第十二話 交渉
夜は、音の形を変える。
山小屋の壁を叩く風の音も、沢の遠い轟きも、昼間とは違う高さで耳に入ってきた。ランタンの灯りは心もとない円だけを照らし、その外側はすぐに黒と霧に飲まれている。
ルールブックは、テーブル代わりの板の上に横たえられていた。
所有者欄には、はっきりと春野香澄の名前が刻まれている。
〈現所有者 春野香澄〉
「……眠れないね」
誰にともなく、春野が言った。
目の下には薄い隈が浮かんでいる。那由多のページを読んでから、ずっと目を閉じようとしない。
「交代で寝ろって言ったのは春野さんですよ」
燈が苦笑する。
「そういう先生が起きてたら、誰も安心して寝られません」
「先生って立場、こういうとき不利だよね」
阿久津が、毛布にくるまりながら顔だけ出した。
「生徒より先に寝てたら、“意識低い”とか“やる気ない”とか言われるやつ」
「言ったことあるの?」
「コメント欄で見たことはある」
「それ、先生じゃなくて配信者でしょ」
小さな笑いが、すぐにしぼむ。
小屋の中には十三人いる。だが、誰も完全には眠れていない。薄い仮眠と覚醒が、波のように交互に押し寄せていた。
「……ねえ」
春野が、ルールブックに手を伸ばした。
「ひとつ、試してみたいことがある」
「また危ない橋?」
門脇が眉を上げる。
「危ない橋じゃないと、もう渡る場所が残ってなさそうだから」
春野は、自嘲混じりに笑ってから、ページを開いた。
仕様変更の項。所有者の罪の記録。十四人目の条件。
それらの行の間に、微妙な余白がある。
「この余白、“入力欄”みたいに見えない?」
「入力欄?」
「今までずっと、向こうから一方的に表示されるだけだったけど。所有者のページには、“コメント”を差し挟めそうなスペースがある気がする」
門脇も覗き込み、目を細める。
「……たしかに、行間の幅が他と違う。テキストエリア、と言われればそうかも」
「何を打つつもりだ」
久我が問う。
春野は、一度大きく息を吸い、吐いた。
「交渉文」
「交渉?」
「撃つ代わりに、離脱を認めろって」
燈の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「春野さん、それは――」
「このゲームは、“適切な射撃”を求めてる。
でも、さっき私たちは、“撃たない責任を分け合う”って決めた。
だったら、『撃たないこと自体をルールに組み込めないか』って考えるのは、そんなにおかしくないと思う」
春野は、指先で紙の余白をなぞる。
「今までも、こっちの行動や言葉に反応して仕様が変わってきた。
熊を撃たなかったときは、『罰免除』って形でルールが揺れた。
なら、“所有者としての公式な要求”を一回くらい投げつけてみてもいいんじゃないかなって」
「それに応じる保証は?」
「ない。けど、何もしないまま“適切な射撃”が求められるのを待つよりは、ましだと思う」
門脇は、少しだけ考えてから頷いた。
「交渉は、ルールゲームでは正式な手段だ。
黙って従うばかりが“参加者”じゃない。
ただし、それをやるなら、文面は慎重に」
「そこは、法学部さんにお願いしたいところだけど」
「責任の所在がややこしくなるから、自分で書いて」
あっさり拒否されて、春野は小さく笑った。
「そう来ると思った」
ルールブックの余白に、黒いペン先が触れる。
紙が一瞬だけ拒んだように沈み、それからじわりとインクを吸い込んだ。
春野は、ゆっくりと文字を書いていく。
〈提案〉
〈所有者は、適切な射撃の代替として、参加者一名の離脱を要求する〉
〈条件 該当者は今後一切、射撃に関与しない〉
〈弾薬の消費は所有者が負う〉
「……譲歩、多くないですか」
燈が思わず口を挟む。
「撃たないのに、弾薬だけ消費するって」
「向こうにとって“損”がないと、交渉の形にならない」
門脇が補足する。
「弾薬は、このゲームにおけるリソースだ。
離脱一名と弾薬一発、って交換条件なら、まだ“交渉”として成立するバランスかもしれない」
ペン先が止まる。
春野は、最後に一行だけ付け足した。
〈撃つ代わりに、離脱を認めよ〉
シンプルで、正面からの要求。
書き終えると同時に、紙の上の文字が微かに揺れた。
インクの色が、じわりと変わる。黒から、ページのいつもの濃淡へ。
手書きの字が、印刷された字に置き換わっていく。
「……読まれた」
阿久津が、息を呑む。
数秒の沈黙のあと、ページの下段に、小さな文字が浮かび上がった。
〈交渉受付〉
〈回答〉
〈真実を開示すれば、一名だけ下山可〉
単純な条件だった。
「真実、って」
寺内が呟く。
「何の?」
