手折られた花へ
惰性で画面をスクロールしていた手を止め、寝返りを打つ。
上部の時計を見るともう夜の九時だった。特に何もしていないのにSNSを見ているとあっという間に時間が過ぎてしまう。制服のままベッドに寝っ転がっているのでプリーツが崩れちゃうなあ、とは頭の片隅で思うものの、どうにもめんどうでこれ以上は動けない。
もう少しダラダラするつもりで寝返りを打つと、なんだか目に映る景色に違和感を感じた。
漫画が積み上がったぐちゃぐちゃの机も、いつものクリーム色の壁も見える。だがフィルター越しに見ているかのように視界が全体的にうっすらと青みがかって見える。
もしかして目がおかしい?二カ月前の視力検査では特に問題はなかったはずなのに。そう思い視線を上にあげると見知らぬ女と目が合った。
十二単というのだろうか、歴史の教科書で見た幾重にも重なった着物を身に纏い黒色の髪の毛はラプンツェルのように足元まで伸ばしていて、一言で言えば時代錯誤な服装をしている。その女はだらんと両手を下げ微動だにせずこちらを見ている。ただただ見ている。
この状況でアクションを起こそうとしない幽霊にキャパオーバーしそうになりつつ、大きすぎる混乱とわずかな興味から頭から足へと目を向けた。
その女には足が無かった。
頭から腰辺りまでは普通の人間のように確かにあるのに、足だけは輪郭がぼやけていてつま先の方なんかは煙のように渦巻いている。
幽霊だから当たり前か、いや幽霊自体当り前じゃないしこんなの初めて見るしセオリーなんて知らないし、
そんなどうでもいいことが一気に頭の中に出てくる。こんなことを考えていないと本当に気を保っていられなくなりそうだった。
「貴方、私を覚えていないのですか。」
目をまん丸くして幽霊は言った。
カラコンをつけているみたいな大きな瞳。普段なら羨ましいと思うところだが今ばかりは不気味さしか感じない。
真っ黒い、というよりどす黒いという言葉の方が似合う澱んだ瞳はあたしを見ているようで焦点が合っていないようにも見える。生きた人間にはない何かがある。
覚えているわけが無い。だって顔を合わせたのは今が初めてなんだから。
そう言いたいのに怖くてできない。体が石になったみたいだ。
「私は貴方を忘れたことなんて無いのに。」
腰が抜けて動けないあたしにすっと近づき右手をあたしの顔に添えながら言う。鼻と鼻がくっつきそうなほど寄ってきたせいでさっきの濁った目が一層近くにあって寒気がする。
頬に添えられた手は氷みたいに冷たくて血色なんてものはなく、生白い。
それまでは映画を見ているみたいな感覚でどこか現実味がなかったが頬を伝う冷たさに一気に「本当に自分の身に起きていることなんだ」という実感がわいてきた。
「や、やめて!」
咄嗟にその手を振りほどこうと暴れたが一向に相手にぶつかる感覚がない。あたしの腕は幽霊女の体を突っきったのだ。
空を切った腕に重心を取られてバランスを崩し情けなくベッドから床に転がり落ちるあたしを冷ややかな目で幽霊は見ていた。
「絶対に離れませんわ。私のことをすべて思い出すまでは。」
呪いのような言葉を吐きながら霧のように幽霊は消えてしまい、そうして部屋にはあたしだけが残された。
いつもの自分の部屋だけど妙に静かに思えて怖くて、そのまま起きている気にはなれず早めに寝ることにした。
寝付くまでの間の時間は今までで一番長かったように思える。
その日、夢を見た。
大きな部屋にあたしはいた。
木でできた壁、木でできた床、古風な木造建築の部屋だった。
とはいっても、全く知らない場所だった。
あたしの家は郊外のごく普通の一軒家だし祖父母の家も同様だ。こんな部屋には一度も入ったことが無い。
時代劇とかで見るようなその場所に驚ききょろきょろとあたりを見回していると自分の着ている服にも違和感を感じて手元を見る。
目に飛び込んできたのは寝巻にしているゴムの緩んだ中学のジャージではなかった。何枚もの布が重なってグラデーションを織りなしている、寝る前に見た幽霊と同じような仰々しい着物を着ていた。まるでタイムスリップしたかのような光景だった。
そしてもう一つ、目の前に先ほどの幽霊女が座っているのだ。よく見ると今は足があって血色も良く、まるで生きているみたいだ。
予想外すぎることの連続でぎょっとしたがあちらはさも当然であるかのように微笑みかけ何かを懸命に話している。
しかしまるでそこだけ音がなく、彼女の声だけが無音だった。遠くで囀るウグイスの声や誰かが庭の砂利を踏みしめる足音は聞こえるのに、顔を向かい合わせすぐそこで話しているはずの声だけは聞きこえないのだ。
それでも楽しそうだということは直観的に伝わってくる。時折あたしの反応を窺うように口をつぐみじっと上目遣いにこちらを見つめるので話の流れは分からないものの適当に頷くとまた嬉しそうに笑うのだ。妙に無垢な雰囲気のその表情が可愛らしい。
