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「ひぁ……」
と、いうリアーヌの小さな声と共に、ガッと音が聞こえ、その背後から伸びた手がゼクスの顔を掴んで押し戻す。
「――そこまでは許してねぇけど……?」
「申し訳ない……」
「手」
オリバーはまだゼクスの顔から手を退けないまま、冷たい視線でリアーヌの両頬に添えられたゼクスの手を見つめた。
「うっす……」
そんな返事と共にゆっくりと離れていくゼクスの手――その手が離れていくのをリアーヌは少しだけ残念に感じていた。
「――お嬢様、大丈夫でございましたか? お可哀想に……」
オリバーはだいぶ芝居がかった口調で嘆きながらリアーヌの前に回ると、前髪や制服を直し始める。
そんなオリバーに肩をすくめたゼクスは、軽く息を吐きながら言葉を吐き出しながら言った。
「――うちはあの家、切りますから」
その言葉に当然のように返事を返したのはオリバーだった。
「さようで。 ――当家といたしましては元々縁もゆかりもございませんので現状維持でございますね」
「今回はこちらで」
「こちらもこのままとは……」
「――相談したいんで今日伺ったわせていただいても?」
「調整させていただきます」
貴族的な本心をぼかした会話を始めた二人に、リアーヌは早々に理解することを諦め(……なんかゼクスが今日家に来るっぽい)とだけ理解したようだった。
この会話で決まったことを簡潔にまとめると、ラッフィナート男爵家はユリア――フォルステル家に侮られたと正式に苦情申し入れること、それによりこれから対立関係になることを決め、ボスハウト家は元々対立関係にあることの開示、そしてそろそろ本格的に対応することを伝えた。
その情報を聞いたゼクスは、ボスハウト家の邪魔をしないよう、可能ならば合同でことにあたれるように話し合いを求め、今後の対応を相談するということになった。
「――さて、どこ行きたい?」
そう言いながらソファーから立ち上がったゼクスはリアーヌに手を差し出しながらたずねる。
「……え?」
その質問の意味が分からず、リアーヌはゼクスを見つめ返した。
「だってもう授業始まっちゃってるし……」
「……戻らないんですか?」
「戻りませーん」
ゼクスとのやり取りに戸惑ったリアーヌは、差し出された手を取りながらゆっくりと立ち上がり、オリバーに助けを求めるような視線を送った。
しかしオリバーは、困ったように笑って肩をすくめると「カフェテラスから見えるバラがそろそろ見頃かと……」と、ゼクスの案を押すようなことを口にした。
本来ならばオリバーが後押しするような場合でも立場でもなかったのだが、ゼクスとのリアーヌは二人でどこかに消えたという事実をすでに作ってしまっている。
そのためすぐに教室に戻るよりも、自由に校内を散策して目撃証言を多く作った方が、リアーヌの外聞に傷がつきにくい――
そうオリバーは判断したようだった。
「バラ園かー。 校内デートにはもってこい……かな?」
「で、デート……」
ゼクスの言葉にほほを染めるリアーヌ。
そんなリアーヌにゼクスは楽しそうに肩を揺らした。
笑われたことにムッと唇を尖らせたリアーヌは、プイッと顔を背け――その視界に入ったオリバーに、念を押すようにたずねた。
「――本当に行っていいんですよね……?」
――その瞳は「ヴァルムさんにチクッたりしませんよね……?」と雄弁に訴えていた。
「本日だけはかまいません」
クスクスと笑いながらも、しっかりと頷き返したオリバーの姿に、リアーヌは満面の笑みで安堵の息をもらす。
「――じゃあ……行ってみる?」
「――はい!」
モジモジしながらも満面の笑みで頷くリアーヌにゼクスも嬉しそうに頷き返し、二人はカフェテラスへと向かった――
「なに食べようかー?」
誰もいないサロン棟の廊下をのんびりと歩きながらゼクスはリアーヌに話しかける。
「――こんなことならお昼を少なめにしておくんでした……」
割と本気で後悔しているリアーヌに、ゼクスはクスリと笑うとからかうように答える。
「そんなことしたら授業中にお腹鳴っちゃうよ?」
「ぅ……」
声を詰まらせたリアーヌにゼクスはさらに上機嫌に言葉を重ねる。
「リアーヌはいつも元気でいいよね。 見ててこっちも元気になる」
(お貴族様がご令嬢の腹の音イジッてくるのってどうなんですか⁉︎ ものすごく紳士じゃないと思いますけどっ!)
「――俺元気な子がタイプだな?」
ヒソっと耳元近くで囁かれた言葉に、リアーヌは大きく肩を振るわせて動揺する。
バッと耳を抑えゼクスを睨むと、ニンマリと蠱惑的な笑みを浮かべた婚約者と目が合った。
「っ……――だ、騙されませんしっ‼︎」
「いやウソじゃないし、ウソだったとしてもそこは騙されてよ……俺たち婚約中ですよ?」
「そ、それはそうなんですけれども……」
モゴモゴと答えるリアーヌを見つめ、ゼクスは楽しそうにクスクスと笑いながら廊下を進んでいった。
◇
初めて授業をサボってやってきたカフェテラス。
なんだかいけないことをしている感覚に、リアーヌは到着した段階ですでに頬を紅潮させ、瞳を輝かせていた。
(――え? 私たち以外にも生徒がいる……? まさかこの人たちも授業を……⁉︎)
リアーヌはそんなことを考えながらきょときょとと視線を巡らせ、その手を引きながらその様子を全て見ていたゼクスは、笑いを噛み殺すようによによと唇を歪ませていた。
多少の生徒たちがいたカフェテラスだったが、幸いなことにバラが鑑賞できる席近くには誰も座っておらず、リアーヌはそれを「特等席ですね!」と称しながら、上機嫌でバラを堪能し、デザートに舌鼓を打つ。
(……そりゃ特別目立つ席だからねぇ……――心にやましいところがある人間は普通こんな席選ばないよ……)
ゼクスはそんなことを考えながらも、美味しそうにケーキを頬張るリアーヌの姿に心癒されていた――




