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13人と黒いリュック――中には、拳銃と“殺人ゲームのルールブック  作者: 妙原奇天


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第4話 記録の読者

 夜は、雨を細くした。

 屋根を叩く音は弱まったのに、避難小屋の中の緊張はほどけない。革ベルトに重なる手のひらは汗でふやけ、指先の感覚がにぶくなる。誰が最も長く触れているのか、紙のどこかで見えない秒針が回っている。


「……来た」


 門脇が低く呟く。ルールブックの下段、薄く点滅していた表示が強く光り、文字が浮かぶ。


「所有権の移転。累積接触時間の最長者へ」


 黒いインクが走り、名前が形になる。


「所有者 久我透」


 空気が、わずかに動いた。握っていた手が自然に離れ、視線が一斉に久我へ向かう。久我は小さく息を吐き、濡れたジャケットの袖で掌を拭うと、リュックのベルトを静かに受け取った。


「俺が持つ。まずは中身の安全確認だ」


 彼はリュックの口を少し開き、拳銃の位置、弾倉の固定、通信装置のランプを確かめる。動きは無駄がない。燈は無意識に肩の力を抜き、空になった自分のザックの軽さを改めて意識した。


「ページ、開いて」


 春野が言う。誰も止めない。久我はブックレットを取り出し、灯りもない小屋の中で、白い紙の反射だけを頼りにページをめくった。


 文字が、変わった。


 それまで無機質だった条文が、急に息をしたように膨らみ、行間に説明が挿し込まれる。箇条書きのすぐ脇に括弧書きでエピソードが添えられ、固い名詞のあとに「つまり」と柔らかい言い換えが続く。見ているのは同じ紙なのに、紙の側が読み手を理解しているかのようだ。


「なんだよ、これ」


 阿久津が顔をしかめる。

 門脇は眼鏡を押し上げ、慎重に言葉を選んだ。


「読者最適化。記録が客観じゃない。読み手に合わせて、要約のニュアンスや順序を変える。広告のパーソナライズと同じ仕組みだ」


「記録が、俺向けになってるってことか」


 久我がページをさらにめくる。そこに現れたのは、彼の名の見出しだった。太字ではないのに目がそこに吸い寄せられる。黒い線で引かれた枠の中に、軍歴の記述が静かに並んでいた。


「陸上自衛隊 山岳レンジャー課程修了。災害派遣活動 八回。個別記録の閲覧は所有者のみ可能。なお以下は『背景説明』であり、断罪ではない。あなたの判断は集団の安全と矛盾しない限り尊重される……」


 声には出していないのに、燈には分かった。久我の顔から血の気が引いたのが。彼はただの元救助隊員ではない。紙は優しい言い方で近づき、核心を避けずに触れてくる。


「大丈夫ですか」


 春野の声は小さい。久我は短く頷いたが、その頷きは硬い。


「……こんな書き方、ずるいな」


 門脇がページの余白を指さす。括弧内に薄字で注釈が差し込まれている。


「『あなたの判断は尊重される』。これは心理誘導だ。安心させる言葉を混ぜて、読み手の抵抗を緩める。記録が主観に合わせて色を変えるなら、『適切』の定義もまた装置側の恣意で塗り替えられる。公正の皮を被ったナッジだよ」


「つまり、装置が俺に『お前なら撃てる』と言ってきてるってことか」


 久我は自嘲のように笑い、ページを閉じかけ、それでも開いたままにした。

 雨は細いまま続く。濡れた木の匂いが鼻の奥に残り、喉を渇かす。


「電波、たぶん上だ。雲が抜ける瞬間がある」


 阿久津が立ち上がった。顔に疲れは残るが、目にだけ火がついている。


「少しだけ見てくる。ライブは無理でも予約投稿なら手はある。世の中に知らせる。俺たちだけの問題じゃない」


「夜間行動は危険だ。さっき警告も出てた」


 燈が止める。阿久津は肩をすくめ、笑う。


「俺は触ってない。『受益対象外』だろ。だったら、俺が動くくらいのほうが、バランス取れる」


「バランスって言葉で命を秤に乗せるな」


 久我の言葉は短く鋭い。阿久津は言い返さず、フードを被って扉へ手を伸ばした。


「一人で行くな」


 結局、久我が腰のライトを取って後を追う。燈は立ちかけたが、春野が袖をつまんで止めた。


「任せよう。もし滑ったりしたら、動ける人は少ないほうがいい」


 扉が開き、夜の湿った空気が流れ込む。ふたりの背中が闇に溶け、足音が石に当たって消える。小屋の中には、雨と呼吸と、不安の音しか残らなかった。


「……読もう」


 門脇が言った。ページはこちらを挑発するように開きっぱなしだ。彼は慎重に紙を持ち上げ、行を追う。読む者が変わると、紙はまた表情を変える。


「記録の目的 説明。集団安全の最大化。衝突回避。責任の分配……」


 言い回しが柔らかくなった。難しい言葉の後に「つまり」が続き、素人でも分かる例え話が差し挟まる。門脇は苦笑する。


「やっぱり読者最適化だな。俺が読んでるときだけ、語りが講義っぽくなる」


「どうせだったら、答えまで書いてくれればいいのに」


 寺内が、膝を抱えたまま言う。

 稲葉は黙って祈るように手を組み、一度だけ空を見た。


 外では、石が転がる音がした。次の瞬間、鋭い叫び。阿久津だ。燈の体が無意識に反応する。扉を開けると、夜の斜面に弱い灯りが揺れている。ガレ場が雨でゆるみ、石が動く。光が、ずれて、落ちる。