視線を彼女から外の方へ向ける。窓、というものはなく目の前にすぐ修学旅行で見たような古風な中庭が広がっている。天井近くに簾のようなものがみえるからあれで内と外を区切っているのだろう。今は遮るものが何もないので外から日光が差し込んでいて、光を浴びてその黒髪はキラキラと宝石のような輝きを放っていた。
ここで見る彼女は寝る前に見た時とずいぶん印象が違った。
ほんのりと赤い唇に桜色のふくふくとした頬。おまけにたくさん話して少し興奮しているのか鼻の頭と耳も赤く染まっている。
大人の女性と言うよりも、まだまだあどけなさの残る可愛らしい少女だった。
穏やかな時間だった。
不思議と不快感はなく、むしろこの時間がもっと続けばいいのにとさえ思った。
ぼんやりと庭の木を眺めるあたしに目の前のお姫様が色白な手を伸ばす。
そこで目が覚めた。
枕元に置いたスマホからは毎朝六時に設定している目覚まし音が聞こえる。アラームを止めて起き上がると水色のカーテンの裾から朝日がかすかに部屋に差し込んでいるのが見えた。
寝ぼけ眼をこすりながらカーテンを開けるとコンクリートの道路とどこまでも続く一軒家の海が広がり、部活の朝練に向かうであろう中学生たちのおはようの声や車の走る音が聞こえる。
優美なあの一室とは似ても似つかない自分の部屋だった。
全部夢だったのだろうか。
一度眠って充分休んでから考えると途端にばかばかしく思える。何が幽霊だ。この前までテスト期間中だったから疲れてたんだな。
そんなことよりも早く着替えなくちゃ。今日も学校なんだから。
握っていたカーテンを離し洗面所へ行くため振り返る。
「お目覚めですのね。」
「うわあっ!」
不意に耳元で声が聞こえ、思わず大声が出る。
真っ黒い髪の毛に十二単、輪郭が曖昧な足。昨日消えたはずの幽霊がそこにいた。相変わらず冷たいオーラを纏っていて夢の中でのような温かみは全くない。
「なんでいるの!出て行ったんじゃないの!?」
「言ったでしょう、すべて思い出してもらいますと。」
あたしの必死の問いかけにくすくすと笑い声をあげながら幽霊は答えた。
耳障りなその声に反抗するためキッと睨みつけると意外にも慌てた様子で弁解を始めた。
「貴方と険悪になりたいわけではありませんの。ただ私のことを思い出してほしいだけなのです。」
どうにもその態度からあたしを馬鹿にしているというかけんか腰な感じだと思っていたのだが、本人としては違うらしい。
もちろんそれが本心なのかあたしをごまかすための嘘なのかは分からない。というか普通に嘘だろう。幽霊という存在自体が疑わしいのに、その言動をどう信じろというのだろうか。
それでも相手のことが分からない現状だからこそ余計に話をこじらせることはせず素直に「分かった。」とだけ返しておくことにした。
その場しのぎにあたしの返答に幽霊は大げさに安心した素振りを見せ、ここからが本題とばかりに身を乗り出した。
「昨夜、何か思い出しましたか?」
その言葉に昨夜の夢が頭をよぎる。
この幽霊と私が二人で過ごしていたあの夢。きっと無関係ではないはずだ。
しかし果たして正直に話してしまっていいのだろうか。
あたしはこいつのことを全然知らない。この話をして喜ぶのか、それとも逆鱗に触れるのか、予想がつかない。
だがここでごまかしたところでこの幽霊女はいなくならないだろう。とにかくこの状況を動かすために軽くでも話しておくことにしよう。
念のため「思い出したとかじゃないんだけど、」と前置きをする。
「昨日、あたしが着物着てあんたと話してる夢を見たの。」
「そう、」
俯き気味に返事をする幽霊の顔をよく見ると頬を少し赤らめていた。昨夜見た彼女の手に血管なんて通っていなかったはずなんだからおかしくない?とも思うが口には出さなかった。
「きっとすぐ、ですね。」
そう言って笑うその顔に夢の中のお姫様の面影が一瞬見えた。
あの夢もたまたまではなく何か意味のあるものだったのだろうか。ついさっきまで早くどこか行ってくれないかなあと思っていたのにもう少しだけ一緒に話したい、そんな気持ちが芽生えた気がして惚けている私に向かって
「私は雪姫。貴方の記憶の手がかりになれば。」
一方的にそう名乗り、再び幽霊は消えてしまった。
しばらくの間、同じような夢を毎晩立て続けに見た。
雪姫と二人きりだったり他にあたしたちより少し簡易的な装飾の着物のお世話係さんたちがいたりと毎回細かな違いはあったものの、そのどれにおいてもあたしは着物を着て、雪姫と話したり何か遊んだり、とにかく楽しそうに交流していた。
雪姫がそばにいるのは夢の中だけではなかった。朝も昼も夜も、いつでもあたしの部屋にいた。
とはいっても何かやることがあるわけでもないみたいで窓から外は眺めたりあたしと喋ったり、そんな感じだった。
そんな日々を過ごすうちに、雪姫がいることが当たり前になっていった。
相変わらずなんであたしに付き纏ってるのか理由は分からないけど一緒に過ごす時間は思いのほか良いものだった。いい意味で気を張らないというか、自然体でいれた。
もしかしたらあたし達はずっと昔に親友だったのかも、ずっと続く夢みたいに。
