第十話 十四人目
霧は、音より先に世界を消していった。
尾根に出てすぐ、日高燈は違和感に気づいた。さっきまで見えていた対岸の稜線が、白い膜越しの影のようにぼやけている。風が弱まり、空気が冷たくなる。足元の土は湿り、靴裏に細かい砂がまとわりついた。
「霧だな」
久我が呟く。彼の声も、少し遠くから聞こえるような気がした。
「ここは、もともと出やすいんですか?」
稲葉が不安げに問う。燈は地図の縮尺を頭の中でなぞりながら答えた。
「沢から上がってきたところだし、気温も下がってる。地形的には……まあ、出る条件は揃ってるね」
「すごい無感情な分析ありがとう」
阿久津が半笑いで言う。だが、その口元には余裕がない。霧はあっという間に濃くなり、彼らの列を一本の糸みたいに細くした。
「ここからはロープ間隔を短くする。十メートルを五メートルに。声を出すなとは言わないが、大声は避けろ。音の反射で距離感が狂う」
久我が指示し、ロープを巻き直す。燈は先頭に立ち、方角と足元だけに集中した。コンパスの針と、地面の傾き。視界は十メートルもない。それでも、地図の上ではこの尾根をトラバースすれば、山小屋に着くはずだった。
「……ねえ」
霧の中で、春野の声が背中から届いた。いつもより少し近い。
「燈くん、その……前に言ってた“前回セッション”の画面、今も見える?」
「分からない。さっきは沢のところで、突然出てきた感じだから」
「霧が出てる今のほうが、それっぽくない?」
阿久津が口を挟む。
「ほら、ホラー映画的に。霧=真相解禁タイム、みたいな」
「あなたは本当に……」
春野が呆れかけて、言葉を飲み込む。霧の密度がさらに増し、足元が見えにくくなった。燈は立ち止まり、ロープのテンションを確認する。
「一回、止まろう。ここで動き続けるのは危ない」
足音が順に止まり、全員が近づく気配がした。霧の壁の向こうから、息の音だけが集まってくる。
「……さっきの“前回セッション”の話、ちゃんと共有したほうがいい」
門脇が静かに言う。
「今までは燈が断片的に教えてくれただけだったけど、実物を見られるなら見たい。危険でも、見ないままでいるほうが今は怖い」
燈は頷き、リュックからルールブックを取り出した。湿気のせいか、紙は少し重くなっている。
表紙をめくる。いつもの条文。所有者の名前。弾薬数。
弾薬数の表示が、思っていた数字と違っていて、一瞬だけ目が止まった。
〈弾薬数 九〉
(九?)
前に確認したときの数字は七だった。熊を撃たなかったことによる「消費」で減り、その後、罪の競売で何も撃っていないのに弾が増えた様子はなかった。
いつの間にか、どこかで「観測された罪」が弾に変換されたのだろう。ページを開いていないあいだにも、装置は勝手に計算している。
「どうしたの?」
春野が覗き込もうとする。燈は首を横に振り、先に表紙の裏側へ指を滑らせた。
沢で感じた、もう一枚分の厚みを探る。指先に、かすかな抵抗が触れた。
そこに、影のようなページが現れる。
〈前回セッションの記録〉
「……出た」
思わず声が漏れた。霧の冷気が、その声をすぐに薄める。
「見える?」
門脇が眼鏡を上げる。燈は頷き、躊躇したあとで言った。
「今度は、みんなにも見えるかもしれない。ページ、回すから」
輪の中にルールブックを差し出す。霧のせいで表情ははっきり見えないが、全員の視線が紙に集まっているのが分かった。
門脇が両手で受け取り、表紙の裏を見る。
「……あ」
彼女の喉から、短い声が漏れた。
「見えた?」
「うん。黒地に白字で、『前回セッション』って。参加者一覧も」
春野と久我、佐間も身を乗り出す。
「ほんとだ……」
春野の声が震える。
霧の中、ルールブックの影ページには十三の名前が並んでいた。
霧島那由多。
その名前も、その中にある。
「他にも、見覚えのある名前がいくつか……」
門脇が指で追いかける。
「久我透。日高燈。春野香澄。佐間怜……」
「ちょっと待て」
久我の声が低くなる。
