第8話 正しい射撃
熊の匂いは、風の向きが変わった瞬間にやってきた。
生臭さと土の湿った匂いが混ざったような、鼻の奥にひっかかる臭い。沢沿いの道が細くなり、両側の斜面が近づいてきたころ、日高燈はふと足を止めた。
「どうした」
先頭を歩いていた久我が振り返る。燈は答えず、鼻からゆっくり息を吸い込んだ。湿気の奥に、明らかに人間の汗とは違う重たさがある。
「……獣の匂いがする。さっきまではなかった」
「獣って、まさか」
寺内が喉を鳴らし、稲葉が足をすくませる。沢の音が、やけに近く聞こえた。
風が一瞬止み、そのすぐ後で、低い唸り声が木立の向こうから届いた。
「熊だな」
久我の声は、驚きよりも確認に近かった。
枝がしなり、黒い影が斜面を舐めるように動く。まだ距離はあるが、こちらの存在には気づいている。
「マジかよ……」
阿久津が苦笑いを浮かべ、しかし足は動かない。春野は反射的に生徒を庇うときと同じように、体を前へ出し、後ろの稲葉たちを腕で制した。
「動かないで。騒がないで」
声は震えていたが、ちゃんと届く高さだった。
久我は素早く周囲を見回す。逃げ込める岩陰はない。沢に下りれば足を取られる。登れば斜面で滑る。
ここでの選択肢は、限界まで削られていた。
「装備、確認。熊鈴は……」
「さっきから鳴ってますけど」
佐間が、慣れない冗談で空気をほぐそうとする。腰につけた鈴は確かに微かな音を立てていた。それでも現れたということは、相手があまり気にしていないか、何かの理由で近づいてきたのか。
そのときだった。
久我の胸元、黒いリュックの中から、微かな振動が伝わってきた。まるで携帯電話のバイブレーションのような、機械的な震え。
全員の視線がリュックに集まる。
「……ルールブックか」
門脇が呟く。久我は一瞬迷ったが、熊から目を完全には離さないようにしながら、片手でファスナーを開けた。
ブックレットを取り出し、表紙をめくる。紙の表面に、いつもよりも速い速度で文字が走る。
〈接近する脅威 種別:大型哺乳類〉
〈正しい射撃の具体例を提示します〉
「正しい射撃……」
春野が小さく繰り返す。
ページの中央に、太字の項目が浮かび上がった。
〈ケース1 人間への直接の攻撃〉
〈ケース2 野生動物による集団への脅威〉
〈ケース3 暴走車両等の物理的障害〉
その中から、二番目の行が勝手に拡大される。
〈ケース2 野生動物による集団への脅威〉
〈推奨:標的一体への制圧射撃。ただし、装備火力が不十分な場合は警告射撃に切り替え〉
〈目的:即時の脅威排除/集団の退避時間の確保〉
「熊を撃てば『適切』ってことか」
阿久津が乾いた声で言う。
門脇は目を細め、補足を読んだ。
「『ただし装備火力が不十分な場合は』って注がある。拳銃一丁で、熊を本当に止められるの?」
「口径にもよるが、距離と当たりどころ次第だ。動物相手は、そう簡単じゃない」
久我が低く答える。表情は固い。
「撃ち損じたら、逆に興奮させるだけかもしれない。怒らせて突っ込んでこられたら、こっちが終わる」
「でも、ページは『正しい』って言ってる」
寺内が不安げに視線を彷徨わせる。
熊の影は少しずつ近づいている。斜面の樹木の間を縫うように移動し、時折こちらの様子をうかがうように立ち止まっては、鼻を鳴らした。
「それに」
久我が続けた。
「ここで撃ったら、音が谷に響く。人間を呼ぶ」
「人間を……?」
稲葉が言葉を繰り返す。
この山域には他にも登山者がいるはずだ。救助隊の可能性もある。だが、それだけではない。
「このリュックを仕掛けたやつが、まだ山にいるなら。銃声を合図として動く設計もあり得る」
