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黒猫と人形遣いの禁呪録  作者: 白井ムク
第二章 エドガーとアイシェ
18/50

18.それだけだなんて思うのは、まだ甘いわ

 重厚な扉が音を立てて開いた。

 わずかに錆びた蝶番が低く軋み、ひやりとした風が中から漏れ出す。


 その隙間から現れたのは、一人の初老の紳士だった。背筋は伸び、無駄のない動作が目を引く。灰色がかった髪をきっちりと整え、きりりとした口ひげをたたえた顔には、一点の隙もない。


「ようこそお越しくださいました。私はこの屋敷の執事を務めております、エドモンドと申します」


 穏やかでいて、どこか重厚な声だった。その言葉と同時に、エドモンドは深々と一礼する。彼がこちらを見やる目には、訪問者が誰であるかを既に把握している確信が宿っていた。


「依頼があるとのことで来た」


 人形遣いが短く返す。まるで会話を始める気がないような、冷たく事務的な声。エドモンドはその態度にもいっさい動じる様子を見せず、淡々と続ける。


「はい、町長がお待ちしております。皆さまのご到着を、大変心待ちにしておられました。どうぞ、中へお入りください」


 そう言って、エドモンドは扉をさらに開け放つ。その動作すら滑らかで、気品に満ちていた。

 萎縮気味に扉の向こうを覗き込んでいたマリアベルは、意を決したように一歩を踏み出しつつ、思わず辺りを見回した。


「……この屋敷、素晴らしい建築ですね」


 小さく感嘆の声を漏らす。その声に、エドモンドはほんのわずかに口角を動かした。否定も肯定もしない、それでもどこか嬉しそうな気配が滲む。


「ありがとうございます。築百年以上経過しておりますが、代々、先代が丹念に手を入れております。このような建築は手入れ次第で、なおその美しさを保つものでございます」


 その言葉には、ほのかな誇りが混ざっていた。

 しかし、わずかな会話を遮るように、人形遣いの不機嫌そうな声が響いた。


「会話は不要だ」


 言葉の刃が冷たく場を断ち切る。

 マリアベルの肩がびくりと揺れ、すぐに彼女はしゅんと頭を下げた。


「あ……はい……すみません……」


 小さく謝罪する彼女の肩で、ロゼが不満げに頭を振った。


『ちょっとくらい話してもいいじゃない。あなた、気を張りすぎよ』


 声こそ小さかったが、その口調にははっきりとした苛立ちが滲んでいる。だが、人形遣いは彼女の言葉をいっさい気に留めないかのように鼻を鳴らした。


『シスター、気にしなくていいわよ』


 ロゼが肩越しにマリアベルを慰める。


「で、でも……」


 マリアベルの声はか細い。それも無理はない。彼女は人形遣いと魂の契約を交わしていた。それは彼の命令には逆らえない戒律でもある。

 それを理解してなお、彼女はその契約を選んだ。どんな危険を伴うか、承知の上で。


(それでも……あの方の目から見える世界を、もっと知りたい)


 そう思うのは、愚かさか、それとも純粋な好奇心か——。

 だが、後悔だけはなかった。マリアベルの胸を満たしていたのは、ただ目の前の扉を越えた先に広がる未知への、抑えがたいほどの興味であった。


「……あの、ロゼさん」


 彼女は肩越しに小声で話しかけた。声が震えているのを自覚しながら、それでも必死に平静を装う。


『なにかしら?』

「わたくしは、これからなにをしたらよいのでしょう?」


 問いかけた瞬間、自分の言葉があまりにも無知な子供のように響いたのではないかと不安になる。だが、ロゼはそれを気にも留めないようだった。


『ああ、そうだったわね。——シスター、これは初心者入門編よ』

「初心者……?」


 マリアベルが思わず問い返すと、ロゼはふわりと笑う声を立てた。


『そう。あなたはつい先日、あの男のお人形さんのコレクションに加わったばかりだもの。だからなにをすればいいのか、まだわからないのも当然よね?』

「え、ええ……」

『だからね、シスター。最初は見て覚えるの。あの男がなにをするか、なにを求めているのか……そばにいて観察するのがあなたの仕事よ』

「それだけですか?」


 マリアベルの声に、わずかに安堵と戸惑いが混ざる。

 するとロゼは再び笑った。ただし、その笑みには皮肉が滲んでいる。


『それだけだなんて思うのは、まだ甘いわ。すぐにわかるわよ、シスター。……それだけのことが、いかに厄介で、いかに大変かをね』


 ロゼの声には、どこか含みのある響きがあった。からかいとも、親切ともつかない、絶妙な匙加減で語られるその言葉は、マリアベルの胸に妙な不安を植えつけた。

 それでも彼女は小さく息を吸い、肩を震わせながらも自らに言い聞かせる。


(怖がっている場合じゃないわ。わたくしはここで学ばなくてはならないのだから……)


 その瞬間、エドモンドが振り返り、薄闇に沈む廊下の奥へと視線を向けた。

 蝋燭の灯りが彼の端正な横顔を静かに照らす。彼の仕草ひとつひとつが、この屋敷と同じく古びていながらも隙のない洗練を保っていた。


「こちらです。皆さま、どうぞお入りください」


 彼の声に促され、一行は廊下へと足を踏み入れる。

 足元の絨毯が足音を吸い込み、妙に静まり返った空気が広がっていた。廊下に並ぶ絵画や置物はどれも古めかしく、どこか不気味さすら漂わせていた。

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