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13人と黒いリュック――中には、拳銃と“殺人ゲームのルールブック  作者: 妙原奇天


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第3話 最初の罰

 日が落ちる直前、避難小屋の空気は雨よりも重くなっていた。

 窓にかけた布は湿って暗く、外の世界を切り取ったまま固まっている。日高燈は黒いリュックを胸に抱え、耳の奥に雨音のリズムを刻み続けていた。コン、コン、コン。屋根を叩く雫が、時間の終わりを均等に削っていく。


「あと、何分だ」


 久我の声は低い。ヘッドライトは消し、暗闇に目を慣らしている。

 門脇が腕時計を見て、短く答えた。


「零分。日没の公式時刻を過ぎた」


 その言葉が落ちた瞬間だった。燈の腕の中、リュックの底に埋め込まれた通信装置が、濁った呼吸みたいな音を立てた。

 ピッ……ピッ……ピ――。

 そして、小さなスピーカーが、湿気で歪んだ女の声を吐き出す。


「記録の漏洩を開始します」


 避難小屋の誰もが顔を上げた。続く言葉を止められる者はいない。紙ではなく、声で、罪は空気に解き放たれる。


「春野香澄。教え子の置き去り事故。現場離脱十二分、意図的な通報遅延、保護者への虚偽報告」


 春野の肩が跳ねた。彼女は両手を胸の前で組んだまま、瞼を強く閉じる。息が乱れ、喉の奥で小さな音がこぼれる。


「違う。置き去りじゃない。森の中で見失っただけ。戻った。すぐに戻った」


 言い訳は弾より速く飛ぶ。だが、音は壁に当たって砕けるだけだ。スピーカーは続ける。


「佐間怜。実習での医療ミス未報告。投与量誤り、バイタル異常見落とし、指導医への記録改ざん」


「やめろ」


 佐間が立ち上がった。青白い顔に、額の汗が光る。医学生の彼は、言葉より先にメモ帳を探してから、行き場を失ったように拳を握りしめた。


「改ざんじゃない。記載の順番を変えただけだ。患者は助かった。誰も死んでいない」


「門脇雅也。過去の模試不正閲覧。監督者のIDを使用、他受験者データへのアクセス、成績操作未遂」


 門脇は眼鏡を外し、レンズの曇りを指で拭った。乾いた笑いが喉から漏れる。


「未遂だ。未遂で、やめたんだ」


「久我透。任務外の弾薬持ち帰り。証拠品の管理規程違反、個人ロッカー保管、再提出時期の虚偽申告」


 久我は動かなかった。沈黙は盾にならない。それでも、彼は沈黙を選ぶ。歯の軋む音が、雨よりも近い。


 狭い小屋の空間が、さらに狭くなるのが分かった。声が一つ読むたびに、壁が一歩ずつ内側へ寄る。息の通り道が細くなり、言葉は互いにぶつかった。


「ま、待って。私のは、わざとじゃ……」


「未遂で……」


「規程の文言が……」


 断片が重なり、床の水たまりに落ちて消える。女の声は止まらない。名前は続き、罪は続く。稲葉、寺内、三瀬、穂高。小さく、しかし確かに、誰もが持っている種類の歪みが読み上げられていく。


 燈は目を閉じた。声は自分の過去をなぞるのを、まだ待っている。自分の行はいつ来るか。あるいは、所有者である自分は免除されるのか。そんな都合のいい期待が、喉の奥で苦い。


「……罰って、これかよ」


 阿久津が笑った。ひきつれた笑いだが、形だけは軽い。


「軽いじゃん。撃つよりマシだろ。命は取られてない。炎上で済むなら、俺が一番得意なやつだ」


 燈は顔を上げる。笑う阿久津の目は、笑っていない。

 スピーカーが間髪を入れず、別の文を読み上げた。


「付随処分。所有権剥奪。資材の再配分を実施します」


「は?」


 次の瞬間、阿久津の背中で何かが引かれる音がした。肩にかけたザックのベルトが、誰かの見えない手に引き寄せられるように、ぎゅっと締まる。


「ちょ、待て、何だ、え?」


 ザックは阿久津の背からすべり落ち、床を滑ってリュックの方へ引き寄せられた。濡れた床板をこすり、布が水を吸いながら音を立てる。燈は反射的にリュックを抱え込んだ。


「来るな!」


 だが、阿久津のザックは止まらない。床の上に水の筋を残しながら、黒いリュックの前でひとりでにジッパーを開けた。開いた口が吸い込むように、ザックの中身が緩やかに持ち上がる。食料、ライター、モバイルバッテリー、予備のヘッドライト、レインカバー、フィルター付きボトル。空気の中に見えない流れが生まれ、物が物の意思で移動するように、黒の内部へ滑り込んでいく。


