表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13人と黒いリュック――中には、拳銃と“殺人ゲームのルールブック  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/14

第十四話 記録の止め方

 夜明け前の山小屋は、一番暗い時間を迎えていた。


 ランタンの灯りはもう心許なく、窓の外の霧は、夜とも朝ともつかない薄さで張り付いている。

 全員が浅い眠りと覚醒を行き来している、その境目みたいな時間だった。


 テーブル代わりの板の上で、ルールブックが勝手に開いた。


「……動いた」


 佐間が、小さな声で言う。

 寝ていた者たちも、ざわりと身じろぎした。頁がめくられていく。インクの匂いみたいなものが、空気の中で濃くなる。


 黒い文字が、ページいっぱいに浮かび上がった。


〈罰の最終予告〉

〈本セッションは、弾が尽きるまで終わらない〉

〈弾薬がゼロになるまで、適切な射撃機会は提供され続ける〉


 沈黙が落ちた。

 誰もすぐには意味を理解できない。


「……つまり」


 最初に口を開いたのは門脇だった。


「このままだと、私たちが“撃たない”限り、ゲームは終わらない。

 逆に言えば、“弾を全部使い切る”まで、何度でも“撃てそうな状況”が起こされるってこと」


「ふざけんなよ」


 阿久津が、毛布を乱暴に蹴飛ばした。


「“撃たなきゃ終わらない”って、悪質なソシャゲイベントかよ。ノルマ周回させる気満々じゃん」


「ここ、ガチャも石配布もないけどね」


 門脇が淡々と返す。笑いにはならなかった。


「……八発、だよね」


 燈が、ルールブックの端に目をやった。

 弾薬数の欄には、変わらず八の数字。


「八回、“撃てる状況”を見せられるってことですか」


「もっと悪いかもしれない」


 久我が、低い声で言う。


「“機会”だけじゃなく、“撃たなかった罰”もエスカレートしていく。

 誰かが限界まで追い込まれて、『撃ったほうが楽だ』って思うまで、状況を作るつもりだろうよ」


 目の下の隈が濃い。

 自分のページを読まれたあとから、久我の声はどこか掠れていた。


「……じゃあどうするんですか。打つ手ないじゃん」


 稲葉が、半分泣きそうな声で言う。


「“撃たない責任”とか話してたけど、その前に、ずっとこの山に閉じ込められるってことでしょう?」


 燈は、一度目を閉じてから、ゆっくり息を吸った。

 胸の奥で、何度も繰り返し考えたことが、ようやく形になる。


「……じゃあ、“弾薬”ごと消すしかない」


 全員の視線が一斉に向く。


「今、弾が八発あるから、“撃てる機会”を無限に供給される。

 だったら、弾自体をこのゲームから外す。

 撃ちたくても撃てない状態にしてしまえば、“適切な射撃”も“弾切れ”も成立しなくなる」


「具体的には?」


 門脇が尋ねる。

 燈は、沢の音の方向を頭の中で思い描きながら答えた。


「弾倉を抜いて、そのまま沢に捨てる」


「却下だ」


 即座に久我が言った。

 あまりにも速い反応で、燈は少しだけ息を呑む。


「何でですか。弾がなければ――」


「弾がなかったら、“本当に撃たなきゃいけないとき”に撃てない」


 久我の声は、怒鳴り声ではない。冷静さを保とうとしているが、その奥に焦りが潜んでいる。


「熊。崩落。人間の脅威。

 さっきはスプレーと火でどうにかなったが、次もそううまくいく保証はない。

 弾を捨てるってことは、“最後の手段”を自分たちで捨てるってことだ」


「でも、その“最後の手段”を残してあるせいで、ずっと狙われ続けてるんですよ」


 燈も、引かない。


「このルールブックは、“弾がある限りゲームを続ける”って宣言した。

 じゃあ逆に、“弾がなくなったらどうするのか”は、書かれてない。

 “適切な射撃が不可能な状況”を、向こうは想定してない」


「それは、“想定してないバグ”じゃなく、“想定外の行為への罰”として処理される可能性が高い」


 久我は、腕を組んだ。


「弾倉を捨てるなんて行為を、“装置破壊”とか“ゲームに対する反逆”として扱って、即座に“全員罰”へ移行するかもしれない」


「罰は、どうせくるんです」


 燈は、ルールブックの最終予告文を指さした。