そんなことすら考えてしまうほど、浮かれていた。
そんな日々を過ごす中で、いつも通り喋っていると雪姫が自身の出自やその生涯を話し始めた。
高貴な身分のお姫様だったこと、不慮の事故により若くして死んでしまったことをぽつりぽつりと話してくれた。
可哀想だな、と思った。お姫様という立場もそうだし普段の雪姫の立ち振る舞いや格好からしてきっと大切に大切に育てられてきただろうに、事故死なんて。
しかしそれと同時にそうだろうな、とも思った。
幽霊として化けて出てくるくらいだからこの世に未練があるんだろうし、そんな不幸な最期を迎えたのなら納得だ。
「それは…大変だったね。」
いろいろなことを考えていたが結局ありきたりな言葉しか言えなかった。咄嗟の場面で気の利いたことを言えるほど、賢いわけでも思いやりがあるわけでもない。
こんなことなら黙ってた方がマシだったかも、と若干の自己嫌悪に陥ったが当の雪姫は
「お優しい方。」
と言って笑った。
それが本心なのか皮肉なのか、あたしは分からなかった。
その夜も同じように雪姫が隣にいる夢を見た。
縁側のような場所にいて、庭には咲いた梅が見える。二人並んで花見をしているのだろう。頭上の太陽が燦々と輝き着物を着ていると少し暑いくらいだった。
遠くの方から子供たちがはしゃぐ声が聞こえてくるがここから見える範囲には誰もおらず、二人きりだった。
「梅、綺麗だね。」
あたしの言葉に同意するように雪姫は小さく頷いた。
そのまましばらくはいつも通り彼女がいろいろなことを話していたが、ふと口を閉じた。
直前までの動き的にも話がひと段落ついて休憩、というわけではなく突然黙り込んだような感じだった。何かあったのだろうか。体調が悪いのかも?不安になり雪姫の様子を伺うが特に顔色も悪くない。
そのまま見守っていると雪姫は遠慮がちに辺りを見渡し、ためらうような、恥じらうような素振りを見せ
そっと、私の頬にキスをした。
柔らかくて、ほんのりと暖かい。
一瞬の出来事だった。
驚いて動けずにいるあたしに対して顔を離した雪姫は元々ピンク色の頬が更に濃くなり、頬も耳も鼻も、りんごみたいに真っ赤になっている。こんなに恥ずかしがりながらも彼女はこちらの袖を遠慮がちにつかみ、肩にもたれかかった。
何重にも重ねた着物の壁を越えゆっくりと伝わる雪姫の体温を感じる。
暖かな日差しと穏やかな空気に包まれ、ずっと二人でこうして寄り添っていたいと思う。
文字通り夢見心地で幸福感に浸っていると突然後ろの襖が開けられ、奥から誰かがやってきた。
それはあたしよりずっと年上の大柄な男だった。頭には黒い帽子のようなものを被っていて、顔はヒキガエルみたいに鼻がつぶれている。元々着物というのはゆったりとしたシルエットをしているものだがそれにしてもでっぷりとしていることが見て取れる。
典型的な嫌味な成金のような見た目だ。
男の後ろには使用人であろう男女が何人か控えていて皆頭を深々と下げている。
「雪姫。」
同じように頭を下げるこの子を指さしながら男は言う。
名前を呼ばれた彼女は何も言わずにはゆっくりと立ち上がり、男の方へ歩いていった。
ねえ、待って。
そう言いたいのに声が出ない。
あたしが固まっているともう雪姫は男の横にいた。幼い顔立ちの彼女が並ぶと親子みたいだ。
こちらに背を向け俯いているせいで顔は見えないがその右手がかすかに震えいるように見えた。
そんな彼女をじっとりと満足げに眺めてから男は来た道を戻るように歩き始めた。雪姫も黙ってそれに続く。
一度もこちらを振り返りはせず、すぐにあたしを取り残して襖は閉じられてしまった。
あたしは何も出来なかった。
目が覚めるといつも通りの部屋。それでもこの日だけはまだ頬に熱が残っているような気がした。
もし、もしもあの夢がなにか意味のあるものだとしたら雪姫があたしにくっついている理由に繋がるのかもしれない。
そうだ、雪姫の目的をあたしは全く知らない。
今の今まで気にしていなかったが、よくよく考えると向こうはあたしのことを知っているみたいなのにこっちは何も知らないなんて不公平じゃないか。なんとか情報を得ることは出来ないだろうか。
そう思い立ち、ひとまず雪姫がいない学校で調べることにした。
もし、万が一雪姫について探っていることが本人にバレて逆上されたらと思うと怖かったから。
図書室に行き幽霊に関係ありそうな本を手あたり次第いろいろ読んでみたが、「生きた人間に付きまとう幽霊」というと幽霊はその人間に何かしらの恨みがあって、呪いをかけたりとか虎視眈々と復讐の機会を狙っているとかそういう話が多い。
反対に人間に対して好意的な感情を持って付きまとっているという話はほとんどなかった。
もし仮に雪姫が復讐のために死んでからも成仏できずに幽霊になっていて、しかもその復讐相手があたしだとしたら、どうすればよいのだろう。
謝れば許してもらえる?雪姫があたしに思い出してほしいと言っているのはその復讐に関係があることなのか?
