第2話 所有権
雨の匂いが変わったのは、午後の三時を過ぎた頃だった。雲が尾根に絡みつき、白く薄い霧となって歩幅を奪う。日高燈は黒いリュックを抱えたまま、避難小屋へ向けて足を速めた。
避難小屋は、尾根と尾根の間に沈んだ古い箱のようだった。木の壁は灰色にくすみ、屋根は錆びたトタン。戸を開けると、濡れた空気が押し寄せ、次いで古い薪と泥の匂いが鼻に残った。十三人が身を寄せるには狭いが、屋根のある場所はここしかない。
「全員入れ。靴は入口で脱げ。濡れたものは端にまとめるぞ」
声を出したのは久我だった。元救助隊の経験から、動くべき順番を体に覚えている。彼はヘッドライトを点け、手早く窓の簾を下ろし、入口の隙間にザックを詰めて風の抜け道をふさぐ。
燈は入り口近くのベンチに腰を下ろした。腕の中のリュックの重みが、膝にじわりと広がる。中には拳銃、弾倉、ルールブック、小型の通信機。さっきから金属の重みだけが現実を主張し続けていた。
雨が強くなる。屋根を叩く雫が、数えられるほど規則的に落ち始めた。コン、コン、コン。誰かの鼓動に似たテンポで、室内の空気を固くする。
「それ、俺が預かる」
久我がまっすぐに言った。濡れたジャケットの袖口から水が滴り落ち、床板に暗い斑点を作った。
「預かる? でも、所有者は俺なんだろ」
「安全管理だ。こういうものは、取り扱いの知識があるほうが持つべきだ。少なくとも、弾は抜いて、スライドも分解しておく。お前が悪いと言ってるんじゃない。状況が悪い」
「所有権の話だと、いまのままじゃ危ない」
静かな声が割って入る。眼鏡の奥で、門脇が目を細めていた。大学で法学をやっているという彼は、濡れたメモ帳をタオルで拭きながら続けた。
「ルールブックは『所有者の安全は保証されない』と書いた。所有者にだけ特別な効力が働くなら、所有者が誰かは死活的に重要になる。だが、この冊子の『所有者』定義は曖昧だ。『占有者』『保持者』『管理者』、どの概念で理解すべきか明記がない。書いた人間が法学徒なら、わざとぼかした可能性もある」
「日本語の問題にしてる場合かよ」
阿久津が苛立った笑みを作った。濡れた髪を後ろで結び直し、スマホをジップロックにしまい込む。その手が震えているのを、燈は見た。
「曖昧だからこそ問題なんだ」
門脇は雨の音に負けないように声を上げる。
「『錯誤による移転』って語が、さっきページに出たんだろ。もし所有権が、当人の意思に反して、あるいは誤解のままに移る設計なら、触っただけで所有者が更新される可能性がある。奪い合いになれば、ページが勝手に『移転』と認識するかもしれない」
燈はルールブックを開いた。紙面は、さっきまでの記載に小さな注釈を添え、薄い墨で行を増やしている。雨音と同じリズムで、文字がじわりと追加されるように感じた。
《所有権の認定基準:保持の意思+管理支配の事実。錯誤による移転は有効。記録主体は所有者以外。》
「記録主体は――所有者以外、か」
燈が読むと、室内に小さなざわめきが立った。
「つまり、所有者が持っている間、所有者以外の“罪”が勝手に記録されるってわけだな」
久我が低くまとめる。誰も冗談を挟まない。
「だったらやっぱり俺が預かる。俺が持ってる間は、他の誰かのことが勝手に書かれるんだろ。だったら、俺に書かれるのは少ないほうがいい。俺は、まあ……多少、心当たりはあるが、職務上のことだ。後でいくらでも説明できる。だが、お前らは――」
「待ってよ」
春野が震える声を挟む。彼女は濡れたレインウェアのフードを外し、額に貼りついた髪を指で払った。眼差しは燈の手元に釘付けになっている。
「その『記録』って、証拠能力はあるの。紙が勝手に書き換わってるだけで、本当に事実なの? 誰かが仕組んで、わたしたちを疑心暗鬼にさせているだけかもしれない」
「証拠能力……」
門脇は反射的に復唱し、すぐに自分で頷いた。
