15.まあ、たまにはそんなのも悪くないわね
——冷たい風が吹き抜ける冬の夕暮れ、橋の上にはマリアベルの声だけが響いていた。
「どうか……どうか、村をお救いください……! どうか——」
道行く人々に向けて、彼女は声を張り上げる。その手は寒さで赤くなり、目には切実な光が宿っている。しかし、誰も立ち止まることはなかった。
行き交う人々は、誰もが目を逸らし、早足で彼女を通り過ぎていく。貴族の尼僧がこんなところで助けを求めていること自体が奇妙に映ったのかもしれない。
あるいは、彼女の切実な叫びが、この冷たい世界にあまりにも似つかわしくないものに感じられたのかもしれない。
それでもマリアベルは諦めなかった。両手を胸の前で組み、また声を上げる。
「どうか、お願いいたします……!」
その時、一人の船乗りがふらふらと近づいてきた。酔いが回っているのか、その足取りは覚束ない。
「あなた……どうか、わたくしの話を——」
マリアベルはその男に近づき、か細い声で訴えた。だが、船乗りは不快そうに、彼女の手を無造作に振り払った。その力の強さに、マリアベルは思わず後ろへよろける。
「邪魔するんじゃねえ、尼さん!」
船乗りの吐き捨てるような声が響いた瞬間、彼女の足が橋の縁に触れる。
次の瞬間——マリアベルの視界が大きく揺れた。橋の下の川が急速に近づき、彼女は冷たい風の中を落下していった。冬の川の水面は鋭く、冷たく、容赦なく彼女を迎えた。落ちた衝撃で呼吸が乱れ、そのまま流れに押し流される。
「っ……!」
喉の奥から、声にならない呻きが漏れた。冷たい水が容赦なく彼女の身体を押し流し、鋭い痛みと共に、突き出た岩がその動きを止める。
激痛が全身を貫き、息を吸おうとするたびに、冷たく鋭い水が喉を塞ぎ込む。肺は叫ぶように空気を求めるが、それは叶わない。全身を包む冷たさと痛みが、次第に彼女から感覚を奪い去っていった。
揺れる視界の中、空は赤く滲んでいた。夕焼けの光が川面を揺らめかせ、その赤はまるで血のように染み込んでいくようだった。
(これが、わたくしの最後……)
頭の中で言葉が響く。それはまるで、どこか遠い場所から聞こえる鐘の音のようだった。思考がぼんやりと漂い、次第に意識の深淵へと引き込まれていく。
けれど、胸の奥底に残る想いが、彼女を最後の祈りへと駆り立てた。
震える手を胸元に当て、微かな力を込める。その動きすら困難な中、彼女は神にすがるように祈った。
(どうか……どうか……村の人々を……お救いください……)
その願いは、痛みや恐怖を超えた、純粋な祈りだった。彼女の言葉は声にならずとも、冷たい水の流れに乗り、天に届けられるかのように、静かに広がっていく。
滲む夕焼けの中、ふと、空が黄金に輝いたように思えた。それは現実なのか、それとも幻なのか、彼女にはもうわからない。
ただ、胸に秘めた願いが、暖かな光を帯びるような感覚があった。
——そして。
マリアベルの視界は穏やかに閉じ、暗闇が全てを包み込んだ。痛みも、冷たさも、すべてが遠ざかっていく。
最後に残ったのは、村人たちへの尽きることのない想いだけだった。
それから、どれほどの時間が経ったのか——。
冷たい水音だけが響く川辺に、黒い影が二つ現れた。一人は長身の男、人形遣い。そしてもう一つはその肩に乗る黒猫のロゼだった。
『ひどい有様ね……死して七日、十日といったところかしら? 誰にも気づかれずに、寂しく、一人で……』
ロゼが低く呟く。その金色の瞳が、マリアベルの動かない身体を見下ろしている。男は無言で彼女の傍らに跪くと、その胸元に手を伸ばした。
マリアベルの胸には、光を失いかけた聖女の首飾りがあった。それは、彼女が神に祈りを捧げるたびに輝いていた、特別なものだった。
人形遣いはその首飾りを静かに取り外し、じっと見つめた。
彼の顔に浮かぶのは、いつものような無機質な無表情。しかしその無表情の奥には、どこか耐え難い重みを抱え込んでいるかのような陰が見え隠れする。
首飾りをそっと両手で包むと、人形遣いは微かに目を閉じた。言葉を持たぬ追悼の仕草。彼の唇がかすかに震えたが、音は漏れない。ただ、手の中の首飾りにわずかに力が込められる。
次の瞬間、彼はその首飾りを再び広げるように掌に乗せ、冷たい空気の中で長く見つめ続けた。それはまるで、今もなお宿るかすかな命の名残を感じ取ろうとしているかのようだった。
ロゼはなにかを言いかけて、喉元で言葉を噛み殺した。代わりに、静かな視線を人形遣いへと送る。彼が次になにをするつもりなのか、彼女には察しがついていた。
『……それを使うの?』
抑えた声で問う。呼魂の儀に——。
男は短く頷いた。その表情には、普段の無機質さに微かな色が滲んでいた。
「この娘の無念を晴らす。それだけだ」
その言葉に、ロゼの目がふっと見開かれる。
『そう……。グリモアとは関係ないけど、まあ、たまにはそんなのも悪くないわね』
薄く笑うその横顔に、どこか諦観のような静けさが宿る。
人形遣いは応えず、静かに目を閉じた。祈りにも似た沈黙が、一人と一匹のあいだに落ちる。やがて彼は、首飾りを手に立ち上がった。
それから、マリアベルの身体は丁重に埋葬された。その姿を見つめるロゼの胸には、どこか説明のつかない苦みが残った。
人形遣いは再び橋の下に戻り、首飾りを地面に置いた。その周囲に、ゆっくりと文様を描き始める。円を描く指先には一切の迷いがない。複雑な印が次々とその内側を満たし、やがて図形全体が微かに青白く輝き始めた。鈍い光が霧のように揺れ、闇の中をぼんやりと包み込む。
術式が完成すると同時に、周囲の空気が変わった。冷たい風が肌を撫で、次いで重く、圧し掛かるような気配が漂う。
光の中から輪郭が現れる。
それは——マリアベルだった。生前の姿そのままに、静かに佇んでいる。その顔はまるで眠っているように穏やかで、死の気配など微塵も感じさせない。
ロゼが男に視線を向ける。
『……このあと、どうするの?』
「まずは、この娘が何を見たのかを知りたい」
人形遣いの低い声が響く。その瞳は、ひたすら前方のマリアベルを射抜いたままだ。
ロゼは肩をすくめた。
『……もし突然死なら、記憶が曖昧になっているわ。自分が死んだことにさえ気づいていないかもしれないわよ。——儚音の鈴を使う?』
人形遣いはゆっくりと首を振る。その動作に微かな意図を感じたロゼは、少しだけ眉をひそめた。
『ふぅん……徐々に、ね』
短い答えとともに目を閉じたロゼの表情は、どこか微妙な安心感と、言い知れぬ不安とが入り交じっていた——。