「返せ、返せって!」


 阿久津が飛びつく。久我が腕を掴んで止めた。

 吸い込まれるものの最後は、薄い本だった。阿久津が自分で刷った小さな写真集。表紙に山の夜景。黒い口はそれを呑み込み、静かに閉じる。避難小屋に残ったのは、湿った布の匂いと、阿久津の荒い息だけだった。


 スピーカーが告げる。


「所有権剥奪、完了」


 阿久津は床に膝をついた。拳を握り、額を板に押し付ける。肩が上下に波打ち、声は出ない。笑いはどこにも残っていない。誰も手を伸ばせなかった。誰も、慰め方を知らなかった。


「罰は……軽くない」


 門脇が、乾いた声で言う。


「記録の漏洩に、資材の再配分が付く。次はさらに――」


「エスカレートする」


 久我が続ける。言葉は固く、小屋の壁のように冷たい。


「ルールは見せた。従わなければ、次を見せる。そういう作りだ」


 燈は喉を鳴らして唾を飲む。紙を開くと、ページ末尾に新しい行が浮かんでいた。雨のリズムに合わせて滲み、黒を深める。


「次の所有者は、最も長く触れている者」


 小屋の中の視線が、一斉に一点へ落ちた。燈の腕、リュックのベルト、革の縫い目。手汗の温度が、今度は法になる。


「ふざけてる」


 寺内が呟く。彼はさっき、ペットの件を読み上げられ、膝を抱えて黙っていた。眼の下の影が濃い。


「最も長く触れてるやつが次の所有者? 今の所有者から奪う条件じゃなくて、次の所有者を決める条件だとしたら、これは足し算だ。気づいたやつから長く触り続ける。抜けたら負け。抜けないなら……」


「交代ができない」


 門脇が言う。

 燈はベルトにかけた指を見た。白くふやけ、皮膚の皺が深い。重さはさっきよりも増している。肩に乗るものは金属と紙だけではない。


「離せない」


 春野が、恐る恐る近づいた。目に涙を浮かべながら、ベルトの反対側に手を添える。彼女の指は冷たい。震えている。


「離したら、誰かが長く触ったことになる。あなたが離した瞬間、その人が『次』に固定されるかもしれない。ねえ、燈くん。私が触っててもいい?」


「……いい」


 燈は短く答えた。その間に、別の手が伸びる。稲葉、三瀬、穂高。全員ではない。だが、複数の指が革に置かれ、湿った熱が重なる。

 黒いページが更新される。


「所有状況。複数接触。加算タイム管理を開始」


「加算タイム……」


 門脇が顔を上げる。唇の裏を噛み、言葉を選ぶ。


「長く触れている時間を、個別に加算している可能性が高い。誰が何秒触れたか、システムは見ている。今触った人間は、その秒数が蓄積され、一定点で『次の所有者』にジャンプする。つまり――」


「触り続けたら、いつかは必ず、俺たちのうち誰かに『所有者』が移る」


 久我が結ぶ。

 避難小屋に、別の重さが生まれた。触っている手のうち、誰が最初に限界を迎えるか。誰が息を吸い、誰がくしゃみをし、誰が無意識に指を浮かせるか。それだけで「次」が決まる。