「民事でも刑事でも、文書の成立の真正が問題になる。発信者が誰か分からない文書に証拠能力は与えにくい。けど、現場で(実時間で)記録が追加されて、その記載内容が現実の事実と一致する割合が高ければ、事実認定の一材料にはなる。少なくとも、俺の頭はこの紙から離れない」
「離れないなら、なおさら俺が預かる」
久我は燈の正面に立った。目を逸らさない。濡れた睫毛が揺れる。
「安全上の措置として、武器は扱える人間に集中させる。俺がマガジンを外し、弾を別に保管する。引き金管理も俺がやる」
「いい加減にしろよ」
阿久津が椅子を蹴って立ち上がった。脚が床板を引っ掻き、乾いた音がした。
「お前、さっきから偉そうに仕切ってるけどよ、結局は“俺が持つ”って言ってるだけだろ。所有権って言葉を使えば聞こえはいいけど、やってることは独占だ。俺だって、企画の責任者だし――」
「企画?」
言葉の端が鋭くなった。燈はルールブックに目を落とす。紙面の下段に、雨音に合わせて新しい行が滲み出る。
《阿久津春樹――炎上狙いの企画案(山岳救助への虚偽通報配信)》
室内の空気が、わずかに傾いた。誰かが息を呑む音がした。阿久津の顔から血の気が引く。
「なんだよ、それ」
「読めよ」
誰かが呟く。阿久津は首を振った。
「違う、そんなの、やるわけねえだろ。案の段階で、ボツにしたやつだ。視聴者を釣るための文言を並べただけで、本気で――」
「でも、書いてある」
春野の声が震えた。阿久津が彼女を睨んだ。
「お前、俺を疑ってるのか」
「違う。ただ、怖い。紙が本当のことを言ってるのか、嘘を混ぜているのか、それすら私たちには判断できない。それが……怖い」
雨脚が強まる。屋根を叩く音が一段階高くなり、コン、コン、コンがコ、コ、コと短く詰まる。紙はまた勝手に行を増やした。
《門脇雅也――提出レポートの剽窃(引用符未明示・出典偽装)》
門脇は硬直し、乾いた笑いを漏らした。
「これは……引用の作法の問題だ。悪意じゃない」
「でも、書いてある」
誰かが繰り返す。同じ言葉が室内のいくつかの口から出て、壁にぶつかって溶けた。
「だから、俺が預かる」
久我が再度言う。燈は拳を固く握り、リュックのベルトに力を込めた。汗で手のひらが滑り、革が音を立てた。
「所有権は俺にある。少なくとも、いまは」
「所有権は動く。ページがそう言ってる」
門脇が静かに割って入る。彼はルールブックの欄外を指さした。細い字が雨粒のように並び、淡い罫線に沿って意味を流していく。
《所有者の変更事由:任意交付、奪取、錯誤、遺棄。いずれも有効。》
「錯誤による移転が有効。つまり、本人が所有の意思を保っていても、外形上の保持が他者に移れば、所有者は更新される。燈、お前が手を離して、久我さんの手に触れた瞬間、紙は『移転』と認識するはずだ。そうなれば、記録対象が変わる。久我さんが所有者になれば、俺やお前や阿久津の“罪”が続々と書かれる。逆に、お前が持ち続ければ、久我さんや春野さんや他のメンバーの記録が増える。所有者が誰かで、記録される顔ぶれが変わる仕組みみたいだ」
「なら、誰にも渡さない」
燈が言った。喉の奥が乾いていた。雨の音が、彼の決意を削るように強まる。
「俺が持つ。俺が責任を持つ。銃は安全装置をかけ、弾倉は――」
「その弾倉、いま誰が持ってる」
久我の言葉が刺さる。燈は言葉を失い、視線を泳がせる。弾倉は、あの騒ぎのときに誰かの手に消えた。
「持ってないのに、所有権を主張しても意味がない。万が一、そいつが勝手に装填したらどうする」
「そいつって誰だよ」
阿久津が吐き捨てた。視線は室内を円を描くように回る。全員が、全員を疑っている。弾倉の所在一つで、この小屋は爆薬庫に変わった。
「確認しよう。全員、ポケットを出して、ザックを開けろ」
久我が言う。反射的に、数人が手をポケットに伸ばしかけ、止めた。視線が絡む。やるのか、やらないのか。その判断だけで、関係が決まる。
「待って。取り調べみたいなことをしても、何も解決しない」
春野が声を上げる。震えながらも、目は真っ直ぐだった。
