16.あなたに光があらんことを
次回から第二章がスタートいたします。
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なお、第二章は明日12月24日からとなります。
いつの間にか、橋の上に、微かに揺れる影が立っていた。
光の粒がまとわりつくように漂い、少女の輪郭を描き出す。薄青い光は、幽かに橋桁の木材を照らしていた。
マリアベルだった。
けれど、その瞳には微かな混乱の色が宿っている。自らがどうしてここにいるのか、すべての感覚が彼女から剥がれ落ちたような錯覚に囚われていた。
「……わたくしは……」
ぽつりと零れた声は、まるで誰に向けるでもなく虚空に吸い込まれていく。彼女の目が橋の上を彷徨い、やがて自分の足元へと落ち着いた。その足元が、まるで霧のようにぼやけていることに気づくと、彼女の呼吸はかすかに乱れた。
が、すぐにつま先に穴の開いたブーツが目に留まる。
冷たさも痛みもない。ただ、なにもかもが曖昧だった。時間の感覚さえ溶けてしまったかのように、記憶の輪郭がぼんやりと遠ざかっている。
——それでも、ふとした瞬間に思い出が押し寄せる。
まるで遠くで鳴る鐘の音を耳にしたかのように、断片的な映像が浮かび上がる。
深い霧、ひび割れた祈りの聖堂——そして、己の使命。
「ああ……」
自分の内に蘇るその響きに、マリアベルは自然と口元を覆った。
冷たくも確かな使命感が胸の奥を刺す。
そして、その目が静かに、しかし力強く見開かれる。
「どうか……どうか、お願いいたします……! 村を……村をお救いください——」
その声は、風に溶け込むようにか細く響き渡った。けれど、その叫びは誰の耳にも届かない。橋のたもとを行き交う人々の中に、振り返る者はひとりもいなかった。
マリアベルは手を伸ばした。その指先が、目の前を横切る若者の肩に触れる寸前で止まる。触れるべき相手が、触れられるべき存在ではないことを、彼女は薄々理解していた。
それでも、すがりつくように声を上げずにはいられなかった。
通りすがる人々の表情は皆、無機質だった。まるで、彼女の存在が元からこの世にないものだと知っているかのように、ただ前を見据え、足早に立ち去っていく。
中には、なにかを感じ取ったかのように立ち止まる者もいた。微かに眉をひそめ、振り返りそうになる。しかし、すぐにそれは「気のせいだ」と片づけられる。首を傾げたまま、彼らは再び前を向き、何事もなかったように歩き出してしまうのだった。
彼女の目には、その背中があまりにも遠く、冷たく映った。
「お願いします、どうか、村を……!」
再び絞り出すような声が漏れる。
それでも、その声は風の中に霧散し、ただ静寂だけが戻ってきた。
マリアベルはその場に立ち尽くした。手を下ろした彼女の姿は、夕闇に紛れていくように薄れていく。——ここに存在しているのに、誰の目にも映らないという、冷たい現実の中で、途方に暮れていた。
やがて、橋の向こうから小さな足音が響いた。それは、誰もが無関心に通り過ぎていく中で、初めてマリアベルの存在へと近づく音だった——。
「——ようやく、思い出しました……」
マリアベルは小さく息を吸い込むと、その胸にわずかな温もりが戻ったように感じた。
かつて、生き別れた母が、この首飾りを手渡してくれた日の記憶。それは、幼い彼女にとって唯一無二の宝物だった。だが、死の淵を越えるあいだに、その大切な思い出さえも霧のように失われていたのだ。
「大切なことなのに、忘れていました。……でも、これは、わたくしのもので……母がくださった……」
『そう、最初からあなたの物だから返すわ。——それがあったから、あなたの魂がかたちをつくったの。そして、使命を果たすことができたのよ』
「そうだったのですね。ですが……」
その言葉はどこか震え、彼女の心の奥底にあるわだかまりが完全に解けきっていないことを物語っていた。
悪魔からこの村を救う使命を果たし、たしかに彼女は無念を晴らしたはずだった。
それでも、胸の奥に重く沈むなにかが消えない。
マリアベルは微かに目を伏せ、薄青い光に包まれた手のひらを見つめる。
「けれど……まだ、なにかが……」
——と。
そのとき、橋の下から陽気な笑い声が響いてきた。
「やれやれ、骨が折れるな! お前、あの妖魔、丸焦げにしちまったのか? おっかねぇ」