「離れたい人は、今離れたほうがいい」


 燈は言った。自分の声が、びっくりするほど静かだった。


「触った時間は、もう加算されている。この先、離すほど、次の候補から遠のくとは限らない。加算が残っているなら、うっかり離した瞬間に、遅れて跳ねる可能性がある」


「難しいことを言うなよ」


 阿久津がかすれ声で言った。顔は上げない。拳はほどけていない。


「簡単に言えば、誰かが、次になる」


 スピーカーが低く唸り、女の声が戻ってくる。


「補足。離脱時の加算は保持。非接触期間の減算はありません」


「最悪だ」


 門脇が小さく呟いた。

 つまり、一度触ってしまえば、その時間は消えない。無意識の一秒、一瞬の好奇心、ふとした連帯感。その全部が、将来の所有を引き寄せる票になる。


「だったら、触ってないやつは?」


 寺内が顔を上げる。

 門脇は答えを持っていない。スピーカーは代わりに答えた。


「非接触者は受益対象外。再配分時優先度低」


「受益?」


 稲葉が首をかしげる。

 久我が短く説明した。


「資材の再配分。さっき、阿久津のザックが吸われた。あれは『所有権剥奪』に連動した再配分だ。受益対象外ってことは、触っていないやつには戻らない」


「触るしかないってこと?」


 春野の声は震えている。

 燈は彼女の手の冷たさから、体温を測るように言葉を選んだ。


「触るか、触らないか。どっちも罠だ。触れば、いつか『次』になる。触らなければ、罰のときに優先度が下がる」


「なら、決めよう」


 久我が言う。

 全員が彼を見る。彼は壁に背をつけ、濡れたジャケットを絞った。落ちる水滴の音が、短い。


「『次の所有者』を、こちらで決める。加算のルールに乗る。誰もがバラバラに触って『いつか』を待つんじゃなく、誰か一人に集中的に触らせ、その人間が『次』になるのを待つ。所有が移った瞬間、その人間に決断をさせる。撃つか、撃たないか。適切の定義を、奪う」


「そんな、勝手に……」


 春野の眉が寄る。

 門脇が現実を足す。


「勝手じゃない。紙は『次の所有者は最も長く触れている者』と定めた。なら、こちらもそのルール内で最適化するしかない。散漫な混乱は、相手の思う壺だ」


「その『誰か一人』は誰が決める」


 阿久津が顔を上げた。目のふちが赤い。


「投票か、ジャンケンか。なあ、久我。お前がやるのか」


「俺は、最後まで管理役でいたい」


 久我は首を振った。

 静かに、次の名を言う。


「日高」


 小屋の空気が、また狭くなる。

 燈はベルトに触れたまま、顔だけを上げた。誰の目も、冗談ではない。


「所有者は、今も日高だ。『適切』の意味を奪い返すと言った。他の誰よりも、その言葉を自分の中で確かめているはずだ。なら、最後までいけ」


「俺は、撃たない可能性も捨てない」


「それでいい」


 久我は短く頷く。


「撃たない可能性を、最後まで検討し、撃つ可能性も同じ比重で抱える。どちらの重みも分かる者が持つべきだ」


 春野が小さく息を呑む。

 門脇は腕時計を見た。


「日没から十五分が過ぎた。罰はまだ終わりじゃないはずだ。『漏洩』は第一段階。次は――」


 スピーカーが答える。


「第二段階。記録の固定化を開始します」


「固定化?」


 稲葉が繰り返す。

 ページが自動でめくれ、黒い文字が広がった。


「本日の読み上げ内容は、各自の携帯端末、SNS下書き、クラウドメモに同期しました。電波回復時に自動送信を行います」


「やめろ!」


 複数の声が重なり、部屋が震えた。阿久津がポケットからスマホを取り出し、画面を叩く。もちろん、圏外だ。にもかかわらず、画面の上部に見慣れないバーが現れ、進捗を示す白い線がじわじわ右へ伸びていく。


「送信予約……」


 門脇が青ざめる。


「これが固定化だ。今日の罪は、山から下りた瞬間、世界に流れる」


「やめさせる方法は」


 寺内が叫ぶ。

 スピーカーの返答は淡々としていた。


「適切な射撃の実行。あるいは、所有権に基づく停止命令。停止命令は所有者の音声で有効」


 燈は口を開いた。喉が乾いている。湿った空気が、そこだけ砂のように感じられた。


「停止命令。停止しろ。今すぐに」


 スピーカーが一拍の沈黙を置く。


「命令を受理しました。条件が不足しています」


「条件?」


「適切な射撃の選択。あるいは、代替措置の提示。代替措置は資材の再配分または人的損耗の承諾」


「人的損耗って何だよ」


 阿久津が叫ぶ。

 久我が短く言う。


「犠牲を、意味する言葉だ」


 燈は目を閉じた。一度深呼吸をし、ゆっくり吐いた。

 撃たずに止める道を探すために、撃つ覚悟の重さを自分に載せる。二つは矛盾しない。矛盾させない。


「代替措置。資材の再配分で、固定化を止めろ」


「割合を提示してください」


「俺の。俺の資材、全部だ」


 小屋の空気がざわめいた。春野の手が、燈の指を強く握る。久我がまっすぐ首を振る。


「待て。所有者の安全は保証されない。お前の資材がゼロになれば、この夜を越せない」


「撃つよりは、マシだ」


 燈は言った。その言葉は阿久津のさっきの口真似になっている。だが、声の温度は違った。

 スピーカーが、短く鳴る。


「受理。所有者資材ゼロ化を実施します」


「日高!」


 複数の声が重なった。だが、処理は止まらない。燈のザックが、床を滑り、黒いリュックの前で口を開く。中にあるのは、行動食、アルミブランケット、救急セット、予備の手袋、ライト、着替え。ひとつずつ、吸い込まれていく。最後に残ったのは、薄いノートだった。高校の頃から使っている登山記録。黒い口はそれを呑み込み、静かに閉じる。