でももし本当にあたしを殺したいなら今までもチャンスはいくらでもあったはず。
それこそ最初の夜なんか雪姫の存在すら知らなかったんだからピッタリじゃん。それでもあたしはまだ生きていて、なんならその幽霊と友達みたいに毎日過ごしている。
夢の中だっていつも一緒だしこの前なんか頬にキスだってしていた。これで本当にあたしのことを恨んでいるなんて、あり得る?
分からなくなってきた。
でもここで匙を投げては何も解決しない。
それにこれも雪姫の求める「思い出す」に必要な過程かもしれない。そうなると単にあたしが知りたいというだけにとどまらず、彼女が成仏出来るかとかにも関わってくることになるのではないだろうか。
一度、ちゃんと本人に聞いてみた方がいいのかもしれない。
そう思うと途端に気になってくる。今すぐにでも雪姫に聞きたい、と気分が盛り上がってきた。
いつかじゃない、今日聞いてみよう!
自分だけじゃなく雪姫のため、という大義名分を得たあたしは静かな図書室で一人密かに決意をしたのである。
その後はいつも通り授業を受けていたけどとにかくそわそわしてしょうがなかった。早く家に帰りたい、早く雪姫に聞きたい。とにかくその一心で時計を見つめて今日を過ごしていた。
「もしかしてあたしに何か恨みでもあるの?」
学校から帰ってきて早速聞いてみた。
あれほどまでにこの質問の答えを早く知りたい、と思って帰ってきたけどいざその時になるとそれなりに、いや大分勇気を出した。
冷静になるともしかしたらこの問いがトリガーになって雪姫がこちらを殺そうとするかもしれないとか考えて、なんとなく怖かったからだ。
部屋の天井辺りをゆらゆら浮遊している雪姫を見上げると一瞬眉をピクリと動かしたが大きく表情を変化させることはなく、
「恨みを買うようなことをなさるのですか?」
と肯定でも否定でもない返答だけした。なんてことない、自然な口調だった。その顔はうっすらと微笑んでいるようにも、こちらを睨みつけているようにも見える。
あたしは人の気持ちを言動から推測する、ということが少し苦手だった。
明らかに笑顔だったら楽しいんだなとか泣いていたら悲しいんだなとかその位は分かるが、小さな変化、所謂機微にはなかなか気づくことが出来ない。
それでもなんだが雪姫は不機嫌そうに見えた。
この日はそれ以降何を聞いても曖昧な反応しかしなかった。
それ以上追求することもできず、かといってじっとしているのも変なので特段見たくもないSNSを眺めていたらあっという間に夜になった。
寝る前、もう一度だけ話しかけようとスマホから目を動かしたがいつの間にか姿を消してしまっていた。
「雪姫。」
と宙に向かって呼びかけてもなんの返答もない。
諦めて寝るしか無かった。
この日はいつもの大きなお屋敷ではない、大きな池か湖に浮かべられた舟にあたしと雪姫が二人で向かい合って乗っていた。
目の前には雪姫がいて、その後ろの方には竹林のようなものが見える。
どこを向いてもあたしたち二人以外、誰もいなかった。
夕暮れが反射して水は紅く染まっている。
相変わらず何を話しているのかは分からないのだが、明らかに空気が重い。今まではあんなに一緒に過ごしていたのにどちらも口を開かずに黙っている。
ただただ川の流れに合わせゆっくりと動く舟にゆられている。
何故あたしたちはここにいるのだろうか。前後のつながりが分からない。
でも無性にイライラする。腸が煮えくり返るとはこういうことだろうか。
この苛立ちの原因はすぐわかった。目の前で俯きがちに座る世間知らずのお姫様だ。それがなぜかは分からないけどとにかくあたしは雪姫に強い怒りを抱いているのだ。
こちらの機嫌を窺うような上目遣いの顔。それがたまらなく憎らしい。
感情が高ぶる。頭に血が上っているのを感じる。
耐えきれなくなり勢いに任せ立ち上がる。バランスを崩した舟はグラグラと左右に揺れ、雪姫は堪らず縁にしがみつくがあたしは意に介さずという態度でそんな彼女を見下ろしていた。
激情に全身を支配されたまま雪姫の方へ一歩近づくき、震えている頼りなげな両肩を掴む。
そのまま力任せに前に体重をかけて、雪姫は
あたしは、一体今なにを、
「美命様!」
自分の名前が呼ばれるのが聞こえ、一気に意識が覚醒する。