「俺たちの名前が前のセッションにもあるってことは、どういう……」
「分からない。でも、書いてある」
門脇は先へ目を走らせた。
「霧島那由多 二十歳 大学生/クライミングサークル所属」
「春野香澄 二十四歳 臨時講師/事故対応訓練参加者」
「久我透 二十七歳 自衛隊普通科/山岳訓練」
「日高燈 十七歳 高校生/山岳部」
「佐間怜 二十一歳 医学生/ボランティアスタッフ」
それぞれの名前の横に、稼働時の役割のようなものが書かれている。
「……四年前、だ」
久我がかすれ声で言った。
「俺がこの山域で訓練に入った年だ」
「私も、その頃は臨時講師の仕事で、避難訓練の引率をした記憶がある」
春野がゆっくりと頷く。
「場所は違う山だったはずだけど……」
「燈は?」
「高校二年の夏。部活で別の山に行ってた」
口に出してみても、どれも「別々」の記憶としか結び付かない。
なのに、ページはそれらを一本の線として繋ぎ、「前回セッション」と名前をつけている。
門脇がさらに下を指で追った。
「霧島那由多の項目……あった」
そこには簡単なメモが続いていた。
〈霧島那由多 前回セッション参加者〉
〈役割 登攀リーダー〉
〈結果 行方不明〉
〈備考 十四人目の存在を示唆〉
「十四人目……」
稲葉が小さく繰り返す。
燈は、沢沿いの遺棄テントで見た写真を思い出した。霧島那由多の笑顔と、その横に並ぶ十三人。ただの集合写真だと思っていたそこにも、「一人増えた」噂話が付いて回っていた。
「……待って」
春野が、急に顔を上げた。霧の向こうで、その表情までは見えない。それでも声の色は分かる。何か思い出しかけている人間の声だった。
「那由多、って名前……」
「春野さん?」
「昔、担任をしていたクラスに、那由多ってあだ名の子がいた。漢字までは覚えてないけど、苗字は違った。
でも、雰囲気が、あの写真の子に似てる気がする。背も、笑い方も」
「気のせいじゃないかもしれない」
門脇が静かに言う。
「ここに書かれているプロファイルには、本名って書いてない。『前回セッション時の識別名』って注釈がある」
ページの端には、たしかに小さくそう書かれていた。
霧島那由多という名前が、本物かどうかは分からない。けれど、春野の記憶の中の“那由多”と、この山で噂されている霧島那由多の影が、少しずつ重なっていく。
「……置き去り事故、って」
佐間が言葉を探るように口を開いた。
「春野先生の“教え子の置き去り事故”と、この山の『十四人目が消えた話』が、もしかして繋がってる?」
春野は、霧の中でぎゅっと手を握りしめた。
「事故の日、私は点呼を間違えた。標高の高い林道で休憩したとき、人数確認をして……ひとり足りないことに気づいた。
でも、その子は別のグループに紛れていて、結局無事だったって報告を受けた。
それで終わった、はずだった。
なのに、そのあとも、何度点呼をしても、頭の中の名簿の“最後の一人”が、誰なのか、はっきりしなくなった」
霧が、彼女の声を余計に震わせる。
「那由多って子は、転校も多くて、途中からクラスに来た子で。あだ名で呼ばれてたから、苗字を忘れてしまって。
今、ここに“霧島那由多”って書かれてるのを見て……全部が繋がりかけているのに、届かない感じがする」
「つまり」
阿久津がまとめるように言った。
「先生の“置き去り事故”と、この山の“十四人目の噂”と、このルールブックの“前回セッション”の記録が、一本に繋がってる可能性があるってこと?」
門脇は頷き、ページのさらに奥に浮かんだ新しい行を指さした。
そこには、さっきまではなかった文が追加されていた。
〈十四人目の存在を確認〉
〈記録は十四人分で閉じる〉
「……閉じる?」
燈が思わず聞き返す。
「どういう意味だ、それは」
久我が険しい顔でページを覗き込む。
続きの小さな文字が、霧の中でじわじわと濃くなっていく。
〈現在セッション 参加者 十三〉
〈最終的に十四となった時点で記録を確定〉
〈十四人目の登録が完了するまで、ゲームは終了しない〉