「誰もまだ引き金を引いていないのに、空気だけが銃声の手前で止まってる。そんな場所で、人の荷物を全部ひっくり返すの? それで、夜までに『適切な射撃』をしなかったら罰だって、紙は言ってる。何が適切かも分からないのに」
「適切って、誰が決める?」
燈は思わず口にした。自分の声が、驚くほど落ち着いて聞こえた。
「この紙か、見えない誰かか、それとも……俺たち自身か」
雨のテンポが変わる。屋根が震える。ルールブックの下段、空白だった欄に文字が浮かび始めた。点滅するように、黒い点が点き、消え、また点く。
《罰の予告:日没まで二時間。所有者不作為の場合、集団的制裁を執行。》
室内の空気が一斉に細くなる。誰かが吐く息が、白くなった気がした。
「二時間……」
門脇が呟く。阿久津が苛立ちを押し隠せず、壁を拳で叩いた。
「ふざけんな。誰かが、どっかで俺たちを見て楽しんでるんだ。『所有者』だの『錯誤』だの、法学部の悪趣味な卒論みたいな単語並べやがって。こんなもん、ビデオ通話で晒して、警察に言ってやれば――」
「やめろ」
久我が阿久津の手首を掴んだ。その動きは速く、止水のように無駄がなかった。阿久津が即座に振りほどこうとする。肩がぶつかり、椅子が倒れ、床に向かって誰かのザックが滑った。
「離せっての!」
「落ち着け」
「落ち着けないから言ってるんだ!」
揉み合いは、刃物のない喧嘩にしては致命的に危険だった。なにしろ、床に置いたリュックの口が開いている。そこに、黒い金属の輪郭が見える。誰かがそれに足を引っかけたら、ただの偶然が引き金を引く。
「やめろ!」
燈は咄嗟にリュックを抱え直した。胸に押し付けた瞬間、ルールブックが勝手にめくられる。ページの上部に、黒い線が一本引かれた。雨がひときわ強く屋根を叩き、コン、コン、コンの間に、コーン、と長い音が混じった。
《所有者:日高燈(再認定)。錯誤による移転試行、無効。》
門脇が息を吐く。
「いまの、移転の試行だ。阿久津から久我さんに所有が移りかけて、燈が抱え直して、元に戻った。紙がそう認識してる」
「だから、落ち着けと言ってる」
久我は掴んだ手をゆっくり離した。阿久津は肩で息をし、舌打ちをひとつ残して背中を壁に当てた。
雨は止まない。むしろ、音は深くなり、屋根のどこかに溜まった水が一気に流れ落ちるたび、室内の誰もが肩を跳ねさせる。その度に、紙は行をひとつ増やす。
《稲葉涼子――給与の不正受給(短期雇用・虚偽申告)》
《寺内恭介――ペット遺棄(三年前・夜間)》
《春野香澄――教え子の転落事故・報告遅延》
名前が増える。罪の種類は、ほとんどが小さくて、しかし言い訳できない種類のものだった。誰にも言わなかった、出来ればそのまま消えてほしかった「小さな歪み」が、雨粒みたいに淡々と降り積もっていく。
「もうやめろよ」
阿久津が小さく言った。その声に、誰の耳も慣れていない柔らかさがあった。
「俺のことは何書いてもいい。でも他のやつの、こんな……ペットのこととか、金のこととか、何で、そんな……」
「所有者がいる限り、紙は書き続ける」
門脇が現実だけを言葉にする。
「誰かが持っている限り、持っていない人間の罪が増える。所有の定義は『保持の意思+管理支配の事実』。なら、これを『誰のものでもない』状態にすれば止まるのかもしれない。たとえば、二人で同時に持つとか。あるいは、物理的にバラバラにするか」
「バラす?」
久我が目を細める。燈は無意識にリュックを強く抱きしめていた。
「銃を分解し、マガジンは別、スライドは別、フレームは別。紙と通信機も外す。所有の客体を『何か』から『いくつかの破片』にする。ページがどれを所有物として認識するか、曖昧にできる」
「危ない賭けだ」
久我の声は硬い。
「分解中に暴発したら、ここにいる誰かの体を貫く。弾倉の所在も不明のままだ」
「だったら、どうするの。『適切な射撃』をして、罰を回避するの?」
春野の問いは、部屋の中心をまっすぐ貫いた。誰も答えられない。適切って、誰が決める?
