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(怒っていらっしゃる……――そうか、私はまた無知がゆえの罪を重ねている最中なんだね……?)
完全に注目を集めている中での助言など失笑の対象だと理解しつつも、ビアンカに助言しないという選択肢は存在していなかった。
ため息のような息を小さく漏らすと、リアーヌに向かい小声で囁く。
「――過去のことは?」
「……過去として⁇」
どことなく頭の中に引っかかっていたワードを口にするリアーヌ。
その言葉の続きとして、それが正解だったのか、ビアンカはホッとしたように大きく頷いてレジアンナに視線を移すが……その程度の短いヒントで全文を思い返せるわけもなかったリアーヌは、ギョッと目を剥きながらフルフルと小刻みに首を振った。
ビアンカは今度こそハッキリと眉間にシワを寄せながら、短く答える。
「――水に?」
「――えっ……?」
さらに短くなったビアンカからのヒントに、リアーヌは困惑の声を上げるが、ビアンカとしてもこの後に続く言葉をレジアンナの前で囁いても良いものなのか……? という疑問があった。
(えー……また水? 水に流せって言われたんだから、水に流しますって答えれば良い……⁇)
そう考えた瞬間、リアーヌの頭の中で記憶がつながり、ようやく正解の言葉を記憶の中から引き摺り出すことに成功したのだった。
「過去のことは過去として、全て水に流しますので、これから仲良くしてください!」
思い出した喜びからか、満面の笑みを作り人差し指を立てながら得意げになって――ビアンカに向かって言い放つリアーヌ。
「――私に言ってどうするのよ?」
「あ……」
そんなやりとりにゼクスが盛大に吹き出したが、すぐさま咳払いをしてごまかす。
フィリップはチロリ……とあまり感じのよろしくない視線を投げつけたが、口を開くつもりは無いようだった。
「――あのぅ……」
リアーヌは伺うようにレジアンナを見つめる。
「――……なにかしら?」
によによと笑いを堪えながら、平静を装って答えるレジアンナ。
これは、今目の前で起こったやりとりなど見てはいませんよ? という優しい気づかいにほかならなかった。
そのことに気がついたリアーヌはホッとしたように、ふにゃりと笑顔になり再び元気よく口を開く。
「過去のことは過去として、全て水に流しますので、これからも仲良くしてください!」
「ふふっ こちらからもよろしくお願い致しますわ?」
(――自分で言うのもなんだけど、この状況で文句も言わずに笑って済ませるとか……――レジアンナってば、実は良い人なんじゃない……?)
ニコニコと笑っているレジアンナに釣られ、ヘラヘラと笑顔を浮かべながら、リアーヌはそんなことを考えていた。
想定通り――とはいかなかったが、このやりとりで、レジアンナとリアーヌの間にある禍根は無くなったことになる。
フィリップ側の最大の目的を果たしたことにより、サロン内にはゆったりとした穏やかな空気が戻ってきたようだった。
各々が近くに座る友人たちと個別に雑談などを話し始め、そろそろお開きになるのだろうな……と言う空気が漂い始めた頃、同様に少々気を抜いたビアンカがリアーヌに向かってからかうように言った。
「――あなた、来年はクラスが違うんだから一人で頑張るのよ?」
「……ビアンカがイジワル言います」
ビアンカの言葉に顔中にシワを刻んだリアーヌはゼクスに向かって告げ口するように訴えた。
「……普通は一人でなんとかするもんなんだけどね……?」
「――そうだった……!」
冗談なのか本気なのか、リアーヌは目を大きく見開き、ゆっくりと口を両手で覆い隠しながら、どこか芝居がかった様子で答える。
「おバカ……」
そう言ったビアンカは、カップに手を伸ばしながら小さく首を振る。
「――本当に仲のよろしいこと……――羨ましいわ……」
ポツリと呟かれたレジアンナの言葉に、部屋の空気がまた緊張感をまとった感覚がした。
レジアンナが言うようにリアーヌとビアンカは多くの令嬢たちが羨むほどに仲が良かった。
口先だけで相手をやり込めたり、言葉尻を捕まえて相手を悪者に仕立てたりする戦いが主流のご令嬢たちにとって、一番に恐るべきことは失言であり、この二人のように思ったことをそのまま言い合えるような友人という存在は皆無だった。
そしてそれはレジアンナだけではなく、その身分が高ければ高いほどそんな友人が得難いものだということはその身を持って知っていた。
――レジアンナにも“友人”と呼べる存在はたくさん存在している。
しかし、それらはいわゆる“取り巻き”と呼ばれる者たちであり、レジアンナに疎まれてしまえば一瞬にしてミストラル家という後ろ盾を無くす彼女たちは、間違ってもレジアンナに気やすい態度などは取らない。
そして自分の地位を高めるため、その足場を固めるためにも“友人”同士でも、こういった気やすい会話を交わし合う者たちはいなかった。
レジアンナの人生においてそれが普通のことであったはずだったのだが――……
――このように目の前で楽しそうな会話や、やりとりを見せられてしまうと(自分にも……)と羨む気持ちが隠しきれなかった。
「レジアンナ……」
そんな気持ちを理解したのか、隣に座るフィリップは同情的な眼差しをレジアンナに向けてその背中に優しく触れた。
そしてリアーヌたちにとっては、爆弾発言とも言えることを口にしたのだ――