「ここでは多分、“所有者にとって最も重い真実”だ」
門脇が説明する。
「さっき書かれた、“那由多を見失った日の責任”に関わる何か。
記録にまだ書かれていない部分、本人が隠している部分を差し出せば、その代償として一人だけ、ゲームから離脱させる」
「ずるくないですか、それ」
阿久津が顔をしかめる。
「一人だけ、って。
全員じゃなくて、“一名だけ”ってところが、本当にいやらしい」
「そういうゲームなんだよ」
久我が低く言う。
「常に、『誰が生き残るか』を選ばせる構造だ。
それでも――一人でも“ここから出す”選択肢があるなら、無視はできない」
春野は、返答文の行をじっと見つめていた。
真実を開示すれば、一名だけ下山可。
「……私が、行く」
静かな声だった。
誰かが反射的に「駄目だ」と言う前に、春野は続けた。
「交渉を持ちかけたのは私。
“那由多の責任を引き受けたい”って言ったのも、私。
だったら、終局条件に一番近い場所まで下りていくのも、私の役目だと思う」
「それはつまり」
阿久津が問い返す。
「俺らをここに残して、“真相編”の先に一人で行くってこと?」
「真相編って言葉を使わないでほしいけど、意味としてはそうなる」
春野は、自嘲ぎみに笑う。
「でも、これは“逃げ”にもなるよ。
私は下山する。“ここから”は離れる。
上に残ったみんなは、引き続きこのゲームに向き合い続けなきゃいけない」
「逃げって言うなら」
燈が、思わず口を開いた。
「俺だって、一番に逃げたいですよ」
小屋の中の視線が、一斉に燈に向いた。
自分でも少し驚くくらい、言葉はスルッと出てきた。
「怖いです。弾だってまだ九発ある。十四人目のことも分かってない。
ここから先、誰かを撃つことになるかもしれないのに、“ここに残る”のは正直きついです」
「燈くん……」
「でも」
燈は、鼻から大きく息を吸い込んだ。
「俺は、さっき『撃たない責任を分け合う』って言った。
ここで、自分だけ下山する権利を欲しがったら、その言葉ごと全部、嘘になると思う」
春野は、じっと燈を見た。
眼差しの中には、複雑な感情が混ざっている。感謝、罪悪感、そして少しの誇り。
「だから――春野さんが行ってください」
燈は頭を下げた。
「那由多のことを、最後まで追いかけられるのは、春野さんしかいない」
久我が、静かに口を開いた。
「……下山する一人を選ぶとき、“最も弱い者”を選ぶなら、俺は燈を推したかもしれない。
体力的にも、精神的にも、他の連中より若い」
「僕が一番弱いってことですか」
「いい意味だ」
久我は口元だけで笑った。
「一番後悔を重ねる余白があるって意味でもある。
だが、“ここに残る”と言ったなら、それを尊重する」
門脇も、深く息を吐いた。
「交渉の中心にいるのは春野さんだし。
この回答文を“真に受ける”かどうかを決める権利も、春野さんにあると思う」
「……ありがとう」
春野は、目を伏せる。
ルールブックの余白に、今度は返答を書く。
〈回答を受諾する〉
〈所有者は、那由多を見失った日の真実を開示する〉
ペンを置く前に、彼は一度だけ皆の顔を見渡した。
「これは、告白というより……告発だと思う。
私自身を、ルールブックに告発する行為」
ページの片隅で、文字がうごめき始める。
春野は、それを上書きするように、自分の言葉を綴った。
「那由多を見失った日――」
声が、静かに小屋の中を満たしていく。
「本当は、私は彼女の“異変”に気づいていた。
点呼をする前から、列の中で、彼女が少し離れた位置に立っていることも。
息が上がっているのに、“大丈夫です”って無理をしていることも」
ペン先が紙を走る。
その文字が、すぐに印刷されたフォントへと変わっていく。
「それを見て、私はどうしたか。
“様子を見る”って言って、そのまま静観した。
立ち止まって、列を止めて、彼女のそばに行って、“休もう”って言うことができたはずなのに。
私は、“他の生徒たちの流れを止めるのが怖い”って理由で、何も言わなかった」
ルールブックには、今まで書かれていなかった一文が追加されていく。
〈恐怖による静観〉
〈集団の流れを乱すことへの恐怖が、個人の安全確認より優先された〉
「私は、彼女一人のために『ストップ』って言えなかった。
“空気を読んだ”だけなんだよ。教師としてじゃなく、一人の大人として」
声が震える。
ページの文字は、淡々とその震えをなぞるだけだ。
「それから点呼があって、人数が合わなくて。
私はそこで初めて、“彼女がいないかもしれない”現実を正面から見た。
それまでの“静観”のせいで、気づくのが遅れた――そのことを、ずっと認めたくなかった」