門脇の言葉に、全員の背筋が冷える。
記録は常に装置側の都合で動いている。音もデータだ。この山のどこかで、誰かが「人間の反応」を観察している可能性は、十分にある。
熊は、さらに数歩進んだ。
間近で見ると、その肩の盛り上がりと頭の大きさが、圧倒的だった。毛は濡れており、鼻先が光る。立ち上がれば、人間より高い。
「来るぞ」
久我が低く告げる。彼は拳銃をホルスターから抜き、スライドをゆっくり後退させて薬室の確認をする。弾は八発。
その一発が、熊を止める保証はどこにもない。
ページの文字が、さらに細かく変化した。
〈推奨射撃 距離 二十メートル以内〉
〈推奨部位 頭部・心臓〉
〈備考 射撃後は速やかに退避〉
「マニュアルみたいに簡単に書くなよ……」
阿久津が吐き捨てる。
久我は銃口を熊の方向に向けたまま、視線だけで燈を見た。
「……燈」
「え?」
「決めてくれ」
予想していなかった言葉に、燈は一瞬呼吸を忘れた。
熊は、少しずつ距離を詰めてくる。まだ走り出してはいない。こちらを見定めている段階だ。
「なんで俺に」
「所有者の判断を助けるための記録だ、ってこれまでページは言ってきた。だが、今の所有者は俺じゃない」
そう言って、久我は視線で門脇を示した。門脇は短くうなずく。
「所有権は私にある。けど、『正しい射撃』の判断を、私と装置だけで決めるのは違う。現場で熊を見ているのは、最前列の君だ」
ほんの数秒のあいだに、合意が形作られた。
命令系統の一番上が、判断を一段下へ渡してくる。紙ではなく、人間側のパス回しだ。
燈は、熊とページと仲間たちを見比べた。
手の中のストックが汗で湿っている。背中のザックの脇ポケットには、熊避けスプレーが入っている。ファスナーの位置も、重さも分かっている。
「……撃ったら、当たる?」
燈は具体的に聞いた。感情ではなく、事実の可能性として。
「分からない」
久我は即答した。虚勢も希望も混じっていない。
「この距離、この銃、この角度。止められる可能性はゼロじゃないが、高くはない。むしろ、撃った後の展開のほうが読めない」
「撃たなかったら?」
「熊次第だ。ただ、ここは奴にとっても歩きにくい地形だ。お互いこの場で鉢合わせしたくて来たわけじゃない。追い払えるなら、それが一番いい」
燈はゆっくり息を吸った。鼻から吸い込んだ空気は獣の匂いで重たい。それでも、その重さを肺の底まで沈め、口から細く吐き出す。
「……熊スプレーと、火を使う」
決めた。
熊に向けて銃を撃たない選択。ページが「正しい射撃」として示したテンプレから外れる道。
その代わりに、「正しい脅し」を選ぶ。
「春野さん、ライターありますか」
「え、あ、うん……」
春野は慌ててザックを探り、小さなライターを取り出した。生徒に注意するために、普段は使わないようにしているものだ。
燈はそれを受け取り、自分のウインドブレーカーのポケットから、小さく丸めた着火剤用の紙片を出す。濡れないよう、ずっと奥にしまっておいたものだ。
「佐間さん、消毒用アルコールってあります?」
「ジェル状ならある。スプレーはないが」
「それでいいです。紙に染み込ませて、短時間だけ火柱を作る」
即席の火炎スティック。危険だが、ここで銃を撃つよりはコントロールできる。
燈は熊避けスプレーの位置を確認しながら、膝を曲げて姿勢を低くした。
「みんなは、後ろへ下がって。熊と俺たちの間に、スペースを作る。ロープは張ったまま。逃げる方向は沢の下じゃなく、斜面の上」
「了解」
久我が短く答え、阿久津の肩を押して後退させる。寺内と稲葉も数歩ずつ下がる。門脇はブックレットを握りしめたまま、視線だけで全体の位置を追っている。