「『弾が尽きるまで終わらない』ってことは、『いつか必ず弾は尽きる』って前提ですよね。

 どっちみち、“弾ゼロ状態”には到達する。

 違いは、“誰かを撃ってからゼロにするか”、“誰も撃たずにゼロにするか”」


 その言葉に、小屋の空気がわずかに揺れた。

 阿久津が、毛布から上体を起こす。


「……ノーショット・クリア、ってやつだ」


「は?」


 稲葉が顔を上げる。


「ゲームあるじゃん。“一人も倒さずにクリアしました”ってやつ。

 あれって、難易度的にはクソ高いけど、その分ストーリー的にも話題になるんだよ。

 『殺さなかった主人公』っていう一本の線が、全部のイベントの見え方を変える」


「今、その話いる?」


「いるよ」


 阿久津は真顔で言う。


「これは“コンテンツ”なんだろ。

 だったら、ここで俺らが選ぶルートは、“次のセッション”の物語にも影響する。

 燈のさっきの一文――『撃たなくてよいとき、撃たないことを勝利とする』ってルールと合わせたら、

 “誰も撃たなかったセッション”が一個だけ、重ね書きのレイヤーの上に残るんだよ」


 門脇が、ゆっくり頷いた。


「“記録の止め方”として、それはひとつの戦略だと思う。

 ここで私たちが誰かを撃って終われば、“最後に撃ったセッション”として記録される。

 誰も撃たずに弾をゼロにしたら、“撃たない選択が最後まで貫かれたセッション”として重みづけされる」


「でも、罰は?」


 寺内が怯えたように問う。


「弾を捨てた瞬間、向こうが“適切な射撃不可能”を検知して、『じゃあ即罰ね』ってやるんじゃないの?」


「……そこは」


 燈は、一瞬言葉を詰まらせ、それから決めたように顔を上げた。


「最奥でいじる」


 門脇の目が、かすかに見開かれる。


「コア、ってこと?」


「さっき見た“CORE”のページ。

 あそこに、“罰”の定義がどこかにあるはずです。

 “弾がゼロになったときの処理”も含めて」


「それを書き換えるってことか」


 久我の声は、今度は純粋な確認だ。


「できる保証は?」


「ないです。

 でも、“次のセッションの基底ルール”を書き換える権限が、最後の所有者にあるなら、

 同じレイヤーで、“罰の内容”にもアクセスできるかもしれない」


 燈は、自分でも無茶な理屈だと思いながらも、口に出した。


「今まで、装置は俺たちに一方的にルールを押しつけてきた。

 でも、最後だけは、“最後に開くひと”に余白を渡してくる。

 だったら、その余白を“撃たない選択のため”に全部使い切る」


 沈黙が、少し長く続いた。

 そのあいだ、風の音と霧の擦れる気配だけが、小屋の壁越しに届いている。


 先に口を開いたのは、意外にも久我だった。


「……俺は、軍人だったとき、“弾を捨てる”って選択肢を一度も真面目に考えたことがなかった」


 彼は、拳を握った膝の上に視線を落とした。


「弾は、“最後まで守るためのもの”だと教わってきた。

 どんなにまずい状況でも、『弾があればどうにかなる』って、無意識に思ってた」


「でも、ここは戦場じゃない」


 門脇が静かに言う。


「ここは、“ゲーム”でもあって、“記録装置”でもある。

 私たちが今運んでいる弾は、“このゲームの燃料”でもある」


「分かってる」


 久我は、苦笑のような息を吐いた。


「だから今、俺の中で、“兵士としての感覚”と、“ここでのプレイヤーとしての感覚”がぶつかってる」


 少しだけ間を置いてから、彼は続けた。


「……俺個人としては、弾を捨てるのは怖い。

 怖いけど、“俺が撃つ未来”を残したまま下りるほうが、もっと怖い」


 視線が、燈に向く。


「だから条件をつける。

 弾倉を捨てる前に、全員から“撃たない”って合意を取ること。

 誰も、“実は撃ちたかった”って言い訳できないようにする」


「合意書、ってことですか」


「そうだ」


 久我は頷いた。


「紙切れ一枚の話かもしれないが、それを書くことで、俺たちは“記録の読み方”をこちらから決める。

 『俺たちは撃つ機会がなかったから撃たなかったんじゃない。撃てる状態を、自分たちで捨てた』って」


 門脇の目に、薄い光が宿る。


「……いい。

 “撃たない合意書”。

 私が文面を作る」


「仕事が早いなあ、法学部」


 阿久津が、ようやく口元を緩めた。


「じゃあ俺は、その合意書のタイトル考えていい?