誰かが息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
「……今、ここにいるのは十三人」
寺内が指を折って数える。
「燈、久我さん、門脇さん、春野先生、佐間さん、阿久津、稲葉、穂高、寺内、他のメンバーも合わせて十三。
足りない一人は、どこにいるの?」
「どこかから新しく誰かが来る、って意味か。登山者か、救助隊か」
久我の声は慎重だ。
「それとも――」
門脇が、言葉を区切って続ける。
「“見えない誰か”か、“装置そのもの”か」
燈は、口の中が乾くのを感じた。
「装置そのもの?」
「このルールブック自体を、プレイヤーとしてカウントする。
あるいは、この山に組まれた監視システム、アルゴリズムの塊を“十四人目”として扱う。
それなら、『十四人分で閉じる』って言葉も、数字上の帳尻合わせとして説明できる」
「そんなの、ゲームとして汚すぎません?」
阿久津が笑う。だが、それは半分本気の怒りだった。
「プレイヤーだと思ってたら、実は運営垢が混じってました、みたいな」
「運営垢?」
「例えるならの話。
……いや、むしろ、最高じゃない?」
急に、彼の声が明るくなる。
「最高?」
燈は嫌な予感しか感じなかった。
「だってさ、“見えない十四人目”とか、“実はゲームそのものが十四人目でした”とか、完全に真相編のネタじゃん。
前半で十三人の人間ドラマをしっかり描いておいて、後半で『本当の参加者は別にいた』ってひっくり返すやつ。
これ、そのまま未公開の真相編として売れるよ。前回セッションと今回セッションを合わせて、『那由多編』としてさ」
阿久津は、指を折って数え始めた。
「配信企画にしてもいいし、ドキュメンタリー風の映像作品にしてもいい。視聴者参加型で、『あなたは十四人目かもしれない』って煽れば――」
「やめろ」
久我が短く遮った。その声には、いつになく鋭い警戒があった。
「その発想自体が、向こう側の仕掛けに近い。
『真相編として売れる』って思わせる構造を、あらかじめ組んでいる可能性が高い。そう思った時点で、すでに誘導されてる」
「誘導、ね」
阿久津は肩をすくめる。
「でもさ、俺ら今さら“ゲームに参加するつもりなんてなかった”って顔できないでしょ。
ここまでルール読んで、弾数数えて、罪の競売までやって。完全にノってるじゃん」
「ノらざるを得ない状況に追い込まれた、というほうが正しい」
門脇が言う。
「それでも、『これは面白いコンテンツになる』って言葉は慎重に扱ったほうがいい。
その視点は、常に誰かの生死の上に立ってる」
春野は、黙ったままページの「十四人目」の文字を見つめていた。霧で髪が湿り、頬に張り付いている。
「……那由多は」
小さな声で言う。
「この“十四人目”になって、どこかでまだ、記録の中に閉じ込められてるのかな」
誰も、すぐには答えられなかった。
霧がさらに濃くなる。足元の感覚がぼんやりしてきた。燈は、ここでこれ以上立ち話を続けるのはまずいと判断した。
「とにかく、山小屋まで行こう。十四人目が誰かを考えるのは、そのあとでもできる」
「そうだな」
久我が頷く。
「霧でルートを外すほうが先に死ぬ。今は、生きて歩を進めるほうを優先だ」
ルールブックはリュックに戻された。影ページは見えなくなる。それでも、「十四人目」の文字は、もう頭から消せない。
*
山小屋が見えたのは、それから一時間近く歩いた頃だった。
霧の向こうに、四角い影が浮かび上がる。屋根の形。壁の輪郭。近づくにつれ、古びた木の匂いと、誰かが以前焚いた煙草の残り香のようなものが鼻をかすめた。
「無人小屋だな」
久我が判断する。扉は閉じているが、鍵はかかっていない。窓から中を覗くと、古い毛布が数枚と、テーブル代わりの板が見えた。
「ここで一晩をやり過ごす」
ドアを開けると、古い木の軋む音が響く。
中は狭いが、十三人がどうにか座るスペースはある。壁には過去の登山者が記念に残した落書きが幾つも刻まれていた。