「黙りなさい! 効率のいい方法を取っただけよ。あんたが無駄に斬りかかるよりマシだわ!」
マリアベルが振り返ると、そこには大剣を担いだ屈強な男と、長い黒衣に身を包んだ魔女が並んで歩いてくる。二人とも、疲れた様子を見せるどころか、肩を並べて軽口を叩き合っていた。
「これで村周辺の妖魔は片づいた。任務完了だな」
男が大剣を地面に突き立てて、にやりと笑った。
魔女は肩をすくめ、呆れたように息をついた。
「ま、これでしばらくは静かになるでしょうね」
マリアベルは彼らを見つめた。その目には疑問と興味が浮かんでいる。彼らが話を終えると、ふいに二人の姿が変わり始めた。柔らかい光が包み込み、その光が小さくなると、やがて二人は、ただの人形になった。
「このお人形さんたち、トランクの中にあった……これは?」
マリアベルが思わず問うと、ロゼの声がその背後から響いた。
『人形というのは魂を入れておくための器よ。彼らは、この村を救うために、その男の術に使われたの。彼らのことは……まあ、どうでもいいわ。——それよりも、ね? だから人形遣いだって言ったでしょ?」
人形の顔を前足でちょんちょんとつつきながら、ロゼは淡々とした声で言った。
その説明にはなんの感情も乗っていないように思えるが、同時にどこか静かな安堵が感じられる。
『この村を救ったのも、あなたが無念を晴らしたのも、全部繋がっているのよ。けれど——』
ロゼは言葉を切り、マリアベルをじっと見つめた。
『まだなにかが引っかかるのなら、それはあなた自身の中にあるものなのかもしれないわね。でも……思い出さなくてもいいことかもしれない。あの世に旅立ちたいなら手を貸すけれど——どうする?』
マリアベルはその言葉にかすかに瞳を揺らし、目を伏せた。
これで終わりのはずだった。村を救い、使命を果たし、首飾りの記憶さえも取り戻した。
それなのに、胸の奥底にはまだなにかが残っているような気がする。触れられそうで触れられない、その思いが静かに彼女の心を揺さぶっていた。
沈黙が落ちた瞬間、人形をトランクへ仕舞い終えた男が静かに口を開いた。
「時間がない。行くぞ」
その声に、ロゼは小さく肩をすくめた。
『あ……ちょっと待ちなさいって! ——あ、シスター! あなたに光があらんことを』
慌てたように声を上げながら、人形遣いの肩へと軽やかに飛び乗る。その仕草に男は一切気を留めることなく、淡々と足を踏み出した。
マリアベルはその背中を見つめたまま、一歩踏み出しかけてから思い直し、声を上げた。
「あの、人形遣いさん……!」
男は足を止めた。振り返ることなく、低い声で応じる。
「……なんだ?」
「なにからなにまで、ありがとうございました……! 私や、村のことを救っていただき、本当に、なんと感謝をお伝えすればいいか……」
その言葉に、男はなにも返さなかった。けれど、その背中はわずかに動いたようにも見えた。やがて彼は前を向き、ただ一言、振り返らずに言葉を落とす。
「次は迷うな。信仰がどこにあるのか、お前はもう知っているはずだ」
その言葉を聞き、マリアベルは胸に手を置いた。言葉は簡素で冷たくすらあったが、不思議と心に染み渡る。
(信仰……そう。わたくしは、このまま神の御許へ逝ける……そのように感じる)
人形遣いとロゼの姿が遠ざかっていく。その小さな背中を見つめながら、マリアベルの足はその場に留まっていた。
けれど、静かな胸の鼓動の奥底に、べつの鼓動が潜んでいるようだった。
(けれど、今もこうしてこの地に遺っているのは……なにか、ほかに使命を与えられているからなのでしょうか……)
答えのない問いが胸の中で膨らむ。それと同時に、彼女の足がわずかに動いた。重い枷を引き剥がすように、ぎこちなくも一歩を踏み出す。
気がつけば、マリアベルは駆け出していた。
冷たく澄んだ空気を切り裂くように、彼女は消えゆく人形遣いたちの背中を追いかけていく。
——風が花びらを舞い上げた。
どこか遠くの空に響く鐘の音が、なにかの始まりを告げるように静かに鳴り渡る。
人間とグリモア、そして魂を巡る新たな物語が、この国、エイジスで幕を開けようとしていた。
——第一章 マリアベル【完】
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