気付かないうちに息が上がっていてハアハアと荒い息を繰り返していた。汗もひどい。Tシャツが肌に引っ付いて気持ち悪い。
目は覚めたもののぐわんぐわんと脳が揺れる感覚がして上手く動けない。
ぼやけた視界のまま何度か瞬きをするとクリーム色の壁が見えてきた。ここは舟の上ではない、自分の部屋の天井だった。
部屋は暗い。
まだ朝は来ていないようだ。
なんとか左に顔を向けると雪姫がいた。いつの間に戻ってきていたんだろう。ぼんやりとしたあたしの考えとは正反対に、眉を下げ労わるような眼をこちらに向けている。
「お加減が優れませんか?お可哀そうに…。」
雪姫があたしのおでこに手を合わせる。あの夜あんなに気味が悪かった彼女の手の温度も今ばかりは心地いい。
何より、真っ先に心配してくれた、その優しさがあたしを落ち着かせてくれた。
でもさすがに汗の浮かぶ額を仮にもお姫様に触らせるのは忍びない。
「ありがとう。でもあたし汗かいてるから…。」
そう断りながら手をどけるように右手を重ねる。当然だが触れることはできず、結局自分の額に自分の手を重ねているだけだけど。
「構いません。そんなこと。」
思いがけず優しい言葉に嬉しくなり顔を上げると雪姫と目が合う。
不意にぽろ、と黒曜石みたいな彼女の目から大粒の涙が零れ落ちた。
ぎょっとする間もなく幽霊の涙は床に落ちる前に蒸発したみたいに消えてしまった。
「な、なんで泣いてるの。」
次々とこぼれては消え、こぼれては消えを繰り返す涙にうろたえながら尋ねるがしゃくりあげるだけで何も答えない。
あたしはその涙をふくこともできない。
「だって…、貴方、酷くうなされていたから…。」
今までとは違い感情を乱し涙を流すその姿は夢の中のあの子と重なって見えて、今の今まで気づかなかった一つの事実を思い出させた。
こちらを怯えた様子で見上げる雪姫のお腹は大きくなっていたのだ。
あの夢を見てから気分が落ち込む日々が続いた。
あの後、肩を掴んだ後に一体何をしたのか嫌でも考えてしまう。本当は目覚めた直後に分かっていたのだろうが脳がそれを理解することを拒否している。
なにより雪姫とどう接すればいいのか分からなくなってきた。彼女の顔を見るとどうしても夢が、自分のしたであろうことが脳を埋め尽くしてしまいつい会話を早めに切り上げたり別のことに集中しているようなふりをして関わるのを避けようとしてしまっていた。
そうして今まで仲良くやっていた彼女との関係はギクシャクしてしまい、それがまたストレスになるという負の連鎖に勝手に陥ってしまっていた。
まずは自分のモヤモヤを何とか解消しようと思ったのだが、「幽霊と上手く付き合っていく方法」とか「夢の中の自分の行動を何とかするには」なんて誰かに話せる訳が無い。言ったところで「何言ってんの?」で終わりだろう。
だから解決策を見つける、というよりひとまずの気晴らしにでも散歩に出てみることにした。
元々歩くのは好きでテスト明けとか部活が休みの日みたいな特にやることが無い日には当てもなく数時間ほど歩き回ることもあったが、雪姫は来てからは家にいるばかりでこうして一人でゆっくり歩くなんてしていなかった。
行きたい場所があるわけでもないのでひとまず今までもよく使っていた散歩コースを歩く。
大きめの公園があってそこが好きだった。桜をはじめとしていろんな木が植えられていてここら辺の、特にお年寄りにはそこそこ人気だった。
木の前には小さな看板が立てられていてその木の名前や特徴が短めに記されている。あたしはこういうのを読むのも好きだ。本を読むのとはまた違う、子どもの頃と同じ好奇心が満たされる感覚がするからだ。
本当はもう何度も読んだことがあるのだがつい目で文字を追ってしまう。
そうやって看板を見ては少し歩き、また看板を見つけて読んで、と繰り返しながら歩いていると今までのものとは違い、両手を広げたくらいの大きめの看板が立っていた。
近くに木はない。
木ではなく、この街の歴史が書かれていた。所々塗装が剥がれ木目が見えているし全体的に色あせているからずっと前からここにあるのだろう。しかしこの道も何度も通っているはずだが、こんな看板は見たことがない。
今まで気にも留めなかっただろうに今は妙に興味を惹かれるのは雪姫のいた時代を知りたいと思っているからだろうか。
