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黒猫と人形遣いの禁呪録  作者: 白井ムク
第一章 マリアベル
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08.人はね、見たくないものには目を向けないものよ

 霧の中、視界は白く閉ざされ、目に映るのは目の前を歩く人形遣いの背中だけだった。周囲の景色は何も見えず、ただ霧に飲み込まれている。


 村の中にいるはずなのに、どこか違う場所を歩いているような感覚に囚われ、マリアベルの胸には言い知れぬ動揺が広がっていた。


「……周りが見えませんね」


 思わず、マリアベルは誰ともなく呟く。


「そうだな」


 珍しく人形遣いが短く応じた。その冷ややかな声にマリアベルは言葉を詰まらせる。だが、どうしても気になって再び問いかけた。


「どちらに向かわれているのですか?」

「教会だ」


 人形遣いは淡々と答える。その背中を追いながら、マリアベルの目はぼんやりと周囲を見回した。


 静寂に包まれた村。聞こえてくるのは、自分たちの足音と、時折踏みしめる草の乾いた音だけだ。人の姿も、家畜の気配もない。冬枯れの草が道に覆いかぶさるように生い茂り、踏むたびにぱきぱきと音を立てる。それが、閑散とした村に妙に寂しく響き渡った。


(……ここは、本当に、私の愛したマーレ村なのでしょうか?)


 思い出の中の村とはまるで違うその光景に、マリアベルは切ない気持ちになった。

 懐かしい——けれど、それに寄り添うように湧き上がる寂しさと悲しみが、マリアベルの胸を締めつける。

 それは単なる郷愁では片づけられない、もっと深く、もっと重たい感情だった。


(……どうして、こんなにも……)


 家々の形も、道の配置も変わらないはずなのに、それらを覆い隠す白い霧が、見知った景色をまるで異国の地のように感じさせる。


 たった一日、ほんの数十時間離れていただけだというのに。

 けれど、それは時間の長さではないのだろう。


 変わってしまったのは村なのか、それとも自分自身なのか。それを確かめる術はなく、霧の冷たさが心の中の迷いをさらに際立たせていく。

 それなのに歩けば歩くほど、胸の中に募るこの感覚は、いったいなんなのだろうか。


 ——と。


 そのとき、霧の向こうに、見慣れた石造りの塀がぼんやりと浮かび上がってきた。


「もうすぐ……教会です」


 マリアベルが言うより早く、人形遣いの持つランタンの青白い炎がふっと明るさを増した。その光が、霧の中に浮かぶ不穏な輪郭を浮き立たせる。


『……当たりね』


 ロゼが呟くようにそう言った。

 その声を耳にした瞬間、マリアベルは背筋に悪寒が走るのを感じた。周囲の霧がさらに濃密さを増し、空気の重みが一層息苦しくなる。聖女の首飾りを身に着けているにもかかわらず、瘴気が肌にまとわりつくような感覚が消えない。


(なぜ……こんなにも胸騒ぎがするのでしょう……)


 幼い頃、母に手を引かれてこの村に来た日の記憶がふと浮かぶ。

 その時は不安と期待が入り混じった気持ちで、目の前に広がる風景を新しい故郷として見つめた。それから十数年、この村は彼女にとって家そのものであり、祈りと生活の場そのものだった。安らぎの場所だったはずだ。


 ——それなのに。


 歩を進めるほどに胸の内がざわめき、足が重くなる。懐かしさとともに湧き上がるのは、圧倒的な悲しみと不安、そして漠然とした恐怖だった。


 この深い霧が、なにか取り返しのつかない真実を覆い隠しているかのように、彼女の心に暗い影を落としていた。


『怖い?』


 マリアベルの震える肩に目を留めながら、ロゼが静かに尋ねた。


「……ええ。どうしてでしょう……」


 声がかすかに震えている。


『この先に、真実があるからよ』

「真実……?」


 マリアベルは曖昧なその言葉に、わずかに眉を寄せた。ロゼはしなやかに尾を揺らしながら、穏やかな口調で続ける。


『人はね、見たくないものには目を向けないものよ。問題があれば、それを問題だとは思いたくない。臭いものには蓋をして、忘れたことにしてしまう。記憶から消えたと思い込んでしまう——そういう生き物なの』


 ロゼの語り口は、どこか優しさを含んでいたが、同時に残念そうでもあった。


『わがままよね? でも、それが人間というものよ』


 ロゼは肩をすくめるように小さく動いて、続けた。


『でも、あなたは違うわ。あなたは一歩踏み出した。愛する村人たちのために、見ないふりをせずに行動した。それはとても、勇気のあることよ』

「……そうでしょうか」


 マリアベルは自信なさげに応じた。


『ええ、とっても』


 ロゼの声には確信が宿っていた。

 幼い頃、自分は臆病者だと笑われた。誰よりも小さなことで怯え、誰よりも泣いていた。それが今、勇気があると言われる——しかも、昨日出会ったばかりの黒猫に。

 その言葉が、なぜか心に深く沁みた。

 胸の奥に広がるその感情が、言葉にはできないが、たしかに温かかった。


(……この先に、真実があるとすれば——)


 マリアベルはふっと息を吸い込んだ。


『どうする? 怖いならここで待つ?』


 ロゼの問いに、彼女はまっすぐ前を向いた。

 そして静かに、けれどはっきりと答える。




「……いいえ、わたくしは——前に進むことを望んでおります」




 ロゼはその答えに満足したように、小さく「ニャア」と鳴いた。その声が、マリアベルの背中をそっと押してくれたような気がした。

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