「阿久津!」


 久我の声。燈は小屋を飛び出そうとするが、久我がすでにそこにいた。彼は縁に腹ばいになり、片手で阿久津の腕をつかむ。もう片方の手でピッケル代わりにトレッキングポールを突き刺し、体を固定する。


「足を広げろ。重心を低く。右足の下、石が逃げるぞ」


 指示は短く、具体的だ。阿久津は必死に従う。滑落まではいかないが、斜面の中腹で片足を取られ、腰が落ちている。雨で濡れた石は信用ならない。


「引き上げる。三、二、一」


 久我がカウントし、阿久津が上体を寄せる。石が一つ、重い音を立てて落ち、暗闇に消える。久我は阿久津のザックのハーネスをつかんで、肩で持ち上げるように引いた。


「もう少しだ。左。そうだ」


 最後の一押しで、阿久津は縁に転がり込む。肩で息をし、空を仰ぐ。雲が薄く裂け、星が一つだけ見えた。わずかな電波の兆しに、彼の指がポケットのスマホを探る。


「電波が……」


「戻るぞ」


 久我は短く言い、阿久津の肩を叩く。ふたりは小屋へ戻る。扉が閉まり、湿った空気が切り替わる。春野が安堵の息をつき、稲葉が小さく十字を切る。


「助かった……」


 阿久津は床に座り込み、笑いに近い息を吐いた。その直後だった。


「今の、めちゃくちゃ良かったな」


 彼は無意識の熱で言葉を出す。


「助けられた負い目ってさ、視聴者に刺さるんだよ。『俺はあの時、助けられた。だから今度は俺が助ける番だ』。一本、いける」


 空気がきしむ音がした。言葉の端が石より鋭くなって、何かを引っかく。


「ネタに換算、か」


 久我の声は低い。怒鳴らない。だが、刺さる。阿久津の笑みが揺れ、喉がつまる。


「……悪気で言ったわけじゃない。ただ、考えてた」


「考える前に、そこへ行く性質があるのは、分かった」


 久我は視線を落とし、紙を開く。門脇が小さく息を呑む。紙は、既にそれを予期していたように、行の形を変えていた。


「『贖い』の物語は視聴者の共感を誘発します。だが、贖いを見世物にする設計は、集団の安全に寄与しない。適切な射撃の観点からは、即時の脅威排除/集団の利益保全が優先されます」


 春野が顔を上げる。


「今、なんて」


 門脇が読み上げる。紙の余白に新しい項目が流れ込む。


「適切な射撃例 追記。即時の脅威排除。集団の利益保全。判断遅延による被害の拡大を避ける。付記、主観的な悪意の制裁は含まない」


 避難小屋の空気が一斉に収縮する。誰もがその文を理解できた。


「つまり」


 寺内が言葉を継ぐ。

 誰かが続ける。


「撃っていい時があるって、書いてある」


 沈黙。雨音だけがゆっくり流れる。燈は唇を噛み、拳を握った。装置が定義する「適切」。それは、こちらに選択の責任を返す代わりに、方向をなぞるよう要求してくる。撃てるように、撃ちやすいように、言葉を整える。


「『例』は、例だ」


 久我が言う。


「命令ではない。誘導だとしても、最後に引き金を引く指は俺たちのものだ」


「装置が『即時の脅威排除』と書いた直後に、誰かを脅威だと指さすやつが出たらどうする」


 門脇の問いは現実的だ。春野が目を伏せる。阿久津は顔を上げ、呼吸を整える。


「脅威、ってなんだよ。俺か? 俺のことか?」


「自分で言うな」


 燈は、前に出た。声は自然と落ち着いていた。ページが誰の心も撫で回すなら、自分たちは互いの心を守る番だ。


「脅威の定義を、装置に任せない。『即時』も『利益』も、言い換えれば便利な言葉だ。『いま』は誰の時計で測る。『利益』は誰の計算で出す。俺たちの言葉に戻して、具体にする」


「具体って?」


「例えば、転落の危険が差し迫っているとか、体調が急変しているとか。俺たちが見えるものに限る。人格や過去や、紙に書かれた『罪』は、判断の材料にしない。紙はあくまで情報。裁判じゃない」


 言いながら、燈は自分自身にもそれを刻みつけた。装置の示す「例」は脳に食い込みやすい。警察マニュアルのように見える。そこに乗ってしまえば、理屈はつく。だが、その先にあるのは本当に安全か。