この周辺は元々は大きな一つの湖だったらしい。それが昭和に入ってから土地開発のため埋め立てられ、今のような街が出来たと書いてあった。
ただこの湖というのが非常に大きく、そして推進も深かったために古くから水難事故が多発しており、実際に各所に記録も残っているらしい。
この湖は昭和中期に埋め立てられるまで死亡事故が相次いだ。
そんな記述がされおり、看板の左側、全体の六分の一ほどのスペースを使って現在の地図の上にかつての湖を重ねた図がある。おおまかなものなので正確な位置ではないもののあたしの家の位置もだいたい分かった。
湖の端の方、岸辺からほど近い場所だった。
そんな文章を読んでいてふと、雪姫の死因が思い出される。
事故で死んでしまったと言っていたがどんな事故だったんだろう。あの時代に車なんてないわけだから交通事故ではないはずだし。
いや、馬とか牛車にぶつかったらあり得るかもしれないけど。
それとも火事とか?
家が木で出来てるんだから有り得る。もしくは転んで頭をぶつけたとか。馬から落ちたとか。
それか、水に溺れたとか。
人の死の場面を想像しているのだから恐ろしいのは当然、なによりさっきまでは何ともなかったのにここだけは触れてはいけないと頭が言っている。
「昭和中期に埋め立てられるまで死亡事故が相次いだ」
先ほどの看板の文言が頭をよぎる。
そもそも彼女がこのあたりの人かすら分からないのだから何の根拠もない、単なる想像に過ぎないことだ。
それでもなんだか心がザワついて、それ以上は読むことなく足早に家に帰った。
「貴方、何か隠しているでしょう。」
帰宅後、雪姫がそう尋ねてきた。
「思い出して」と言ってくることは今まで何度もあったが隠している、という表現は初めてだった。
隠してるって、今日の散歩のこと?
でも特に言わなきゃいけないことはないはず。
それともあの夜の悪夢、だろうか。
今の自分の行動ももちろんそうだし、なによりうなされていたあたしを雪姫が起こし、世話を焼いてくれた。その時の様子はどう考えても異様で「何かがあった」というのは彼女にも伝わっているのだろう。
しかしなんて言う?
だってあの時、あたしは雪姫を、
言えるわけが無い。ただの夢のはずなのにあたしはどこか後ろめたさを感じていたのだ。
嫌われたくない、とも少し違う。それよりももっと利己的な感情。
悪い人なりたくない。
ただそれだけの気持ちだった。例えそれが夢であっても口に出してしまったら、認めてしまったらあたしは悪者になってしまう。
「ううん、何も。」
だからそう返した。別にあからさまに表情に出ていたりはしていなかったはずだ。
答えを聞いた雪姫は前に「あたしを恨んでいるの?」と聞いた時と同じような曖昧な笑みを浮かべ、
「そうですか。」
とだけ言ってそれ以上追求してくることはなかった。
けれどその後、何も告げずいつの間にかどこかへ姿を消してしまい夜になっても戻ってくることはなかった。
雪姫がいない、三度目の夜だった。
また夢を見た。
あたしは一人だった。いつもの夢みたいに着物も着ていない、通っている高校のブレザーだった。
場所もおかしかった。いつもいた古風な建物ではない、竹林の中だった
あたりは竹が生い茂って太陽の光が入ってこず、鬱蒼としている。小道、と言っても舗装されているものではなく、どちらかと言うとけもの道に近い代物が一本、足元から竹林の奥に続いていた。
辺りを見渡しても誰もいないのだが、どこからか赤ちゃんの泣き声が聞こえる。
そこに行かなければならない。何故かはわからないが強くそう感じてここがどこかも分からないのに声に向かって歩きだした。
それからしばらく歩き続けた。どのくらい時間が経ったのかは分からない。もうすでに数時間近く歩いたのかもしれない、もしかしたらまだ十分も経っていないのかもしれない。
ずっと竹に囲まれて景色が変わらないせいか時間の感覚が曖昧だ。そもそも夢の中で時間の経過を気にすること自体がおかしいのかもしれないが、しかし歩みを進めるにつれ足が重くなってくる。一歩歩くたびにゼエゼエと息が上がり、足はまるで鉛のブーツを履いているかのように重かった。
それでもあたしは歩き続けた。
目に見えない何かに導かれるかのように歩き続けていると突然代り映えのしなかった竹林から急に目の前が開けた。