 “ノーショット・クリア宣言書”とか」


「正式名称にはしないけど、サブタイトルとしてなら認める」


「やった」


 ほんの少しだけ空気が柔らかくなる。

 寺内や稲葉の顔にも、まだ不安は消えないが、「何もしないで待つ」状態からは抜け出せた実感があった。


 *


 紙とペンをかき集め、門脇は膝の上で短い文面を書いた。


〈私たち十三人は、この山での残りの時間、“人間を撃たない”ことに合意する〉

〈襲撃への防衛手段としての射撃も含め、拳銃の使用を放棄する〉

〈弾倉の廃棄は、全員の意思として行う〉


「ざっくり言えば、こう」


 阿久津が覗き込む。


「“人間”限定?」


「熊については……」


 門脇は、少し考えてから、ペンを走らせた。


〈なお、熊その他野生動物への射撃も放棄する〉


「完全ノーショットだな」


 久我が、苦笑いと諦めの混じった声を出した。


「俺の軍歴を知ってる連中が見たら、卒倒するかもしれん」


「ここでの軍歴、ってことで」


 燈が、紙を受け取った。


「一人ずつ、名前を書くか、印でも」


 十三人は、順番に紙に触れた。

 フルネームで書く者もいれば、イニシャルだけの者もいる。それでも、誰ひとりとして手を引っ込めなかった。


 最後に、燈が自分の名前を書き込む。


 日高燈――。


「……これで」


 紙を両手で持ち上げる。


「“撃たない”って決めたのは、俺じゃなくて“俺たち全員”です」


「よし」


 久我が立ち上がった。


「じゃあ、沢に行くぞ」


 *


 沢までは、昨日も通った道だ。

 霧は相変わらず低く垂れ込めているが、風が少し出てきたおかげで、視界は夜よりましだった。


 水音が近くなる。

 白い泡が岩を乗り越えて、一定のリズムで流れていく。

 その手前で、久我が立ち止まり、拳銃を取り出した。


「確認する」


 スライドを引き、弾倉を外す。

 金属の塊が、冷たい空気の中で鈍く光る。


「弾数、八。間違いないな」


 弾倉の横から、銀色の弾頭がきっちり詰まっているのが見えた。

 それが、今まで何度も“撃つかもしれない”と思わされてきた未来の重さだ。


「……触っておこうか」


 阿久津が、苦笑しながら言う。


「“最後のショット”にならないように、“最後のタッチ”だけ」


「縁起でもない言い方するな」


 久我が呆れつつも、弾倉を皆の前に差し出した。


 十三人が順番に、指先で弾倉をつつく。

 冷たく、硬い。

 その感触を確かめながら、“これはもう使わない”と、心の中で繰り返す。


 最後に燈が弾倉を受け取った。


「……投げるの、俺でいいですか」


「お前が言い出したことだ。お前がやれ」


 久我が短く言う。

 門脇も頷いた。


「“最後に開くひと”の仕事のうちだと思って」


「大役すぎるんですよ、さっきから」


 燈は苦笑しながら、沢の縁まで歩いた。


 足元の石は滑りやすい。慎重に場所を選び、弾倉を胸の高さに掲げる。

 風が、頬をなでた。


「……さよなら」


 小さく呟き、腕を振る。


 弾倉は弧を描き、朝の薄闇の中を飛んでいく。

 水面に当たった瞬間、短い鈍い音がして、すぐに泡の下へ消えた。


 その瞬間だった。


 ルールブックが、ザックの中で暴れた。


 燈は思わず身体をびくりとさせる。

 リュックの中から、紙が擦れ合うような激しい音が聞こえた。


「来るぞ」


 久我が構える。

 拳銃はもう空だ。スライドを引いても、何も出てこない。


 沢の音よりも大きく、耳の奥に声が響いた。


〈弾薬喪失を検知〉

〈適切な射撃の不可能〉

〈罰フェーズへ移行〉


 ページが、勝手にめくられていく。

 黒い文字が、紙の上を塗りつぶすように広がった。


〈最終罰〉

〈所有者および参加者全員の――〉


「待って」


 燈は、走った。


 ザックを肩から外し、沢の石の上に荒々しく置く。