燈は指先を見る。皮膚に白いしわが寄っている。雨でふやけたのだ。拳銃の重みがそこにあるだけで、彼の体はじわじわと疲れていく。
「もし、適切が『悪意のある者を撃つこと』だとしたら?」
阿久津が呟いた。視線は床、声は濁っている。
「紙に“罪”が書かれてる。だったら、『一番罪深いやつを撃て』って意味かもしれない。そうすれば、罰は回避される。現実的だろ。合理的だ。視聴者も喜ぶ。……そういう番組を、俺は腐るほど見てきた」
「やめろ」
久我が即座に噛みつく。言葉が鋭く、小屋の壁に跳ね返る。
「人の生き死にを、視聴者の反応で語るな」
「語ってるのはお前らも同じだろ。『所有権』『証拠能力』。言葉を選んで、現実から目を逸らしてるだけだ。結局、誰かが引き金を引かないと、日没で『罰』が来る。違うか?」
「適切かどうかは――」
燈は息を吸い、言い切った。
「俺が決める」
室内の視線が、一斉に燈へ集まった。自分でも驚くほど、声は乾いていなかった。
「所有者は俺だ。紙がそう書いている。なら、俺が責任を取る。『適切』の意味を、俺が引き受ける。俺が決める。俺が、撃つか撃たないかを決める」
「待って」
春野が一歩、近づいた。手が震えているのが分かる。彼女は勇気を絞り出すように、言葉を繋いだ。
「もしあなたが撃ったら、その瞬間、あなたは『所有者の安全は保証されない』という条文の中に落ちる。適切でも不適切でも、撃った事実はあなたを壊す。あなたが壊れたら、次は誰が所有者になるの?」
燈は答えられない。代わりに、ページが答えた。下段の点滅が、音のないサイレンのように速くなる。黒い点が、短く、強く、目に刺さる。
《罰の予告:日没まで一時間三十五分》
雨はさらに強まった。雷鳴が、遠くで低く転がる。屋根の隙間から、細い水の糸が垂れ、床板に小さな池を作る。その水面に、ルールブックの白いページが反射した。白い光の中で、黒い文字だけが生き物のように動く。
「決めなきゃいけない」
門脇が小さく言い、眼鏡を押し上げる。
「理屈は尽くした。所有権の定義も読める限り読んだ。だが、条文は俺たちの行為を誘導するために書かれてる。『日没』『適切』『罰』。いずれも、行動の方向性を与える語だ。法の顔をしているが、実体はゲームだ。なら、ゲームとしての勝ち筋を考えるべきだ」
「勝ち筋って?」
「所有者を空位にする。あるいは、所有権を高速で循環させ、記録の蓄積を分散させる。罰が『所有者不作為』に掛かるなら、作為を分散する。みんなで同時に保持すれば、『保持の意思+管理支配の事実』が誰にも特定できなくなる可能性がある」
「実験しよう」
燈は言った。腕の中のリュックが、ますます重くなる。外では雷が近づいている。時間がない。
「俺と久我さんと門脇、三人で、同時にベルトに手を掛ける。三人の指が同時に触れて、所有権の行がどう変わるかを見る。もし誰でもない状態にできるなら、それで『罰』を止められるかもしれない」
久我は短く考え、頷いた。門脇も、唇を噛んでから頷く。
「いいだろう。だが、ゆっくりやる。何があっても、引き金の近くに指は置かない。弾倉の所在が不明の以上、最悪を想定する」
燈は深呼吸を一度だけし、リュックを膝に置いた。ベルトの革が濡れ、黒く光る。久我が右側から、門脇が左側から手を伸ばす。
「合図する。三つ数えて、同時に触る。一、二、三」
三本の指が、同時に革に触れた。紙が震えたように見えた。雨が屋根を叩き、雷が近くで鳴る。ページの上部に、黒い線が走る。
《所有者:不特定(暫定)。記録機能:制限モードへ移行》
歓声は上がらなかった。全員が、呼吸を止めたからだ。燈は無意識に春野の顔を見た。彼女は両手を胸の前で組み、祈るような格好でじっと紙を見ている。
「できたのか」
阿久津が低く問う。門脇がルールを追う。
「『不特定』。所有者が特定できないとき、と書き換わっている。記録機能は『制限モード』。つまり、罪の追記は止まる。少なくとも速度が落ちる」
その瞬間、ページがまた滲んだ。下段の罰の欄が、ほんの一拍だけ、点滅を緩めた。
《罰の予告:日没まで一時間三十三分(一時停止可能)》
「一時停止……」
久我が呟く。燈は安堵しかけ、同時に背筋を冷水で撫でられたような悪寒を覚えた。紙はまるで、こちらの反応を見て遊んでいるようだ。
「もう一段階いけるかもしれない」
門脇が続ける。
「所有者を空位にする。三人から、徐々に手を離す。最後まで残っていた手――つまり、最後まで保持の意思を示した者が『所有者』と認定されるなら、その瞬間に紙が反応する。逆に、誰の手も残らず、なおベルトが固定された状態なら、『所有』の成立要件は崩れる」
