09.私より醜悪な者に言われても傷つかないわ
人形遣いが無言で教会の重たい扉を押すと、ギイィと嫌な音が響き、薄暗い教会内に微かな光が差し込んだ。
長椅子には村人たちが一様に腰掛けていた。彼らの姿は奇妙なほど静かで、まるで時間が止まっているかのようだった。誰一人として身じろぎせず、呼吸の気配さえも感じられない。その全ての視線は祭壇に向けられている。
祭壇の前に立つのはウェルズ神父だった。濃密な沈黙の中で、彼だけが動き、静かに顔を上げた。説教を終えたばかりなのだろうか。彼の表情にはいつものような穏やかな微笑みが浮かんでいる。けれど、その笑みにはどこか違和感があった。
「お帰りなさい、シスター・マリアベル。どちらに行かれていたのですか?」
その笑顔を見て、マリアベルは一瞬違和感を覚えた。
優しく穏やかであるはずのその顔は、どこか乾いた土のようにひび割れ、血色が失われている。昨日まで若々しかった肌が、今では不気味なまでに色を失い、生命感が欠けていた。
「おや、そちらの方は旅の剣士様ですかな? 猫を連れた剣士様とは珍しい」
ウェルズ神父は軽い調子で人形遣いに声をかける。だが、人形遣いは言葉を返さず、静かにトランクを足元に置く。その上にロゼがひょいと跳び乗り、くるりと体を丸めた。
「それにしてもちょうどよかった。これから皆さんに滋養強壮の薬を配るところでした。あなたもおひとつどうです? 旅の疲れが癒されますよ?」
「黙れ」
低く怒鳴るような一言が、教会の空気を凍らせた。
人形遣いの目が祭壇を捉えたまま動かない。
「祭壇にあるのは、魔導書だな?」
「グリモア……?」
ウェルズ神父は首をかしげ、あくまで穏やかな声で応じる。
「はて? これは我がアーリア教の経典ですが?」
『瘴気を垂れ流すそれが経典? 本当に呆れるわね……』
ロゼは欠伸をしながら、つまらなさそうに呟いた。
ウェルズ神父の顔に初めて驚きの色が浮かぶ。ロゼが人語を話したことに気づいたのだ。
「おやおや、そちらの猫は魔性の類ですか? 教会に入り込むとは嘆かわしい……」
『おあいにく様。私より醜悪な者に言われても傷つかないわ』
ロゼは冷たく言い放つ。
「醜悪? 私が、ですか?」
『ええ、魂を解放しないなんて醜悪よ。そして魂を喰らう者。醜悪なのはあなた』
「魂を喰らう……私が?」
ウェルズ神父は目を細めた——が、次の瞬間、口元が歪み、肩を震わせて笑い始めた。
「ふはっ……くくく……あはははっ!」
笑い声が教会の静寂を破る。
「なにをおっしゃるかと思えば、私が悪魔ですって? 魔性はそちらではないですか? シスター・マリアベル、あなたはどちらを信じますか? 私か、その忌々しい黒猫か?」
嘲るような笑いが教会に響く中、長椅子に座る人々は微動だにしない。
マリアベルは静かに目を閉じた。
(知っておりました……この村はおかしい。そして、この村をおかしくしたのはウェルズ神父なのかもしれないと……)
彼女の心の中に浮かぶ真実。
目を逸らしていたい。それでも向き合わなければならない。
マリアベルはゆっくりと目を開けた。
「わたくしは——この方々を信じます!」
その声に、ウェルズ神父の笑顔が微かに陰った。
「そうですか……哀れな迷い子、シスター・マリアベル。魔性にたぶらかされて己を見失った娼婦よ。それでは、アーリア教の教えに従い、あなたを破門するといたしましょう」
「くだらぬ」
人形遣いが短く一蹴した、その瞬間だった。
「さあ、邪なるものは教会から出て行きなさい……——え?」
ウェルズ神父の足元に、ぼとり、ぼとり、と何かが転がった。
それは——腕だった。
ウェルズ神父の両腕が地面に転がり落ちたのだ。
マリアベルの耳に、ちんと金具の音が届いたとき、彼女は人形遣いがなにをしたのか理解した。
斬ったのだ。
そして彼は、いつのまにかウェルズ神父の背後にいた。
「オ、オオオ、オオオオオデの腕ぇえええーーーッ!」
ウェルズ神父の断末魔のような叫びが教会中に響き渡る。
その声は次第に人間のものではなくなり、獣のうなり声のような響きを帯びていった。
『シスター、あれが奴の正体よ』
「正体……?」
『悪魔。そしてその力の源は——祭壇の上にあるグリモア』
ロゼの冷静な声が響いた瞬間、マリアベルの背筋にぞっとするほどの寒気が走った。
戦慄に目を奪われながら、彼女の視線は正面のウェルズ神父に釘づけになる。
その両腕が、不気味な音を立てながら膨れ上がっていく。まるで皮膚の下をなにかが這い回っているように筋肉が蠢き、膨張する腕の輪郭が裂けそうなほどに膨れ上がる。
——と。
突然、皮膚が裂けた。赤黒い血と肉片を撒き散らしながら、そこから新たな腕が生え出す。それは獣のように太く毛深く、表面には赤い血管が蜘蛛の巣のように浮かび上がっていた。手先には鋭い爪が生え、異様に長く伸びたその爪が光を反射してギラリと不気味な輝きを放っている。
指先が痙攣するたびに、地面に向けて血の滴が落ちる。
それは普通の血ではなかった。粘り気のある黒い液体がぽたぽたと床を汚し、触れた部分がじゅっと音を立てて焦げるように溶けていく。
「っ……!」
マリアベルは声も出せず、後退る。
目の前の光景は現実のものとは思えなかった。だが、その異形の腕はたしかにそこにあり、揺れる燭光に照らし出されている。
ウェルズ神父の口元が引きつり、笑みとも苦痛ともつかない表情を浮かべながら、頭を揺らしている。その動きに合わせて、ひび割れた皮膚からは血が滲み、割れた口元からは獣のような歯が覗いていた。
「これが……悪魔……」
思わず口をついたその言葉すら、霧のように空気に溶けて消えていくように感じられた。
マリアベルは、目の前に立つ存在がもうかつてのウェルズ神父ではないことを、痛いほど理解していた。
「殺ス! 殺ス! 殺スーーーッ! オマエラミンナ殺スカラナ!」
ウェルズ神父が叫ぶと同時に、長椅子に座っていた村人たちがよろよろと立ち上がる。
その姿を見た瞬間、マリアベルは再びぞっとした。
腐り落ちた肉、光のない目、うめく声、漂う腐敗臭——それらは生きていない。まるで死体そのものが糸で操られる人形のように動いている。
そして、その中には、彼女がよく知る村人たちの顔があった。
「ウェルズ神父に……あの悪魔に操られているのですか!」
『鬼劫術。死体を傀儡にする最低の術よ。……つまり、彼らはすでに死体なの』
ロゼの声が淡々と響く中、マリアベルの涙が頬を伝った。彼女は地面に崩れ落ち、震える声で呟いた。
「わたくしは……なんという失態を……」
『とりあえず泣くのはあと。これからが本番なんだから。さあ、あなたは私の後ろに隠れていなさい』
ロゼが冷静に言い放ち、気怠そうに立ち上がる。
マリアベルが顔を上げると、無数の死体が人形遣いへ飛びかかろうとしていた。