第1話 拾った手
台風が過ぎた翌朝の山は、いつもよりも青かった。
湿った土の匂いが強く、木々の葉はまだ滴を抱いている。日高燈は先頭を歩いていた。
標高一五〇〇メートル。登山道の途中で、ふと彼は足を止めた。
道の脇、倒木の根元に、黒いリュックが落ちていた。
誰のものだろう。こんな場所で?
周囲を見回しても人影はない。鳥の声と風のざわめき、遠くで仲間たちの笑い声がした。
「おい、何かあったのか、燈!」
後ろから声をかけてきたのは阿久津。カメラを首にぶら下げた陽気な青年で、登山サークルの中心人物だった。
燈はしゃがみ、リュックを持ち上げる。ずしりと重い。感覚的に、拳一つ分の金属の重みと、紙の厚みがある。
「誰かの落とし物かもしれない」
「中、見てみろよ。スマホとか入ってるかも」
阿久津の声に押され、燈はジッパーを開けた。
中から出てきたのは、黒光りする拳銃と、銀色の弾倉、そして一冊のルールブックのような紙束だった。
一瞬、息を呑んだ。
銃口を見た瞬間、空気の温度が変わったように感じた。
「……おいおい、マジかよ。映画の小道具じゃないのか?」
阿久津が笑いながら覗き込み、スマホを構える。
だが燈は笑えなかった。金属の質感が、冗談には見えなかった。
ブックレットの表紙には、シンプルにこう書かれていた。
《殺人ゲームのルール》
背筋が冷える。ページをめくると、淡々とした条文が並んでいた。
一、所有者の安全は保証されない。
二、所有者以外の“罪”が記録される。
三、記録は所有者が読むことができる。
四、日没までに『適切な射撃』を一度も行わない場合、全員に罰。
風が吹いた。ページの最後の行に目が止まる。
そこには、燈以外のメンバーの名前が並んでいた。
阿久津春樹――当日未申告の危険行為(トレイル外れ撮影)。
春野香澄――未報告の転落事故歴(教え子)。
久我透――職務上の虚偽報告(山岳救助隊)。
ほかの名前も、すべて、彼ら自身にしか知り得ない“罪”が記されていた。
「これ……何だよ」
春野が声を震わせた。彼女は元教師で、今回の登山には気分転換で参加していた。
阿久津は冗談のように笑う。
「ドッキリか? 誰かが仕込んだんだろ、これ。動画のネタとかでさ」
彼はスマホを掲げて言った。
「せっかくだし、配信のサムネに使うか。“山で拾ったヤバいリュック”ってタイトル、バズりそう」
「やめとけ!」
久我が声を荒らげる。かつて救助隊だった彼の声には、怒気よりも焦りがあった。
「こんなもん、もし本物だったら冗談じゃ済まねえ」
阿久津は笑ってスルーしようとしたが、燈の手から銃を取ろうとした瞬間、揉み合いになった。
金属音。カチリという冷たい響き。
次の瞬間――銃声。
鳥が飛び立ち、誰かの悲鳴が木々の間に吸い込まれた。
阿久津が尻もちをつく。彼の横で地面がえぐれていた。空砲ではない。
全員が言葉を失った。
燈は息を呑み、銃口を見つめる。
黒い穴が、こちらを見返していた。
どうして引き金が――。
「離せ! それ、冗談じゃすまないぞ!」
久我が叫び、銃を取り上げようとする。燈は反射的にスライドを引き、弾を抜こうとした。
だが、弾倉がない。抜き取られている。誰の手だ?
振り返ると、誰もが距離を取り、目を合わせようとしなかった。
「今の……当たってたら、誰か死んでたぞ……」
春野の声が震える。彼女の額に冷や汗が浮かんでいた。
そのとき、ルールブックのページが風にめくられた。
新しい行が追加されていた。
《第一の射撃、確認。安全確保:日高燈。罪の記録、更新開始。》
燈の喉が乾く。紙は確かに、いま、書き換わった。
「何だよこれ……勝手に……」
「ふざけてる場合じゃねえ。とりあえず下山しよう。こんなもん、警察に渡せば――」
久我の言葉は途中で途切れた。紙に浮かび上がる文字。
《下山行為は違反と見なされる。罰の対象:全員。》
誰も動けなくなった。風が止まり、森が黙り込んだ。
「……どうするの、これ」
春野が泣きそうな声を出す。
阿久津は笑おうとして、喉が詰まったように咳き込む。
「冗談、だよな……? なあ……」
燈は答えられなかった。
夕陽が斜面を染めはじめている。太陽の角度が変わるたび、木の影が長く伸びた。
日没までに「適切な射撃」を一度も行わない場合、全員に罰。
その文面が、脳裏を離れない。
誰かを撃たなければならないのか?
