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黒猫と人形遣いの禁呪録  作者: 白井ムク
第二章 エドガーとアイシェ
19/50

19.こう見えて忙しいの、私たち

 応接室の扉が音もなく開き、執事のエドモンドが先導する。

 中は重厚な家具が並び、どこか窮屈さを感じさせる静けさが漂っていた。その中央、緋色の椅子に座る中年の男が、ちらりとこちらを見てから立ち上がった。彼の額には深い皺が刻まれ、神経質そうな表情が一行に注がれる。


「お待ちしておりました」


 礼儀正しく、しかし声はかすかに震えていた。


「私はこの町の町長、レオン・エグリッドです」


 一行を見るなり、レオンの顔から緊張がわずかに解ける。その動きには疲労と安堵が入り混じっていた。


「噂に聞く『グリモアルカー』の方々ですね。正直、あなた方が来てくださるとは思っていませんでした」


 言葉を切りながらも、町長の目にはどこかすがるような光が宿っている。

 それを無視するように、人形遣いは無言のまま椅子に腰を下ろした。ロゼはその肩に軽々と飛び乗り、静かに町長を見つめる。その小さな目に潜む冷徹な光が、レオンをさらに怯ませた。


「それで、依頼は?」


 人形遣いの低く平坦な声が部屋に響く。それだけで、空気がさらに張り詰めた。


「その依頼なのですが……」


 レオンは一瞬ためらった。視線は揺れ、指先が小刻みに震えている。その姿に、人形遣いは目を細めた。焦らされるのを嫌っているのか、それとも無関心なのか――表情からはなにも読み取れない。


「……他言無用でお願いできますか?」


 ようやく絞り出した声は掠れていた。人形遣いは頷きもしない。ただ、その黒い瞳でじっとレオンを見据える。それだけで彼の言葉は重圧に押し潰され、頼りなく掻き消えた。

 了承を得られたと判断したレオンは、深く息を吐き出し、観念したように話し始めた。


「じつは……息子のエドガーのことなのです。最近、様子がおかしくて……」


 その名を口にした瞬間、レオンの顔にさらなる影が落ちた。目の下の窪みは深く、彼の苦悩を物語っている。


「……先月のことです。エドガーの恋人が病で亡くなってからというもの、夜な夜などこかへ出かけるようになりまして……」

『町長さんは、息子さんがどこへ行っているのか知っているの?』


 低く鋭い声が響いた。レオンは一瞬、誰が話したのかを理解できない様子でキョロキョロと周囲を見回す。そしてマリアベルを見つめるが、そのとき、膝の上に飛び乗ったロゼが彼の視界を遮った。


『ここよ、ここ。私が話しているの。猫が喋るなんて珍しいかもしれないけど、世の中にはそういう猫もいるのよ』


 ロゼは軽く尻尾を揺らしながら言う。レオンは思わず、呆然と口を開けた。


「は、はぁ……」

『それで、息子さんがどこへ行っているか、ご存知?』


 ロゼは冷ややかに問いかける。その目の奥には、どこか測るような光が宿っていた。

 レオンは視線を外し、唇を噛みしめる。それから、深いため息とともに首を横に振った。


「それが……聞き出そうとしても、話してくれません。ようやく話したと思えば……亡くなった恋人に会いに行っているとだけ……」


 言葉を聞いた瞬間、マリアベルの心臓がひときわ強く跳ねた。信じがたいその言葉が、奇妙な重みを持って胸に沈む。


『亡くなった恋人に……?』


 ロゼがぼそりと呟いた。その低い声には、微かな苛立ちが込められている。

 レオンはそれにも気づかない様子で、ただ深く頷いた。肩が重く沈む様子は、彼が抱える苦しみの重さを物語っている。


「はい。しかし、それはありえないことです。恋人は確かに亡くなり、墓に葬られています。それなのに、エドガーはまるで現実を見ていないかのような振る舞い……。止めようとしても激昂し、手がつけられないのです。そうしているうちに、エドガーはすっかりやせ細ってしまいました。今にも倒れそうなほどに……」


 疲弊しきった声が部屋に響き渡る。その言葉の裏に潜む絶望に、マリアベルは小さく身を縮めた。彼女の目に映る町長の姿が、かつて見た悲劇の断片を思い起こさせる。


『なるほどね……今のところ、まだどちらかわからないわ』


 ロゼの冷たい声が沈黙を裂いた。目を細める彼女の瞳には、険しい光が宿る。

 マリアベルは「どちらか」と聞き、その言葉の意味をすぐに理解した。グリモアが関与しているのか、していないのか――もし関与しているなら、それは人形遣いが動くべき領域だった。