ようやく空が見えた。絵の具で塗りたくったような紺色の空に三日月だけが居心地悪そうにぽつんと佇み弱弱しく光を放っている。
そうか、今は夜だったのか。
ずっと竹に囲まれた道を歩いていたから気づかなかった。
視線を空から前方へ移動させると広大な湖があった。
向こう岸が見えにくいほど大きく、いびつな円形をしているようだ。
するりと髪を撫でる程度の生ぬるい風が吹いており、水面が柔らかに凪いでいる。辺り一帯暗いのでこの湖がどのくらいの深さなのかとか、水の濁り具合だとかは全く分からない。ただ、月光が波に反射してグリッターみたいだ、と見ず知らずの場所に一人でいるという状況でのんきにそう思った。
声は竹林にいる時よりも一層大きくなっていてよく耳を傾けると湖の方から聞こえているようだ。
迷わず声の方へ近づく。終わりの見えない道を進むよりずっとずっと簡単なことだった。
岸辺まで行くがまだ声の主は若干遠くにいる。
声は湖の中から聞こえているのだ。
どうしてそこに、溺れているのか、本当にここなのか、分からないことだらけだがここまで来たのだから正体を確かめたい。あたしはそこに佇み、湖を眺めていた。
ごぽ。
数分経って突然足元に小さな泡が一つ、浮かんできた。
ぎょっとしてそちらに視線を向けるが何もいない。しかしごぽごぽと音をたてながら泡は次第に増えていく。まるでそこで誰か呼吸しているかのように。
それと同時に底の方から何かがゆっくりと浮かんできたが黒い靄のようなものが周りを包んでいるので一体それが何なのかはよく見えない。
岸辺から浅瀬に足を踏み入れ、物体に近づく。
まとわりつくような冷たさが足先を包むがその不快感以上にこの正体を確かめたいという欲求が勝る。
早く見たいというそわそわした気持ちと知らない場所で、得体のしれないものを目にしようとしているという不安が入り混じって頭がパンクしそうだ。心臓のドクドクという音が耳元でなり続けていた。
真っ直ぐ何歩か進むと泡に囲まれた影がどんどん大きく、色濃く見えてきた。
一体なんなんだろう、これは。
前かがみになり覗き込むとようやくその全貌を見ることが出来た。
赤ちゃんだった。
白い布に丁寧に包まれた幼子が水の底から浮かんできたのだ。
その子は水中から出てきたというのに溺れるような素振りは全くなく、大きく口を開けて、ずっとずっと泣いている。
いや、口を開けてなんかいない。
だってこの子には口がない。
口だけじゃない。目も鼻も、顔がない。のっぺらぼうなのだ。
顔のない赤ちゃんが、絶えず泣き続けているのである。
数秒遅れてその事実を認識した瞬間、ひ、と悲鳴になり損ねた音が喉の奥で鳴った。怖い。思わず後ずさりをするが赤ん坊から目が離せない。私はこの子を知っている。はず。そんな気がする。
逃げなくては。でも何処へ行く?分からない。それでもここにいてはいけないということは少なくともわかる。
しかし動けない。
いよいよ足は重く成り果てそこに根差しているとすら錯覚した。
目の前の赤ちゃんは泣き続けている。
私はこの子を知っている。この子も私を知っている。
私がここに来たのは偶然じゃない。全てこの子ともう一人によって導かれていた。
「思い出しましたね。」
背後から聞きなれた雪姫の声がした。
直後、右の頬にヒヤリとした感触。
手だった。
それも半透明ではない、実体のある人間の手。ただ血の通った人間にあるはずの体温が感じられず、氷のように冷たい。目線を動かして後ろを見ると手のふちや身に着けている着物からぽたぽたと水滴が落ちている。
まるで今さっきこの湖から上がってきたかのようだ。
どうしてそんなにびしょぬれなの。
そう問いかける前に私の後ろのほうを見やりながら幽霊、いや、人間の雪姫は言う。
「貴方が私と、可哀そうなその子にいったい何をしたのか。」
彼女につられて後ろを振り向くがそこにいたはずの赤ん坊は消えていた。泣き声もいつの間にか聞こえなくなっている。
唖然としていると突然ぐるっと視界が回り、一拍おいて後頭部と背中に強い痛みが走った。
押し倒されたんだ、と少し経ってから気づく。恐らくその拍子に頭を地面にたたきつけられたんだろう、視界が揺れる。
あたしの上に馬乗りになりその冷たい手であたしの首を掴み、きつく絞めた。