小屋の中には、誰の咳払いも、鼻をすする音もない。
全員が、春野の告白を聴いていた。
「これが、私の一番重い真実。
“那由多を置き去りにした”んじゃない。“置き去りにされるのを知っていて、止めなかった”」
最後の行を書き終えた瞬間、ページが大きく震えた。
インクが一度、紙の上で滲み、すぐに定着する。
その下に、新しい行が現れた。
〈真実の開示を確認〉
〈条件承認〉
〈参加者一名のみ、下山を許可〉
同時に、弾薬数の表示が変わる。
〈弾薬数 八〉
「……減った」
佐間が呟く。
「撃ってないのに」
「交渉の代償だ」
門脇が淡々と言う。
「“撃つ代わりに離脱を認めろ”って条件を向こうが飲んだってこと。
撃ってはいないけど、弾薬リソースは一発使われた」
「承認されちゃった、ってことか」
阿久津が天井を見上げる。
「マジかよ……本当に行けるの?」
ページの下段に、さらに細かい文字が浮かぶ。
〈指定下山者 春野香澄〉
〈他の参加者は、所有者の離脱を妨げてはならない〉
〈妨害行為は罰の対象となる〉
「……そこまで書く?」
燈は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「“妨げてはならない”って……石を投げるな、ってことか」
「そう書いてくれなくても、私は投げないよ」
春野が、少しだけ笑う。
「でも、こうして書いてもらったほうが、後ろめたさが減る気もする。
『ルール上、こうなっているから』って言い訳できるから」
「言い訳にするなよ」
阿久津が笑う。
「ちゃんと、“会いに行くため”の下山でしょ。
真相編のロケハン、よろしく」
「あなた、ほんとに言葉の選び方が配信者」
「職業病です」
笑いの中に、少しだけ涙の混じった声も聞こえた。
誰も、春野の背中を掴もうとはしない。
それが、ルールブックに書かれた「妨害するな」以上の、彼女への信頼だった。
*
夜明け前、霧は少しだけ薄くなった。
薄青い光が、山小屋の窓から差し込む。
春野は少ない荷物をまとめ、ザックを背負った。ルールブックは彼女の手にはない。所有権は一時的に解除され、ページの所有者欄は空白になっている。
「本当に一人で大丈夫ですか」
燈が最後まで食い下がる。
「途中まで送ります」
「駄目だよ。条件には“参加者一名のみ”って書かれてる。
複数人で動いたら、それだけでペナルティを食らうかもしれない」
春野は、優しく首を振った。
「それに、燈くんたちはここで“上”を見ててほしい。
私は、“下”を見てくる」
久我が、ドアの前で立ち止まる春野に言った。
「霧が濃い場所は踏み外すな。
沢の音が急に近くなるところも危ない。
分かってるだろうが、念のため」
「はい、先輩」
懐かしい呼び方が、春野の口からこぼれた。
「那由多にも、こうやって言ってあげればよかったな。“踏み外すな”って」
扉が開く。
冷たい空気と、白い霧の匂いが小屋の中に流れ込んだ。
「行ってきます」
それだけ言って、春野は外へ出た。
誰も、背中に石を投げなかった。
代わりに、小さく「行ってらっしゃい」という声が、いくつも重なって彼女の背中に届いた。
*
下山路は、思っていたよりも静かだった。
霧はまだ残っているが、夜のような圧迫感はない。
足元は湿っているが、凍ってはいない。
春野は、慎重に一歩一歩を確かめながら、沢沿いの道を下っていった。
「……本当に、私だけなんだ」
振り返れば、山小屋はもう見えない。
霧の向こうには、上へ続く尾根道がぼんやりと浮かぶだけだ。
ルールブックが手元にない代わりに、春野の胸ポケットには小さなメモ用紙が入っていた。
そこには、那由多の名前と、自分がさっき書いた告白の要点が、簡単な箇条書きでまとめられている。
「忘れないように、って」
自分で書いたものだ。
ルールブックに書かせるだけじゃ足りなくて、自分の手でもう一度書いておきたかった。
沢の音が少しずつ大きくなる。
やがて、視界の先に、一度見覚えのある地形がちらりと現れた。
「あれ……?」
木々の間から覗いたのは、崩れかけたテントの骨組みだった。
生地は風に吹き飛ばされ、フレームだけが斜面に立っている。周囲には錆びたペグと、色の抜けたロープの切れ端。
「沢沿いの遺棄テント……」
燈たちと一緒に見つけた場所とは、少し位置が違う。
もっと下流、もう少し人が入りやすい広さの河原だ。
近づくと、そこに“それ”はあった。
黒い布の塊。
見覚えのありすぎる形。
「……リュック」
喉がひりつく。