熊は、もう十数メートル先まで来ていた。
黒い毛並みがはっきり見える距離。鼻がこちらの匂いを嗅ぎ、前足が大地を踏みしめる。
「行く」
燈は紙片にアルコールを染み込ませ、ライターで火をつけた。ぼう、と小さな炎が立ち上がる。すぐに風にあおられそうになるが、手で風下を塞いでやると、炎は少しだけ高くなった。
同時に、熊避けスプレーの安全カバーを親指で外す。
熊が一歩、こちらに体重を移した。
「おいで、じゃない。帰れ」
燈は自分にしか聞こえない声量で呟き、一歩前へ出た。火のついた紙片は顔の横、小さく揺れるように掲げる。
熊の目に、炎の光が映る。耳がピクリと動いた。
次の瞬間、熊が低く唸り、半身をこちらに向けた。
燈は地面を踏み込み、一気にスプレーの噴射ボタンを押し込む。
シューッ、という甲高い噴射音とともに、オレンジ色の霧が風に乗って熊の顔めがけて飛ぶ。
「うわ……!」
阿久津が思わず顔を背ける。辛味成分を含んだ霧は、少しでも逆風になればこちらにも降りかかる。燈は息を止め、さらに一歩前へ出て噴射を重ねた。
熊が、突然前足で顔をこすり始めた。鼻と目の周りが焼けるように痛いのだろう。唸り声が高くなり、頭を振る。
「戻れ!」
久我の声が飛ぶ。燈はそれに合わせて、一歩後ろへ下がった。スプレーを振り切るように、前方へもう一度短く噴射し、その直後に火のついた紙片を手前の地面へ投げ捨てる。
乾いた枯葉と小枝に火が移り、小さな炎が一瞬だけ立ち上がった。
炎はすぐに湿った土と石に押さえ込まれる。それでも、熊の目には十分な脅威だったらしい。辛味と炎と人間の動きが重なり、熊は大きく後退した。
鼻を鳴らし、斜面の上へ駆け上がる。
土と石が転がり落ち、沢の音にバラバラと混ざる。数秒後には、黒い影は木立の向こうに消えていた。
「……行った?」
稲葉が震える声で問う。誰もすぐには答えない。
風の音と沢の流れだけを数えていると、やがて熊の唸り声も足音も聞こえなくなった。
「よし、全員そのまま」
久我が周囲を見渡し、耳を澄ませる。異常なしと判断すると、ようやく銃口を下げた。
燈は息を吐き、足の力が抜けて膝をついた。
「燈くん!」
春野が駆け寄る。佐間も膝をつき、燈の顔色と呼吸を確認した。
「スプレー、少し自分にもかかっただろ。目は? 喉は?」
「平気です。ちょっと鼻が痛いくらい」
燈は笑おうとして、上手く笑えなかった。心臓はまだ早く打っている。
「よくやった」
久我が短く言う。その声は正直で、余計な飾りがない。
そのとき、門脇が小さく息を呑んだ。
「……ページが」
全員が振り向く。
ブックレットの下段で、弾薬数の表示が揺らいでいた。
〈弾薬数 七〉
「あれ?」
佐間が首を傾げる。
「撃ってないのに、一発減ってる……?」
門脇はすぐに隣の行に目を走らせた。小さな注釈が追加されている。
〈本日の罰 免除〉
〈理由 共同判断による脅威回避〉
〈備考 適切な射撃に準ずる行動として、弾薬を一単位消費〉
「……どういう理屈だよ、それ」
阿久津が額に手を当てる。
「撃ってないのに『消費』扱い? ケチくさいっていうか、なんていうか」
「罰は免除、か」
久我が呟く。太文字の「免除」の二文字だけが、いやに目に付いた。
ページは、気の利いた褒め言葉を一つも書いてこない。
「よくやった」「賢明な判断だった」そんな人間同士の会話で出てくる言葉は、一切並ばない。ただ、事実として「罰を免除」「弾薬を消費」とだけ記す。
「装置は、人間の合意より、自分の記法に忠実、ってわけか」