「なんか、普通に怖いんですけど」
寺内が肩をすくめる。
「落書きに“ようこそ十四人目”とか書いてあったら、即帰るわ」
「やめてください」
笑いながらも、全員がさりげなく壁の文字を確認する。古い日付や名前、簡単な感想が書かれているだけで、不気味なメッセージはない。
「今のところはな」
阿久津がこっそり付け足す。
濡れた服を少しでも乾かすため、小さなランタンと固形燃料で簡易的な暖を取る。風の音は、木の壁を通して鈍く聞こえた。
「……十四人目、ね」
少し落ち着いた空気の中で、再びその言葉が出てくる。
門脇はテーブル代わりの板にルールブックを置き、静かに開いた。
「弾薬数、九のままか」
久我が確認する。
「さっきから増えても減ってもない。
『十四人目が登録されたら記録を閉じる』ってことは、その時点で弾薬の扱いにも何か変化が出るはずだ」
「十四人目って、具体的にどういう状態になったら『登録された』ってみなされるんだろうね」
燈が言う。
「この山に入ってきた時点か、ルールブックに名前が載った時点か。
あるいは……ここにいる誰かの中に、“十四人目”が生まれたタイミングかもしれない」
「生まれた?」
春野が顔を上げる。
「例えば、今まで一度も撃つ気がなかった人間が、本気で『撃ってもいい』って思った瞬間とか。
装置がそういう心理の変化を“新規登録”として扱う可能性もある」
燈は、自分で言いながら背筋が冷たくなるのを感じた。
第九話で久我が「撃てば静かになる」と言い、腕を掴んだときの感覚。その瞬間、もしかしたら“十四人目”の枠がひとつ埋まりかけていたのかもしれない。
「でも」
佐間が静かに口を開く。
「今、ここにいる十三人以外に、この山に人がいる気配は……」
その言葉は、最後まで言い切られなかった。
外で、何かが軋む音がしたからだ。
ギ、と短く。
扉の蝶番が風で揺れたのかと思ったが、風の音とは違うリズムだった。
「……今の、聞こえた?」
稲葉が囁く。全員の視線が扉へ向いた。
久我は立ち上がり、拳銃を握る。銃口を下げたまま、扉から少しだけ距離を取る。
「風かもしれない」
寺内が自分に言い聞かせるように言う。
だが、次の音は、もっとはっきりとした。
木の板を踏む音。
人間の足音だ。重い靴底が、一歩、また一歩と、山小屋の外の土を踏みしめる。
「……マジで言ってる?」
阿久津の声が掠れる。
春野は、思わず自分の口元を押さえた。佐間も立ち上がりかけて、すぐに腰を落とす。
足音は、ゆっくりと近づいてきている。
外の霧の向こうから、何者かがこの小屋を目指して歩いてくる音だ。
「十三人、全員ここにいるか、もう一度確認」
久我が短く命じる。
「春野、佐間、阿久津、寺内、稲葉、穂高……」
名前を呼ばれた者たちが、小さく返事をする。
燈も「いる」と答えた。
「十三、いる」
門脇が数を合わせる。
「じゃあ、外の足音は……」
「十四人目、ってこと?」
阿久津が、乾いた笑いとともに言う。
足音は、扉のすぐ外で止まった。
静寂。風も、霧も、沢の音も、この瞬間だけは聞こえない気がする。
ルールブックのページが、勝手にめくれた。
テーブル代わりの板の上で、黒い文字が踊る。
〈新規接近者〉
〈識別中〉
〈弾薬数 九〉
誰も、まだ撃っていない。
誰も、まだ開けていない。
扉の向こうで、ノックの音がした。
コン、コン、と。
人間が、訪問の礼儀として叩くような、控えめなノックだった。
「……どうする」
久我が低く問う。銃口は扉のほうへ向けられているが、トリガーにはまだ触れていない。
燈は、喉の奥で唾を飲み込んだ。
十四人目。
扉の向こうの足音は、それが人間なのか、装置そのものなのか、霧島那由多なのか、それとも――
ルールブックの隅で、小さな注記が光った。
〈十四人目の登録条件 扉の開放〉
弾は、九発。
撃つか、撃たないか。
開けるか、閉じたままか。
夜の山小屋の中で、十三人の呼吸と、扉の向こうからの静かな気配だけが、世界のすべてになっていた。