そこにあるのは、彼らが山中で拾ったものと同じ型の、黒いリュックだった。ただし、チャックは開きっぱなしで、中身は空っぽだ。
隣には、風化した金属の塊が落ちている。
拾い上げると、それは拳銃だった。
錆びつき、スライドは固まっていて動かない。引き金も砂に埋もれている。
「これ……」
春野は、思わず周囲を見回した。
誰もいない。
あるのは、古い焚き火の跡と、潰れた空き缶、そして風と霧だけだ。
黒いリュックの内側のタグには、薄れかけた文字が残っていた。
〈SESSION 01〉
最近見たほうのルールブックには、そんな印字はなかった。
代わりに、ただ無名の収納スペースとしてそこにいた。
「前の……セッション」
春野の脳裏に、燈が見つけた“前回セッションの記録”画面がよみがえる。
霧島那由多。久我透。春野香澄。
彼女たちの名前が並んでいたそのリスト。
足元の砂に、ぼんやりとした足跡の跡が残っている。
時間が流れ、雨に削られて形は崩れているが、確かにここに人が立ち、座り、荷物を置いた痕跡だ。
「ループしてるんじゃない……?」
思わず口に出す。
「同じゲームが、何度も繰り返されてるんじゃない。
前のセッションが全部リセットされて、私たちが“新しい一周目”として参加させられてるんじゃない……」
黒いリュックの表面を指でなぞる。
布は、ところどころ擦り切れている。その上から、新しい傷が斜めに走る。
「重ね書き……」
言葉が、自然に口からこぼれた。
「前のセッションに、新しいセッションが、上から重ねて書かれてる。
古いリュックの上に、新しいリュックが置かれて。
前の銃の上に、新しい銃が、“同じ場所”で使われて……」
那由多の笑顔と、自分の静観の記憶と、ルールブックの冷たいフォントが、頭の中で重なり合う。
「ゲームはループするんじゃない。
重ね書きされていくんだ。
前にいた人たちの軌跡の上に、私たちの選択が上書きされていく」
だからこそ、「前回セッションの記録」が燈だけに見えた。
あれは、完全に消された過去ではなく、“まだ完全には塗りつぶされていないレイヤー”だったのだ。
「那由多も、きっとここを通った。
この沢沿いを歩いて、同じように何かを見て――」
春野は、風化した銃をそっと地面に戻した。
空のリュックをひとつひとつ確かめる。中には、何もない。弾も、ルールブックも。
「全部、“今のリュック”に移されてる」
罪も、弾も、責任も。
重さは減っていない。ただ、持ち主だけが更新され続けている。
「……十四人目」
春野は、沢の流れを見つめた。
「十四人目って、多分、“最後に重ね書きされた責任”のことを指してるんだ」
誰か一人の顔ではなく。
装置そのものでもなく。
「前にいた十三人分の罪と、今ここにいる十三人分の罪の、その上に乗った“一番上の一枚”。
それを“十四人目”って呼んでる」
風が吹く。
霧が少しだけ流れ、上のほうの稜線がぼんやりと覗く。
「なら、私がここでやるべきことは――」
春野は、胸ポケットからメモを取り出した。
那由多の名前が書かれている紙。自分の告白が箇条書きされた紙。
それを、ゆっくりと空のリュックの底に置いた。
「あなたの名前を、ここに残すこと」
ルールブックの代わりに。
新しい重ね書きではなく、“消されない書き込み”として。
「重ね書きされるなら、それでもいい。
上から何十回、何百回とゲームが繰り返されても、このメモくらいなら、隙間に残ってくれるかもしれない」
沢の音が、少しだけ柔らかく聞こえた。
風に揺れた枝の影が、砂の上に揺れる。
「……那由多」
春野は、初めてきちんとその名前を呼んだ。
「あなたを“十四人目”としてじゃなくて、“一人の生徒”として呼びにきた。
遅すぎるけど、せめてこれくらいはさせて」
その声に答えるように、どこからか小さな石が転がる音がした。
振り返っても、誰もいない。
でも、それでよかった。
「ゲームはループしてない。
その代わり、私たちの言葉も、きっとどこかに残る。
重ね書きしてるのは、向こうだけじゃない。
私たちも、自分たちの“真実”を、上から書き込める」
春野は、空のリュックの口をそっと閉じた。
その上に、風化した銃が静かに横たわっている。
「……戻らなきゃ」
下山路は、まだ続いている。
ルールブックの“下山許可”が、どこまでを指すのかは分からない。
ふもとまで行けば、本当にゲームを抜けられるのか。
それとも、この沢のどこかで、別の“遺構”が彼女を待っているのか。
それでも、春野の足取りは、さっきより少しだけ軽くなっていた。
重ね書きされるゲームの上で、自分から書き込んだ一行が、たしかにここに残っていると信じられたからだ。