門脇の言葉は冷たく、どこか諦めを含んでいた。
「『適切な射撃』の条件を満たす代わりに、弾を一発使ったことにする。発射されたかどうかは関係ない。記録上、そう処理すればアルゴリズムが回しやすいから」
「でも、そのおかげで罰が免除された」
寺内が、小さな声で言う。
「撃ってないのに、撃ったのと同じ扱いにしてくれた、ってことでもある」
「『してくれた』って言葉を、なるべく使わないようにしたいけどね」
門脇は苦笑した。
「こいつは恩人じゃない。ただ、自分のルールをきれいに並べ直してるだけ」
燈は弾薬数の表示を見つめた。七という数字が、さっきまでよりも妙に重く感じられる。
撃っていない一発が、記録の上だけで消される。そこには誰の銃声も、誰の悲鳴もない。ただ、「条件を満たした」という事実だけがある。
「それでも」
久我が言った。
視線はページではなく、燈のほうに向けられている。
「俺たちは、撃たないで済ませた。熊も、人間も、撃たずに済んだ。そこは、装置がどう言おうと変わらない」
燈は頷いた。
熊の姿はもう見えない。だが、あの黒い目と、炎に揺れた毛並みの印象は、鮮明に残っている。
「……『正しい射撃』が何かは、装置が決めてくる。けど、『正しい行動』が何かは、自分たちで決める」
自分で口に出してみて、燈はその言葉の重さに少しだけ驚いた。
装置の「正しさ」と、人間の「正しさ」は、重なることもあれば、ズレることもある。今日はたまたま、「罰免除」と「熊が去る」が同じ方向を向いた。明日もそうとは限らない。
「ページが何も褒めてくれなくても、私は燈くんを褒めるよ」
春野が柔らかく笑う。
「よく逃がしてくれた。生徒にも、こういう判断をしてほしいって思う」
「俺も、生配信だったら高評価押してるところだ」
阿久津が冗談めかして言い、すぐに口を押さえた。
「いや、違うな。配信しちゃダメなやつだ、これは」
小さな笑いが生まれる。
沢の音は相変わらずだが、さっきまでとは違う響きに聞こえた。さきほどまで「落ちたら死ぬ」のカウントダウンだった音が、ほんの少しだけ薄くなっている。
「罰免除ってことは、今日の日没は……」
稲葉が確認するように言う。
門脇はページを閉じ、胸に抱えた。
「少なくとも、装置の側からの処刑はない。罰の内容がどこまで増えているかは分からないけど、今日は『共同判断』ってタグが一つ付いた」
「タグ、ね」
阿久津が笑う。
「『共同判断』『熊スプレー』『火』『罰免除』。バズりそうでバズってほしくないワードばっかりだな」
「バズらなくていい」
燈は即座に言った。その言葉に、みんなの笑いが少し増える。
弾は七発。
そのうちの一発は、撃たれないまま記録上だけで消えた。
代わりに残ったのは、「共同判断による罰免除」という一行と、熊が去っていった斜面の記憶だ。
「行こう」
久我が言った。
撃たなかった銃をホルスターに戻し、ロープを握り直す。
「今日の夜は、少なくとも『罰』を心配せずに済む。その分、足元と天気に頭を使える」
山は、相変わらず難度を上げてくるだろう。
記録は、相変わらず詳細になるだろう。
装置の「正しい射撃」が、次にどんな形で提示されるのかは、まだ分からない。
それでも、今この瞬間、熊を撃たずに済んだという事実は、誰にも書き換えられない。
沢の底を流れる水は、何度も同じ石を撫でる。
人間の選択も、何度も同じ問いを撫でていく。撃つか、撃たないか。正しいか、正しくないか。
そのたびに、弾は減り、記録は増え、輪は重なっていく。
それでも彼らは、足を前に出す。
まだ弾は七発。
まだ、決められる余地は残っている。