 ルールブックを引き抜いて、表紙を開いた。


「CORE」


 喉の奥で呟く。

 前に見た“CORE”のタブを、指先で探る。ページの厚みの奥に、黒い影がある。そこに爪を引っかけるようにして、ページをこじ開けた。


 黒地に白い文字が浮かぶ。


〈CORE〉

〈アルゴリズム設定〉


 すぐに、“罰”に関する項目に目がいった。


〈罰モジュール〉

〈トリガー 弾薬数=0 かつ セッション継続フラグ=1〉

〈デフォルト 参加者全員への段階的制裁〉


 その下に、細かい仕様が延々と並んでいる。

 体力の低下、道の封鎖、外部への記録の流出――ざっと見ただけでも、まともな終わり方ではないことが分かる。


「……クソだな」


 燈は、はっきり言った。


「こんなの、“終わらせる”って言わない。

 ただ、壊れるまで回すだけだ」


「いじれるのか?」


 久我が、背後から問う。


「やってみます」


 燈は、ページの下にあった小さな余白に気づいた。

 “新規条件”と書かれた、未使用のスペース。


 掌が汗で滑る。ペンを握り直し、震える指で文字を書く。


〈罰:所有権の消滅〉


 簡潔な一文。

 書きながら、自分でも何を意味しているのか完全には分かっていない。


「……所有権の消滅?」


 門脇が、燈の肩越しに覗き込みながら繰り返す。


「“罰”として、“誰のものでもなくなる”って意味?」


「このゲームの“罰”が、“誰かが責任を被ること”だったとしたら」


 燈は、声を震えさせながらも続けた。


「“それ自体を消す”っていう罰が、一番この装置にとってはきついはずです。

 だって、“誰のものでもないルール”は、誰も読まない」


「……なるほど」


 門脇の目に、かすかな驚きが走る。


「“罰の対象”を人間じゃなくて、“所有権そのもの”にすり替える。

 理屈としては、あり得る」


「通るかどうかは、向こう次第だけどね」


 燈は、書き終えると同時に、ページの文字が揺れ始めたのを感じた。


 黒字が、白いインクに上書きされる。

 さっきまで“全員への段階的制裁”と書かれていた部分が、ゆっくりと塗り替えられていく。


〈最終罰〉

〈所有権の消滅〉


 ただ、それだけ。


 沢の音が、急に静かに感じられた。

 風も、霧も、一瞬だけ止まったように思える。


 次の瞬間、リュックの肩紐が、ぱきん、と音を立てた。


「……え?」


 燈が見る間に、黒い布がほどけていく。


 縫い目の糸が、砂みたいに解けて、朝の冷たい風に乗って散っていく。

 チャックが金属粉となって崩れ、バックルが細かい粒になって岩の上を転がった。


 中に入っていたはずの拳銃も、同じように形を失っていく。

 スライドも、グリップも、マガジンハウジングも、すべて細かい金属の粉となって、沢の水しぶきと一緒に散った。


「……マジで、消えてる」


 阿久津が、ぽかんと口を開けたまま呟く。


「ハードウェアごと、ゲームオーバーってこと?」


「“所有権”がなくなったんだろう」


 門脇が、息を飲みながら言う。


「持ち主がいない。ルールの持ち主も、記録の持ち主も。

 だから、物として存在する意味もなくなった」


 崩れ落ちた残骸の中で、一枚だけ、紙がふわりと浮かび上がった。


 白いページ。

 他のものが砂になる中、その紙だけが形を保っている。


 燈は、反射的にそれを掴んだ。


「……最後のページ?」


 そこに印刷されていたのは、一行の文だった。


〈撃たなくてよいとき、撃たないことを勝利とする〉


 昨夜、燈が震えながら書いた一文。

 それだけが、きれいなフォントで中央に印字されている。


「コアもルールブックも消えたのに、そのページだけ残ってる」


 佐間が、ひそひそ声で言う。


「それって、つまり――」


「“次のセッションの種”として、残そうとしてるんだ」