「固定化、停止。送信予約、保留」


 スピーカーの声が落ちる。避難小屋に、短い静寂が戻る。みんなの呼吸音が、雨の間に挟まって聞こえる。


「バカかよ……」


 阿久津が呟いた。その声は怒りではなく、哀しみの形に近い。

 久我は言葉を飲み込む。門脇は腕を組み、唇を噛んだ。春野だけが、燈の手を離さない。


「ありがとう」


 彼女は小さな声で言い、すぐに俯いた。

 スピーカーが、なおも仕事を続ける。


「補足。次の所有者は、最も長く触れている者。現時点の加算上位者を提示します」


 ページが切り替わる。名前と秒数が並んだ。


「日高燈、合計八百三十二秒。春野香澄、合計四百九十秒。久我透、合計三百七秒。門脇雅也、合計百五十四秒。稲葉涼子、合計九十二秒……」


「順位を、表示するのかよ」


 寺内が顔をしかめる。

 門脇が低く言う。


「これは、競争にするための設計だ。長く触るほど、近づく。離れても減らない。誰かがうっかり伸ばした指先の一秒が、将来の所有へとつながる」


「俺は、触らない」


 阿久津が立ち上がった。身体はまだ揺れているが、目だけははっきりしていた。


「もう十分だ。俺のザックは消えた。次の罰が何だろうと、触らない。触ってないやつは『受益対象外』だろ? それでいい。俺は、お前らを恨まない。お前らも、俺を恨むな」


 誰も止められない。止める権利もない。

 スピーカーが、別の通知を読み上げる。


「夜間行動警告。小屋外の移動は推奨されません。斜面崩落の危険あり」


「行かねえよ」


 阿久津は壁に背を預け、ゆっくり座り直した。指は震えているが、視線は動かない。

 雨の音が続く。避難小屋の時間は、外よりも遅く流れているように思えた。


「日高」


 久我が呼ぶ。

 燈は「何」と短く返す。久我の目は損得ではなく、生還の線だけを探している目だった。


「次が誰であれ、所有が移った瞬間に、また『停止命令』を出せ。お前で止められた。なら、次も止められる。資材の再配分だけで済むなら、まだ戦える」


「分かった」


 燈は頷く。

 ページの下段が、薄く点滅した。罰は終わったはずなのに、サインはまだ消えない。次の条件を待つ目のように、黒い点が明滅する。


「ねえ」


 春野が、少しだけ笑った。濡れた睫毛が、灯りのない空間でも光って見えた。


「あなたのノート、取り返そう。下りてからでも、取り返せる方法を考えよう」


「ああ」


 燈は短く答える。ノートに書いたものの多くは頭にある。だが、紙にしか残らないものもある。インクのにじみ、筆圧、間違えて二度書きした線。時間の重さは、データでは再現できない。


 スピーカーが、今度は静かな調子で言った。


「本日の罰、完了。次回予告。所有権固定化と第一の選択」


 女の声が止む。雨と呼吸だけが残る。

 門脇が腕時計を見た。


「二十一時。夜は長い。だが、今日はここまでだ」


 久我が立ち上がり、入口の隙間を確認する。風の音が細く変わる。

 燈はベルトを握り直し、視線だけを上げた。触れている手はさっきより増え、互いの指がぶつかっては引き、また重なり直している。それぞれの体温が、革を通じて伝わる。


 この温度が、法になる。

 最も長く触れている者。

 誰が最初に、次に落ちるか。


 雨の向こうで、雷が遠くへ行った。雲は重いままだが、どこかで小さくちぎれた気配がする。

 燈は目を閉じ、音を聞いた。屋根、呼吸、布の擦れる音。誰かの腹が鳴る小さな音。生きている音。


「離すなら今だ」


 久我が言った。

 誰も離れない。

 ページの端で、細い文字が光った。誰の指に反応したのか、誰の秒数が跳ね上がったのか、紙は言わない。ただ、静かに、冷静に、機械の正確さで記録し続ける。


 最初の罰は、終わった。

 だが、本当の罰は、ここからが始まりだ。

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