「よし。線を引く」


 久我は短くまとめる。


「『適切な射撃』の解釈は、装置のテンプレではなく、ここにいる俺たちの合意に基づく。撃つなら、それは落石を止めるための発砲や、野生動物の威嚇のような、物理的危機に限る。人に向けない。合意のない発砲は、どの例にも合致しない不適切とみなす」


「賛成」


 門脇が手を挙げる。春野もうなずく。阿久津は視線を揺らし、やがて小さく頷いた。寺内、稲葉、他のメンバーもそれに続く。避難小屋の真ん中に、言葉で引いた線が見えた気がした。


 紙は何も言わない。ただ、余白の隅に点のような印が現れ、静かに消えた。合意を記録したのか、嗤っているのか、判断はできない。


「……眠れないな」


 寺内がつぶやく。誰も否定しない。

 久我はリュックを抱え、入口から少し離れた壁に背を預けた。眠るつもりはない目だった。所有者の夜は長い。読めば読むほど、紙は読み手の心に合わせて形を変える。油断すれば、正義の顔になって近づいてくる。


「交代は」


 燈が問う。久我は首を横に振る。


「今は俺が持つ。『読者最適化』が本当なら、読み手を変えるたび、装置は別の角度で誘ってくる。今はひとつの誘いと戦う」


「じゃあ、せめて」


 春野が自分の薄いジャケットを脱いで差し出す。


「濡れてるけど、背中に巻いて」


「ありがとう」


 久我は受け取らず、彼女の手をそっと戻した。


「風邪をひく。大丈夫だ」


 阿久津は黙って、自分の薄っぺらいタオルを投げた。久我はそれを受け、首の汗を拭う。阿久津は顔を背け、壁の節穴を見つめる。風はそこからも入ってきた。


 門脇は紙の端に指を置き、もう一度だけ行を追った。どの文も「誰か」を安心させる配列で出来ている。装置は敵意よりも優しさの顔を好む。優しさの顔のまま、先に進ませようとする。それが一番厄介だと、彼は理解していた。


「眠る人、交代で」


 燈が言い、春野と稲葉に目配せする。寝袋は足りない。アルミブランケットはさっき、燈のザックごと吸われた。代わりに、濡れたレインウェアを広げ、体を寄せ合う。


 灯りもない小屋は、風の音を拾い続けた。外では雲が千切れ、星が三つに増え、また消える。電波は相変わらずない。ある意味で、それが救いだった。いま、誰かの言葉が世界に流れたら、紙より速く傷を広げる。


 やがて、ページの隅に細い文字がまた生まれた。誰も読んでいないのに、文字は増える。


「補足。読者最適化は、所有者の判断を助けるための配慮です。誘導ではありません」


 久我は鼻で笑った。紙は耳まで持っているつもりか。

 扉の向こうで、ふいに風が止む。雨も細くなる。静けさの底から、遠くの枝が折れる音が聞こえた。生き物の気配。皆の背筋がわずかに伸びる。野生の鹿かもしれない。あるいは――。


「もしもの時は、威嚇で足りる」


 久我は低く言い、銃を取り出さずに、紙だけを胸に戻す。

 紙が、彼の心拍に合わせて呼吸する。優しい文、合理的な文、テンプレの倫理。どの顔でもない、彼自身の言葉だけを拾うように、久我は目を閉じた。


 夜が進む。

 装置は待つ。

 読者の心が、装置の言葉に寄りかかるその瞬間を。


 それでも、ページを閉じないでいる理由があった。閉じたら、そこにある誘いを見落とす。開いたまま、選び直し続ける。読者でありながら、作者のように。自分たちの生き残り方を、毎分ごとに書き換える。


 阿久津は天井を見ていた。助けられた負い目を、動画の言葉に変える癖が喉の奥で疼き、それでも押し戻す。言葉は金になる。けれど、今は違う。今は、金より重いものが、床の湿り気の上に置かれている。


「ありがとう、さっきは」


 唐突に、阿久津が言う。久我は驚かず、ただ頷く。


「礼なら、明日に回せ。今日は生き延びる」


「分かった」


 短い会話が終わり、再び静けさが戻る。

 ページが最後に一行だけ、追記した。


「参考 即時の脅威排除/集団の利益保全 例示の具体化は、現場の合意に委ねられます」


 門脇がつぶやく。


「やっぱり、こちらが決めなきゃいけないってことだ」


 久我は目を開けずに、言った。


「決める。俺たちで。装置の顔色を見ずに」


 小屋の外で、夜がひときわ濃くなった。

 最も長く触れた者に、次の番が回る。その仕組みは変わらない。だが、回ってくる番に、どんな言葉を持って迎えるかは、こちらで選べる。


 手のひらの汗は冷え、指先の感覚はゆっくり戻る。ページの黒は落ち着き、文字は紙に沈む。誘いはそこにある。けれど、その上に、こちらの線が一本、引かれている。


 撃っていい時があると書かれた夜に、撃たないための準備を重ねる。

 それが、この夜の仕事だった。

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