 門脇が静かに言った。


「所有権は消した。でも、“基底ルール”だけは紙の形で残した。

 このページが、誰かに拾われて、また新しいリュックの中身になる可能性がある」


「……だとしたら」


 燈は、指先に残る紙の感触を確かめた。


「これは、“ここに置いていくわけにはいかない”」


「どうする?」


 久我が問う。

 燈は、少しだけ考え、それから顔を上げた。


「燃やします」


「燃やす?」


 阿久津が目を丸くする。


「せっかく書いた一文を?」


「“記録は読み方だ”って、門脇さん言ってましたよね」


 燈は、紙を胸の高さに持ち上げる。


「だったら、“誰にも読ませない”って読み方も、きっとある」


 門脇は、目を瞬いたあとで、小さく笑った。


「……理屈としては、ギリギリ通る」


「どこで燃やす?」


 久我が周囲を見回す。


「この辺で焚き火は危険だ。地面も湿っているし、燃え残りが出たら厄介だ」


「頂上近くに、小さな火口があったはずです」


 燈が言う。


「昨日、春野さんとルートの話をしているとき、地図で見ました。

 古い噴気孔みたいな、小さな窪地があるって」


「火は出てないはずだが」


「温度はあるかもしれない。

 それに、火口って、こういう“終わり方”にはちょうどいい気がしませんか」


 妙な説得力に押され、全員は頷いた。


 *


 火口までは、そう遠くなかった。


 霧が少し晴れ、空が薄い灰色から淡い青に変わりかけている。

 岩がむき出しになった斜面を登ると、ぽっかりとくぼんだ円形の窪地が現れた。


 直径二十メートルほど。

 底には黒ずんだ岩が見え、ところどころから白い湯気のようなものが立ち上っている。


「まだ、生きてるんだな、この山」


 寺内が、感心と恐怖の混じった声で言った。


「“火山性ガス注意”って看板があってもおかしくない場所だ」


 久我が周囲の風向きを確かめる。


「深いところまでは降りないで、縁から投げ入れる」


「了解」


 燈は、窪地の縁に立った。


 足元の岩は熱を帯びている。

 じわりと靴の裏から温度が伝わってきた。


 手の中の紙を見つめる。


 “撃たなくてよいとき、撃たないことを勝利とする”。


 もしこれを残せば、きっと次の誰かのルールになる。

 それは、それで悪くないかもしれない。

 “撃たない勝利”を知った誰かが、別の山で別の物語を選ぶかもしれない。


 でも、同時に――この一文が、新しい“ゲーム”の起動スイッチになる可能性もある。


「……ごめん」


 燈は、小さく呟いた。


「君を信じたいけど、今は一度、全部止めたい」


 両手で紙を丸める。

 軽く、握りしめた拳の中で折れ曲がる。


 そのまま、火口の中心へ向かって投げた。


 紙は小さな白い鳥みたいに、空中をひと回りしてから、窪地の底へ落ちていく。

 湯気の中に消えたかと思った瞬間、ふっと小さな火が灯った。


 オレンジ色の点が、紙の端から端へと走る。

 細く、しかし鋭い炎。

 文字が歪み、黒く焦げていくのが、ぎりぎり見えた。


 “撃たなくてよいとき、撃たないことを勝利とする”。


 その一文が、熱で溶けて、空中へ立ち上る白い煙へと変わっていく。


「……終わった?」


 稲葉が、慎重に尋ねる。


「分からない」


 門脇が正直に答える。


「でも、“ルールブックという形の記録”は、これで完全に消えた。

 残っているとしたら、私たちの記憶の中だけ」


「記録は読み方だ、っていうなら」


 阿久津が、肩を回しながら言った。


「俺ら、これから先、いろんなところで“この話”を思い出すと思うんだよ。

 そのたびに、『撃たないほうが勝ちだった』って読み方を選べば、それがもうルールブックみたいなもんでしょ」


「言うね」


 久我が、口元だけで笑った。


「じゃあ、撃たないで下りるという読み方を、最後まで貫くか」