「やる」
燈は言い、三人の指に力を込め直す。
「順番は同時。三、二、一で、ゆっくり離す」
三、二、一。ゆっくり、ゆっくり。革から指が離れていく。汗で滑り、雨で冷えた皮膚が剥がれる。最後の一ミリで、全員の指が同時に宙に浮いた。
ページが、わずかに遅れて反応した。
《所有者:不在(検証中)。罰執行条件:所有者不作為→全体不作為へ読み替え》
凍りついた。門脇の喉が、ごくりと鳴る音を、燈ははっきり聞いた。
「読み替えられた……」
門脇の声は掠れている。
「所有者が不在の場合、『所有者不作為』という条件は、そのまま『全体不作為』に広がる。つまり、誰も何もしなければ、そのまま罰は執行される」
「ふざけんな」
久我が低く罵った。阿久津が笑う。壊れた笑い方だった。
「結局、誰かが責任取らなきゃいけないってことじゃねえか。誰かが“所有者”になって、何かをやらなきゃいけない。『適切な射撃』ってやつを」
「適切、適切って」
春野がとうとう泣きそうになり、唇を噛んだ。
「何が適切なの。誰が決めるの。ねえ、燈くん。あなたは、どうするの」
燈はゆっくりと、リュックのベルトに手を戻した。二人も同時に戻す。ページは、素早く元に跳ねる。
《所有者:日高燈(暫定再認定)。記録機能:制限モード継続》
雨の音が、少しだけ遠のいた気がした。実際には強くなっているのかもしれない。彼の耳が、他の音を遮断し始めている。
「俺が持つ。最後まで」
燈は言い切った。自分でも驚くほど、体は静かだった。頭のどこかで、夕方の色が、窓の布の隙間から這い上がってくるのを感じていた。
「ただし、撃つかどうかは、最後まで考える。『適切』の定義を、紙から奪う。俺たちの側に取り戻す。撃たないという選択の可能性も、最後まで捨てない」
「可能性って言ってる時点で、撃つ可能性があるってことだろ」
阿久津の言葉は尖っていた。燈は頷いた。
「ある。俺は嘘をつかない」
その正直さは、救いでもあり、残酷でもあった。春野は視線を落とし、手の甲を握りしめた。久我は短く息を吐き、頷いた。
「その間に、俺は弾倉を探す。誰が持ってるにせよ、ここに出せ。持っている本人が危ない。持っていない俺たちも危ない。ここに置けば、管理は一元化できる」
誰もすぐには動かない。だが、数秒の沈黙の後、ザックがひとつ、床を擦った。稲葉が、震える指でポケットから銀色のものを取り出した。弾倉だ。
「拾っただけ。ほんとに、拾っただけ」
涙声だった。久我は彼女を責めず、ただ受け取り、ポーチに入れてベルトで腰に固定した。
「これで、少しはマシだ」
燈はルールブックを閉じ、胸の前で押さえた。ページの下段は、相変わらず点滅している。だが、さっきよりも遅い。雨音と同じテンポで、コ、コ、コ、と。
《罰の予告:日没まで一時間二十五分(制御下)》
制御下――紙が使うにはあまりにも挑発的な語だ。だが、そこに小さな、ひどく小さな勝利の匂いが混じっていた。
雷鳴がまた近づく。避難小屋の奥の暗がりで、誰かが祈る声がした。誰の祈りかは分からない。全員の祈りのようでもあった。
燈は顔を上げた。窓の布が、風でわずかに膨らむ。外の空は、もう夕暮れの色に染まり始めている。日没は、待ってはくれない。
「ここからは、時間との勝負だ」
門脇が絞り出すように言う。
「所有権を維持したまま、適切の定義を奪い返す。撃つか、撃たないか。いずれにしても、『決める』という行為が必要だ。紙は、決断の不在を罰する設計だ。だったら、決断で殴り返すしかない」
「殴り返す、か」
久我の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。それは楽観ではなく、戦いの前に唇を結ぶ動きだった。
「いいだろう。やるしかない」
雨は降り続ける。屋根の音が、カウントダウンにしか聞こえない。燈はリュックのベルトを握り直し、ページを閉じ、胸に押し当てる。
黒いリュックの重さは、もう金属と紙の重さだけではなかった。十三人分の視線、罪、恐怖、決断の重さが、そこに集まっていた。
日没まで――一時間二十五分。
点滅は遅い。だが確実に、時は減っていく。
そして、ページの端で、また新しい文字が、雨のリズムに合わせて滲み出した。
《次回予告:所有権の固定化と第一の選択》
誰が書いたのか。誰も知らない。
だが、誰も目を逸らせなかった。




