか」


「罰は免除、か」


 久我が呟く。太文字の「免除」の二文字だけが、いやに目に付いた。


 ページは、気の利いた褒め言葉を一つも書いてこない。

 「よくやった」「賢明な判断だった」そんな人間同士の会話で出てくる言葉は、一切並ばない。ただ、事実として「罰を免除」「弾薬を消費」とだけ記す。


「装置は、人間の合意より、自分の記法に忠実、ってわけか」


 門脇の言葉は冷たく、どこか諦めを含んでいた。


「『適切な射撃』の条件を満たす代わりに、弾を一発使ったことにする。発射されたかどうかは関係ない。記録上、そう処理すればアルゴリズムが回しやすいから」


「でも、そのおかげで罰が免除された」


 寺内が、小さな声で言う。


「撃ってないのに、撃ったのと同じ扱いにしてくれた、ってことでもある」


「『してくれた』って言葉を、なるべく使わないようにしたいけどね」


 門脇は苦笑した。


「こいつは恩人じゃない。ただ、自分のルールをきれいに並べ直してるだけ」


 燈は弾薬数の表示を見つめた。七という数字が、さっきまでよりも妙に重く感じられる。

 撃っていない一発が、記録の上だけで消される。そこには誰の銃声も、誰の悲鳴もない。ただ、「条件を満たした」という事実だけがある。


「それでも」


 久我が言った。

 視線はページではなく、燈のほうに向けられている。


「俺たちは、撃たないで済ませた。熊も、人間も、撃たずに済んだ。そこは、装置がどう言おうと変わらない」


 燈は頷いた。

 熊の姿はもう見えない。だが、あの黒い目と、炎に揺れた毛並みの印象は、鮮明に残っている。


「……『正しい射撃』が何かは、装置が決めてくる。けど、『正しい行動』が何かは、自分たちで決める」


 自分で口に出してみて、燈はその言葉の重さに少しだけ驚いた。

 装置の「正しさ」と、人間の「正しさ」は、重なることもあれば、ズレることもある。今日はたまたま、「罰免除」と「熊が去る」が同じ方向を向いた。明日もそうとは限らない。


「ページが何も褒めてくれなくても、私は燈くんを褒めるよ」


 春野が柔らかく笑う。


「よく逃がしてくれた。生徒にも、こういう判断をしてほしいって思う」


「俺も、生配信だったら高評価押してるところだ」


 阿久津が冗談めかして言い、すぐに口を押さえた。


「いや、違うな。配信しちゃダメなやつだ、これは」


 小さな笑いが生まれる。

 沢の音は相変わらずだが、さっきまでとは違う響きに聞こえた。さきほどまで「落ちたら死ぬ」のカウントダウンだった音が、ほんの少しだけ薄くなっている。


「罰免除ってことは、今日の日没は……」


 稲葉が確認するように言う。

 門脇はページを閉じ、胸に抱えた。


「少なくとも、装置の側からの処刑はない。罰の内容がどこまで増えているかは分からないけど、今日は『共同判断』ってタグが一つ付いた」


「タグ、ね」


 阿久津が笑う。


「『共同判断』『熊スプレー』『火』『罰免除』。バズりそうでバズってほしくないワードばっかりだな」


「バズらなくていい」


 燈は即座に言った。その言葉に、みんなの笑いが少し増える。


 弾は七発。

 そのうちの一発は、撃たれないまま記録上だけで消えた。

 代わりに残ったのは、「共同判断による罰免除」という一行と、熊が去っていった斜面の記憶だ。


「行こう」


 久我が言った。

 撃たなかった銃をホルスターに戻し、ロープを握り直す。


「今日の夜は、少なくとも『罰』を心配せずに済む。その分、足元と天気に頭を使える」


 山は、相変わらず難度を上げてくるだろう。

 記録は、相変わらず詳細になるだろう。


 装置の「正しい射撃」が、次にどんな形で提示されるのかは、まだ分からない。

 それでも、今この瞬間、熊を撃たずに済んだという事実は、誰にも書き換えられない。


 沢の底を流れる水は、何度も同じ石を撫でる。

 人間の選択も、何度も同じ問いを撫でていく。撃つか、撃たないか。正しいか、正しくないか。


 そのたびに、弾は減り、記録は増え、輪は重なっていく。

 それでも彼らは、足を前に出す。


 まだ弾は七発。

 まだ、決められる余地は残っている。

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