 沢のほうから、朝の光が差し込んできた。

 霧が少しずつ薄くなっていく。

 空は、ようやく「朝」と呼べる色に近づきつつあった。


「行こう」


 燈は、皆の顔を見渡した。


「ルールブック無しで、山を下りる」


 誰も、異論は言わなかった。


 *


 下山は、呆気ないほど平穏だった。


 足を滑らせる者はいたが、大きな怪我はない。

 熊に遭遇することも、崩落に巻き込まれることもなかった。


 途中、遠くの稜線に小さなヘリの影が見えた。

 風に乗って、人の声らしきものも微かに聞こえる。


「救助、間に合いそうですね」


 佐間が安堵の息を吐く。


「“ゲーム外”の人間が、ようやく介入してきた」


 門脇が空を見上げる。


「ここから先は、普通の事故対応と山岳救助の世界。

 ルールブックの声は、もう関係ない」


 登山口の標識が見えたとき、燈の胸の奥で何かがほどけた。


 最初にここを通ったときと、何も変わらない木の柱。

 「入山届を出しましょう」と書かれた看板。

 けれど、自分たちの中身は、明らかに違う。


 阿久津が、振り返って山の上を見た。


「……ノーショット・クリア、達成ってことでいい?」


「達成だ」


 久我が、はっきりと答えた。


「撃たなかった。弾も、銃も、ルールも、自分たちの手で手放した。

 その上で、生きて下りてきた」


「じゃあ、クレジットに名前並べたいなあ」


 阿久津が、おどけて言う。


「“ノーショット・パーティー:日高燈、久我透、門脇雪乃……”」


「順番で揉めそうだからやめて」


 稲葉が笑い、寺内も小さく吹き出した。

 笑い声が、山道に自然に溶けていく。


 燈は、最後に一度だけ、山の上を振り返った。


「……さよなら」


 心の中でだけ、そう告げる。

 那由多の名前と、春野の背中と、黒いリュックの感触を、一緒に結んで胸の奥にしまった。


 記録は、もう燃やした。

 残っているのは、自分たちの“読み方”だけだ。


 それで、十分だと思った。


 *


 エピローグ


 別の稜線。

 別の季節。

 別のグループ。


 風が強い日だった。

 雲の切れ間から、青い空が覗く。尾根の上の笹が、一斉にざわめいている。


「ねえ、あれ何」


 先頭を歩いていた女子高生が、指をさした。

 山道の少し外れたところに、黒い何かが引っかかっている。


「ゴミ?」


「リュック……かな」


 草むらの中で、黒い布の塊が風に膨らんでいた。

 新品みたいに、縫い目はしっかりしている。チャックも錆びていない。


「誰かの落とし物だよ。届けないと」


 もう一人が、素直にそう言った。

 グループのリーダーらしき大人が、眉をひそめながら周囲を見回す。


「この辺で落としたって人はいなかったはずだが……」


 慎重に近づき、黒いリュックを持ち上げる。

 中には、紙束が一つだけ入っていた。


 白い表紙。

 何も書いていない。


「ノートかな」


 誰かが呟く。

 表紙をめくると、最初のページに、一行だけ文字が印字されていた。


〈記録は、あなたの読み方だ。〉


「……何これ」


 女子高生が首を傾げる。


「ポエム?」


「誰かの、山ノートの最初の一文かもね」


 大人は、それ以上深く考えなかった。

 拳銃も、弾倉も、ルールブックの条文も、そこにはない。


 あるのは、一枚の紙と、一行の言葉だけ。


「せっかくだし、このノート、今回の山行の記録に使おうか」


 そんな何気ない提案に、周りも賛成した。


 新しいページに、日付とメンバーの名前が書かれていく。

 「○合目でおにぎりを食べた」「霧が出てきて怖かった」「でも楽しかった」。


 記録は、彼らの読み方で、また別の形を取り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