そんなこと、あるわけが――。
その瞬間、またページが動いた。今度は、燈の名が浮かび上がる。
《所有者:日高燈。記録開始。未申告の事故隠蔽(過去の登山事故)。》
背筋が凍った。誰にも話していないはずだ。
高校時代、山で後輩が滑落した。自分は助けようとしたが、結局――助けられなかった。
報告書には「単独行動中の事故」と書いた。
それを、なぜこの紙が知っている?
「……何かの悪質なイタズラだ。GPSとか、盗聴器とか、そういう……」
久我の言葉が震える。
その時、リュックの底から、短い電子音が鳴った。
ピッ――。
全員が息をのむ。ルールブックの下、金属の底板の隙間に、小型の通信機らしきものが埋め込まれていた。
モニターに、白い文字。
《監視中。ルール遵守を確認中。》
春野が叫び、リュックを蹴り飛ばす。
が、燈はとっさに拾い上げてしまった。理由もなく、離せなかった。
「やめろ、持つな! お前、また所有者になっちまう!」
久我の声。
だが燈の指は震えながらも、リュックのベルトを離さない。
確かに、ルールの一文が浮かび上がった。
《所有権、再認識:日高燈。安全確保、継続中。》
風が吹き抜けた。木々がざわめく。
そのざわめきの中に、誰かの嗤う声が混じった気がした。
遠くで雷鳴が響く。天気予報にはなかったはずだ。
雲が流れ、光が消える。山の空気が、ぬるく変わっていく。
燈は拳銃を見下ろした。
それは、今にも誰かを選べと迫ってくるようだった。
阿久津が笑顔を取り戻そうとした。
「なあ、もう降りよう。これ以上ここにいたら、頭おかしくなる」
燈は無言のまま、山道の先を見る。
だがその先、斜面の木々の間に何かが見えた。
倒木の影に、誰かの手が出ている。白く、硬直した指先。
「……待て。誰かいる」
全員の視線がそこへ向かう。
燈は近づき、落ち葉を払った。冷たい皮膚。
そこには、昨日の登山届にあった“十四人目”の名前の持ち主、もう一人の参加者――案内人の男が、うつ伏せに倒れていた。
胸には、弾痕。
乾いた血が黒く固まっている。
「な……」
阿久津が膝をつく。
久我がすぐさま脈をとるが、もう冷たい。
「いつ撃たれた……? 昨日の夜か……?」
燈は震える手でルールブックを開いた。
最後のページに、新しい行が書かれている。
《前所有者:佐久間誠。射撃行為不履行。罰執行済。》
燈は息を呑む。
つまり、“罰”とは――。
空が赤く染まりはじめる。
日没まで、あと一時間。
阿久津が言った。
「なあ、燈。……もし撃てって言われたら、どうする?」
燈は答えなかった。
だが、頭の中でひとつの考えが、静かに芽生えていた。
――この銃を使えば、“記録”は誰かの罪を暴く。
ならば、それを読めば、誰が次に裏切るか分かるかもしれない。
彼はゆっくりと立ち上がる。
背後で春野が叫ぶ。
「それ、もう置いて! そんなの、持ってたら……!」
「いや、これは……確かめなきゃいけない」
燈の声は冷えていた。
風が止まり、山が沈黙する。
誰もが、誰かを疑いはじめる。
太陽が山の稜線に沈みかける。
その光が、拳銃の黒い表面を赤く染めた。
――日没までに、『適切な射撃』を一度。
その文が、心臓の奥で脈打つ。
燈はゆっくりと引き金に指をかけた。
照準の先、揺れる木漏れ日。その奥にいる、仲間たちの顔。
誰かが息を呑む音。
雷鳴。夕陽。風。
引き金の上で、指がわずかに動いた。
――次の瞬間、ページがめくられる音がした。
《第二の所有者、記録開始。》
誰の名前が書かれたのか。
その瞬間、世界は音を失った。




