06.深入りしてはダメよ?
「仕事だ」と男が短く告げた瞬間、霧の中に二つの影が浮かび上がった——。
† † †
明くる日の朝。まだ日の出前の薄暗い時間、マリアベルは、冷たい空気の中で目を覚ました。
仄かに暖炉の残り火が燻り、部屋の隅々まで薄明かりが届くことはない。夜の帳がまだ薄らぎきらない小屋の中は静まり返り、外から漏れ聞こえるかすかな風の音だけが、寒々しく響く。
マリアベルはぼんやりと天井を見上げながら、なにか夢を見ていたような感覚を抱いた。
しかし、どんな夢だったのか——その記憶はすでに霧散してしまい、手繰り寄せようとしても影さえ掴めない。
冷えた空気が頬を撫で、彼女はようやく身体を起こした。
暖炉のそばに目をやると、かすかな残り火が赤い点のようにゆらめいている。その光が小さな小屋に安らぎをもたらしているようだった。
ふと見回すと、壁際には男のトランクが置かれているのが目に入った。けれど、肝心の人形遣いの姿はどこにも見当たらない。
——と。
微かな物音が耳をかすめた。暖炉のそばで、黒い影が小さく動いている。
『あら、目が覚めたのね、シスター・マリアベル』
黒猫のロゼだった。ロゼはのそのそと体を起こし、しなやかに背を反らして欠伸をひとつ。暖炉の残り火に照らされた毛並みが艶やかに光り、いかにも気怠げな様子だ。
「おはようございます……」
マリアベルが静かに声をかけると、ロゼは気だるそうにまぶたを半分閉じたまま返事をした。
『おはよう。まだ眠いけどね……』
その飄々とした様子に、マリアベルは少し笑いそうになった。
考えてみれば、猫が喋るというこの奇妙な現実を、もうすっかり受け入れている自分がいる。初めてロゼが言葉を発した時は驚きで言葉も出なかったのに、今では彼女の言葉に返事をすることが当たり前になっている。
その不思議に思い至りながらも、それがあまりにも自然に馴染んでしまった自分が、少しおかしく思えた。これもロゼがお喋りなせいなのかもしれない。
(……なんだか、不思議ですね。神様がくださった試練の一部でしょうか)
心の中でそっとそう呟きながら、マリアベルはロゼののんびりした仕草を目で追った。彼女の世界に、こんなに奇妙で、不思議で、それでいてどこか愛らしい存在が加わったことを、ひそかに微笑ましく感じながら。
だが、すぐに人形遣いの行方が気になり、問いかけた。
「あの、人形遣いさんは……?」
ロゼは欠伸をしながら、前足で顔を軽く撫でた後、あくまで気楽な調子で答えた。
『さっき山菜を採りに行くって言って出ていったわ』
「そうですか……」
マリアベルは軽く息を吐き、少しだけ安心した。
けれど、小屋の外に思いを馳せると、まだ深い霧が漂う夜明け前の世界が頭をよぎり、彼女の胸に小さな不安の影が落ちた。
マリアベルは少し安心し、小屋の扉を開けた。途端に、ぶわりと冷たい空気が彼女を襲う。目の前には霧——それも尋常ではない濃密な霧が立ち込めている。まるで白い壁のようで、先がまったく見えない。冷気が肌を刺すような鋭さを持ち、霧そのものが重く纏わりついてくるようだ。
「なんでしょうか、この霧は……息が詰まりそうです……」
『瘴気が混じっているのよ』
「瘴気……?」
ロゼの言葉に、マリアベルは首を傾げる。
『魔界の空気のこと。地下から漏れることもあるけど、魔物の力を引き出す源でもあるわね。昨日の瘴狼は、この瘴気に誘われてやってきたみたい』
「魔界……そんな恐ろしいものが、どうしてこんな場所に……」
魔界という聞き慣れない言葉に、彼女はさらに不安を募らせた。けれど、その言葉を疑うことなく受け入れている自分に気づき、ふと驚く。
(どうして、こんな話を素直に信じているのでしょう……)
つい昨日までは、魔界だの瘴気だの、百寿喰や妖魔といった話を現実のものとして考えたことすらなかったはずだ。むしろ、どこかの絵本か作り話の中だけのことだと思っていた。——けれど、昨晩のことを思い返すと、それらは絵空事ではなかった。
目の前で狼ではない、あの妖魔の姿を見てしまった。
命を奪うためだけに作られたかのような恐ろしい存在が、自分に牙を剥き、襲いかかってきた——。
(きっと、あの光景を見たから。信じざるを得なくなっているのですね)
そう思うと、現実と非現実の境界が曖昧になっているような気がした。信仰に生きてきた彼女にとって、この世界が神の秩序から遠く離れた場所であると感じざるを得ないことが、胸に小さな痛みを残した。
けれど同時に、彼女の目に映る世界は、以前よりも広がっている気もする。
ロゼの気軽な調子や、人形遣いの無口さに支えられながら、自分は少しずつこの新しい現実を受け入れつつある。
(不思議です……。でも、きっとこれも試練なのかもしれません)
そう思い直し、彼女は顔を上げた。ロゼの金色の瞳が、じっと彼女を見つめている。
『自分自身の変化に驚いた?』
「え?」
『あなたは一歩、知らない場所へ足を踏み入れてしまったの。でも、深入りしてはダメよ? あまり良くないことなの』
「そうですか……ですが、目の前の現実から目を背けることもできそうにありません」
するとロゼは「そうね」と静かに言って、なにかを考えるように目蓋を閉じた。
「あの、ロゼさん……この瘴気はいったいどこから来たものなのですか?」
『どこかから噴き出したのか、それとも誰かが意図的に霧を起こしたのかもね』
マリアベルは思わずロゼを見返した。
「意図的に……?」
『可能性の話よ。ただ、普通の人間にはこんなことできないわ。もっとも——』
ロゼの目が怪しく光る。その輝きには、不吉な影が揺らめいているようだった。
『ただの人間でも「アレ」を手にしていれば話は別だけどね』
「アレ、とは?」
『百寿喰に変わり果てた村人たち、妖魔、そしてこの霧——』
ロゼの声が低くなる。
『——どうやら「当たり」ね』
その時、ロゼがマリアベルの背後に向けて声をかけた。
『お帰りなさい』
マリアベルが振り返ると、霧の中から黒い影がぬうっと現れた。人形遣いだった。
「なんだ?」
「い、いえ……驚きました……」
「ふん……」
男は興味もなさそうに小屋の中へ入り、手にしていた山菜の入った籠を暖炉の前に置いた。ロゼは籠から顔を突っ込み、山菜の頭を前足で弄び始める。
「お前、これでなにかつくれるか?」
「え……?」
「食事だ」
ぶっきらぼうな口調で告げられ、マリアベルは慌てて返事をする。
「は、はい!」
男は無言でトランクを開け、中から塩や香料の入った袋を取り出す。そのとき、マリアベルの目に不思議な光景が映った。
「あれ……」
鎖で縛られた古い本はそこにあった。だが、昨夜確かにあったはずの二体の人形が消えている。
「昨日のお人形は……どこに?」
「お前には関係ない」
男の短い答えに、マリアベルはそれ以上追及することを諦め、ため息をついた。
その様子を見ていたロゼが「にゃあ」と呆れたように鳴く。
霧の中、消えた人形、謎めいた瘴気——すべてが絡み合い、マリアベルの胸に不安の影を落としていた。