ぐっと首に燃えるような痛みと息苦しさを覚える。先ほどの頭部へのダメージと相まって既に意識が朦朧としてきた。
苦痛から逃れたい一心で手をどけようとするが力が入らない。打つ手がない。
もう諦めてしまったら楽になれるだろうか。
そんなことが頭をよぎる。
それでも、言わなければいけないことがあるんだ。
閉じかけていた目を開け、雪姫を見つめる。こちらに覆い被さる姿勢のおかげで顔が近く、目を合わせるの容易かった。
なんて美しい瞳だろう。
真っ黒で光がなくて、まるで深淵を覗いているかのような気分になる。深い絶望と憎しみを抱えた色。
その全ての感情を私に向けている。そう思うと胸の奥に閉じ込められていた欲望が蠢きたつ。
これが愛なのか、それともただの独占欲なのか、はたまた別物なのか。
自分のことなのに曖昧だ。
「私、本当に貴女が好きだった。」
充分な空気を取り込めずうまく聞き取れるような音になっていなかったかもしれない。かすかすとした空気の音だけが出ていたのかもしれない。
それでもこの時、雪姫の手が止まった。
「嘘ばっかり…。」
こちらを睨みつけ忌々しそうに言いながらも手が緩み始めている。
圧迫されていた喉が解放され一気に空気を取り込む。待ち望んでいた酸素によって徐々に脳が再稼働し、考えを整理出来た。
私は誰なのか、雪姫とどんな関係だったのか、
私が雪姫に何をしたのか。
やっと思い出せた。
あの大きな木造の部屋も並んで眺めていた中庭の梅も、度々お世話をしてくれていた女房たちも全て私たちの思い出だった。
可愛い私の雪姫。大事に大事に育てられた世間知らずの箱入り娘。
「貴女も大変よね。旦那様の一等お気に入りだったもの。私、嫌いだわあの男。下品で横暴で、すぐ酔う癖にお酒好きで。宴会の度に暴れていた。可哀そうな貴女。よく宴会に呼ばれて傷を作っていたものね。」
雪姫は黙って聞いている。長い長い髪は絡めとるように私を包み込み、普段は隠れていた彼女の顔が良く見えた。
「でも額の傷は治ったみたい。よかったわ。」
おでこに触ろうと手を伸ばすと雪姫は反射的にビクリと全身を震わせたが拒絶を示しはしなかった。
きめ細やかな額は恐ろしく冷たく、触れた瞬間に私の体温は奪われいったので指先には生ぬるい温度を感じる。
「なんで…今さらそんなこと…。」
雪姫はぽろぽろと涙を流し始めた。あの夜と同じ、大粒の雫が次々とこぼれ落ちていく。唯一違うのはその涙が途中で消えたりせず地面に着地していたことだ。
「思い出してって貴女が言ったんでしょう。」
いつかの彼女のようにクスクス笑ってやろうと思ったが流石にそこまでの体力は残っておらず、かえってせき込みかけてしまった。そんな私を雪姫はにこりともせずに泣きながら見下ろしていた。
「あんな奴なんかよりずっとずっと私の方が貴女のこと好きだわ。だから誰のものにもならないで。好きなの、愛してる。」
私は抵抗をやめた。
雪姫の腕をつかんでいた手を離し、ぬかるんだ地面に力なく落とす。
「いいわ。貴女になら。」
運命を決めるのは愛した人がいい。
私なりの最大級の愛情表現のつもりだったのだが、雪姫の顔は苦痛に歪んでいた。
それでも再び手に力を込め、私の首を絞める。
痛い、苦しい。
でもきっと私が殺した雪姫はもっと苦しんでいたのだろう。
だから受け入れなくてはいけない。私が犯した罪に対する贖罪として。
「きらい、きらいです。あなたなんて。」
呪詛めいた言葉を口にしながら私の首に全体重をかけてくる。
嫌いという割に雪姫の涙は止まらず、ぽつぽつと私の顔に零れ落ちてくる。
先ほどの私の一言二言で自分が受けた仕打ちを忘れここまで心を砕いてしまうんだからどうしようもなく甘い。それでもそんなところが好きだったんだ、私は。
ようやく思い出せたというのに一時的に自由になったとはいえ先程のダメージは蓄積されていたのか徐々に視界は暗くなり、頭の中がボーっとしてあれほど逃れたかった息苦しさがかえって気にならなくなってきた。
もうすぐ私は死ぬ。
不思議と怖くはなかった。今度は愛する人に置いて行かれる側ではないからだろうか。
最後にさよならを言おうと残った力を振り絞り閉じかけていた目を開けると雪姫はゆっくりと私の顔に近づき、キスをした。
優しい、穏やかな一瞬。
あの時と同じように唇は柔らかく、氷のように冷たかった。