07.まったく、ただの魔除けだなんて……
食事を終え、木こり小屋を出ても、霧は相変わらず濃密なままだった。
マーレ村を目指して歩き出してからしばらく経つが、周囲の景色はまったく変わらない。白い壁のような霧が行く手を遮り、その奥に何があるのかすらわからない。
視界だけでなく、五感までもがこの霧に飲み込まれていくようだった。
冷気は肌にじっとりと張り付き、薄布が身体に触れるような感覚を覚えさせる。吐く息は白く濁り、それが霧の中で瞬時に消えるさまが、まるで空気そのものが息を飲み込んでいるかのようだ。
耳に届く音はほとんどない。時折、霧の中から微かな木々の軋みや何かが湿った地面を踏むような音が聞こえる。
その音は実在しないもののようにも感じられ、どこか現実感を欠いている。
(静かすぎる……)
マリアベルは足を止めそうになる衝動を抑えた。
あまりの静寂に、自分の靴が土を踏む音さえも不気味に響き、それすら霧が吸い取ってしまうようだった。
湿り気を含んだ空気が鼻腔を満たし、妙に甘酸っぱい匂いが漂っている。
その匂いがどこから来ているのかを考えようとしたが、思考がぼんやりとしてまとまらない。
なにもかもが異常だ。
見えない、聞こえない、けれど肌にまとわりつく感覚だけが際立つこの霧の中で、自分が世界から切り離されているような気がしてならなかった。
(瘴気……この霧はやはり、普通ではありませんね……)
マリアベルは自分に言い聞かせるように心の中で呟き、目の前を歩く人形遣いの背中を必死に追い続けた。
まるで、その背中だけが現実に繋ぎ止めてくれているかのようだった。
先頭を歩く人形遣いの肩には黒猫のロゼが乗り、不思議なランタンを手にしている。その青白い火は霧に吸い込まれるように揺らめき、どこか反応しているようにも見える。その頼りない光がなければ進むべき道すら見失いそうだ。
マリアベルは人形遣いの背中から目を離さないように努めた。
ほんの少しでも距離が開けば、霧に飲まれてしまうだろうという不安が頭をもたげる。
「本当にひどい霧ですね……瘴気、でしたよね?」
彼女は声を震わせながらロゼに問うた。
不安を紛らわせたくて言葉を探したのだが、ロゼが口を開くより早く、男が不機嫌そうに低く呟く。
「お前、余計なことを……」
『いいじゃない、これくらい』
「この女には必要ない」
『そうかしら?』
軽く言い返すロゼの声にはどこか茶化すような調子が混じっている。
マリアベルは肩を縮めながら男の背中を見つめた。瘴気について知ることが、なにか彼にとって都合が悪いのだろうか。
いや、それよりも——離れてはいけない。けれど、居心地の悪さが足元を鈍らせる。
やがて、人形遣いは口を閉ざし、ロゼとの言い合いを諦めたのか一層無口になった。一方、ロゼは気にする様子もなく、のんびりと首を左右に振っている。
「まだ妖魔がこの霧の中に潜んでいるのでしょうか……」
マリアベルのか細い声が霧に溶けるように響く。ロゼは肩越しに振り返り、軽く目を細めながら答えた。
『おそらくね。でもまあ、それについてはもう手を打ってるんでしょ?』
ロゼの問いに、人形遣いはなにも答えなかった。ただ無言のまま歩き続けるその背中が、どこか霧に溶け込んでいくように見える。
やがて、白い幕の向こうにうっすらと村の入り口が浮かび上がった。
しかし、霧はますます濃くなり、瘴気の重みが空気に漂っているのが感じられる。
村に近づくごとに息苦しさが増してきた。胸が押しつぶされるような感覚に、マリアベルは必死に耐える。
ようやく村の門前にたどり着いたとき、マリアベルの息は浅く乱れ、足元はふらつき、眩暈まで覚えるほどだった。瘴気が肺を蝕むように身体の中に絡みついてくる。
(これは、村全体が瘴気に包まれている……)
心に浮かぶその結論が、恐怖をさらに深く刻み込む。空気の重みは呼吸すら困難にし、全身の力を奪い取っていくようだった。
そんな彼女の様子を見て、ロゼが人形遣いの肩からぴょんと飛び降りた。その小さな体がしなやかに地面に着地すると、マリアベルの足元へ近寄ってくる。
『大丈夫、シスター?』
ロゼの声には、いつもの飄々とした調子が影を潜めていた。
マリアベルは顔を上げ、かろうじて息を整えながら答えた。
「は、はい……ゴホッ……すみません……」
言葉の途中で咳き込むと、人形遣いが短くため息をついた。彼は外套の内ポケットに手を差し入れると、なにかを取り出し、マリアベルに差し出した。
「これを持て」
ぶっきらぼうな言葉とともに渡されたそれを、マリアベルはそっと両手で受け取る。
それは、真珠のような光沢を放つ石が嵌め込まれた銀のペンダントだった。石の周囲には精緻な細工が施されており、一目でただの装飾品ではないことがわかる。
「なんて……綺麗……。こちらは?」
恐る恐る問いかけると、男はそっけなく答える。
「ただの魔除けだ。瘴気が幾分かましになる」
「お借りしてもよろしいのですか?」
遠慮がちに尋ねるが、男は答えることなくそのまま歩き出してしまった。
マリアベルは手元のペンダントを見つめながら、その背中をじっと見送る。
『まったく、ただの魔除けだなんて……』
ロゼが面白くなさそうにぼやく。
「魔除けではないのですか?」
マリアベルが不思議そうに尋ねると、ロゼは鼻を鳴らし、ペンダントに目をやった。
『少なくとも、ただの魔除けなんかじゃないわね。とても貴重なものよ』
「そんなに……高価なものなのですか?」
『ええ。高価で、特別なもの。それだけわかればいいわ。——まあ、気にせず着けてみなさい』
ロゼに促され、マリアベルは首からペンダントを下げた。
その瞬間、それまで纏わりついていた瘴気が嘘のように薄れ、胸の息苦しさがすっと消えていく。心まで安らいでいくような感覚に、彼女は驚きの声を漏らした。
「すごい……でも、どうして……?」
『それ、聖女の首飾りよ』
「聖女の……?」
『特別な加護を受けられるの。よく似合っているわ、シスター』
ロゼの言葉にマリアベルは目を見開いた。その特別な名が示すものの重みに気づき、胸の内にさらに多くの疑問が膨らむ。
(どうして、あの方がこれを?)
聖女が身に着けるはずの神聖な品。それがなぜ、あの人形遣いの手元にあるのか。
聖女の首飾りだけではない。妖魔を払う青白い炎を宿すランタン、見ているだけで圧迫感が伝わってくる剣、そして二体の人形——人形遣いだという彼の素性が、ますますわからなくなる。
『ほら、早く行かないと置いていかれるわよ?』
ロゼが尾を振りながら促す。
「ああっ! お待ちになってください! 人形遣いさん!」
マリアベルは霧の向こうに霞む男の背中を追い、必死に歩みを早めた。その背中が、今だけは頼もしく見えた。