『町長さん、息子さんの部屋を調べさせていただいてもいいかしら?』


 ロゼがさらに問いかける。町長は一瞬迷ったが、すぐに小さく頷いた。


「ええ、もちろんです。息子は今狩りに出ていて、しばらくは帰ってこないでしょう」


 そう告げるレオンの声には、諦めの響きがあった。その場の空気が少し緩んだかに見えた瞬間――




『それと、町長さん』




 ロゼの声が鋭く部屋に響いた。それは先ほどまでのどこか軽やかな響きとは異なる、切っ先を持つ声だった。


『……なぜ、息子さんとグリモアが関連していると思ったの?』

「え……そ、それは、息子の様子があまりにもおかしいものですから……」

『……そう。では、言い換えるわね。私たちグリモアルカーに依頼を出してきたのは、町長さん、あなたがグリモアを見たからよね?』


 レオンの顔が一瞬凍りつく。彼は必死に表情を取り繕おうとしたが、その努力が空回りしているのは明白だった。


「え? どういう、意味でしょう……?」

『まだグリモア絡みのことかどうかもわからない段階で、私たちに依頼を出すなんて普通はしない。つまり――あなたは、なにかしらグリモアが関係していると知っていたのよね?』


 その言葉に、レオンは震えながら押し黙る。その沈黙が、彼の胸の内に隠された真実の存在を否応なく語っていた。


 ——と。


 ロゼはマリアベルの膝から飛び降りると、レオンのほうへ優雅に歩み寄り、その足元に腰を下ろした。彼を見上げるその瞳は、まるで心の奥底まで見透かすかのように鋭い。


『町長さん。私たちは時間を無駄にするつもりはないの。こう見えて忙しいの、私たち。だから、言うべきことを言いなさい。息子さんを救いたいならそれが最善の選択よ』


 その静かな声には、冷酷とも言える強制力が含まれていた。

 レオンはしばらく躊躇した後、ついに観念したように重い口を開く。


「……わかりました。しかし、どうか……どうか息子を責めないでください」


 彼は震える声で続けた。


「先月、エドガーの恋人が亡くなったとき、彼は絶望のあまり目も当てられないほどに取り乱していました。そのとき、町外れに住む一人の老人がエドガーに近づいてきたのです。その人物が、なにか……妙な本を渡してきたらしいのです」


 その言葉に、マリアベルの胸がざわついた。

 老人、妙な本——その断片的な情報が、明らかに不穏な絵を描き始めている。


「その老人のことはご存じなのですか?」


 マリアベルが慎重に尋ねる。


「詳しくはわかりません。ただ、町では『まじない師』と呼ばれています。彼はこの辺りに長く住みついているようですが、誰もその素性を知りません……」


 レオンは手を握り締め、続けた。


「エドガーがその本からなにを得ているのか、私は知る術もありません。ただ、ある日、その本を手にしたまま息子が笑ったのです――まるで、死者に会えると信じきったかのような、歪んだ笑顔で……」

『死者に会える、ね……』


 ロゼが静かに呟く。その目は、レオンの言葉の裏に潜む恐怖を捉えているようだった。

 すると、人形遣いがゆっくりと立ち上がった。その動きはあまりにも静かで、それだけでレオンが息を呑むのが見て取れる。


「……その老人が何者かは重要ではない」


 人形遣いは低く、冷たい声で告げた。


「問題は、その本がグリモアかどうか。本物なら、お前の息子は既にその影響下にある」

「影響下……とは?」

「簡単なことだ。グリモアはその使い手を選ぶ。そして一度手にした者は、精神を侵され、やがて魂を悪魔に食われてしまう」


 聞いて、レオンの顔がさらに青ざめた。


「そんな……そんなことが……!」


 マリアベルは、静かに目を伏せた。その視線の先にあるのは、息子を思い詰める父親の苦しげな表情だった。


(お可哀想に……よほど息子さんが大事なのね……)


 その姿に胸が締めつけられるような感覚があったが、それでも彼女は目を閉じ、自らの迷いを押し殺すように小さく息を吐く。


『町長さん。その本、今どこにあるの?』


 ロゼの低く冷ややかな声が、部屋の空気を裂く。

 レオンはぎこちなく頭を上げ、迷うように口を開いた。


「……息子が、肌身離さず持ち歩いています。あの本を、手放すことは決してありません……」


 彼の声は震えており、すでに追い詰められているのが明らかだった。マリアベルはその言葉を聞き、わずかに眉を寄せる。


『そう……それじゃ、一度息子さんの部屋を調べさせてもらうわ。そのあとで、直接息子さんに会う。それと、その呪い師って男も気になるから、調べる必要があるわね』


 ロゼの言葉は決定事項のように響いた。

 レオンは目を泳がせながらも、しっかりと頷いた。その顔には、不安と期待が入り混じっている。


「……お願いします。どうか、エドガーを……息子を助けてやってください!」


 レオンの声には、縋るような響きがあった。父親としての最後の望みに託す言葉だったのかもしれない。


 だが、その言葉が部屋に響くあいだ、マリアベルの心の奥には、どこか掴み切れない不安が静かに広がっていった。


(助けることが……本当にできるのかしら? もう、町長さんの息子さんは、ウェルズ神父のように——)


 ——悪魔が人の皮を被っているのかもしれない。

 だとすれば、もう助けようはないのではないか——。


 頭の中に浮かんだその疑問を振り払うように、彼女はロゼの方に視線をやった。

 ロゼの目はいつものように冷たく鋭い光を湛えていたが、その瞳の奥には、ほんのわずかな憂いの影が見えたような気がした。

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