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黒猫と人形遣いの禁呪録  作者: 白井ムク
第一章 マリアベル
14/50

14.思い出したのね?

 昼下がりの静寂の中、村外れの丘には、ただ風の音だけが響いていた。


 マリアベルたちは、村人たちの墓を築いていた。ひび割れた手で石を積み上げ、雨風に耐えられるようにと願いを込めながら、簡素な十字架を立てる。その一本一本に、失われた命の重みを刻むように、村人たちの名前を丁寧に彫りつけていく。


 その作業には、無言の祈りが満ちていた。生者の手が死者を弔うのではない。むしろ、失われた命が生者を見守るように、どこか厳粛で、崇高な空気が漂っていた。


「これで……みなさま、ようやく神の御許へ……」


 マリアベルの声は細く、かすかに震えていた。その祈りを捧げる手がかすかに揺れるのは、冷たい風のせいだけではなかった。


 黄金の髪は風に乱れ、やつれた横顔がどこか儚げに見える。彼女のすぐ傍らで、人形遣いの男は無言で手を動かし続けている。まるで機械のように、正確で力強い動きだ。彼の赤い瞳は何も映していないように思えるが、どこかその背中に宿る沈黙が重い。 


 村を見下ろす岩の上で、黒猫のロゼが静かに尾を揺らしていた。その動きはしなやかで優雅だが、どこか気怠さが滲んでいる。まるで、退屈という薄い膜に包まれながらも、すべてを見透かしているような、不思議な威厳を漂わせていた。


『……これで全部かしら?』


 ふいにロゼが呟いた。その金色の瞳が、マリアベルの顔をじっと見つめる。その問いは軽やかであるはずなのに、なぜか重みを感じさせる。


「ええ……たぶん……」


 マリアベルは小さく頷きかけたが、その言葉はどこか途中で途切れた。まるで、自分の中にある迷いを追い払おうとするかのように唇を噛む。


『……どうしたの?』


 ロゼは鋭く問いかけた。その声には、どこか彼女を急き立てる響きがあった。


「……いいえ……なんでも……ありません……」


 マリアベルの声は弱々しく、どこか頼りない。だが、その瞳に浮かんだ微かな戸惑いを、ロゼは見逃さなかった。

 丘の上の冷たい風が、三人の間を吹き抜けた。沈黙が重く漂う中、遠くで鳥の翼がはためく音が微かに聞こえた。


「……いえ、やはり、数が……合いません」

『数?』

「墓が、一つ足りない気がするのです……」


 マリアベルは胸に手を当てながら呟いた。その言葉は彼女自身をも戸惑わせるものだった。

 その時、風が丘の上を吹き抜けた。冷たい風が彼女の金髪を乱し、遠くの木々をざわつかせる。ロゼはちらりと人形遣いを見上げ、深くため息を吐いた。


『……それで、どうしたいの?』

「わたくし……もっと知りたいのです。この違和感の正体を……」


 彼女の言葉にロゼは少し目を細め、肩をすくめた。


『そうね、あなたのその顔を見ていると、放っておくわけにもいかないわね——』


 ロゼがゆっくりと口を開いたその瞬間、マリアベルの胸に奇妙な鼓動が響いた。まるで、隠された真実に触れる前触れのように。




『……あなたは、死んでいるのよ、マリアベル』




 その言葉に、彼女は息を呑んだ。


「……死んでいる? そんな……」

『あなたはすでに、私たちと出会ったあの橋の下で命を落としていたの』

「でも、どうして……こんなにも……」


 言葉にならない思いが胸を満たす。彼女の目に涙が浮かび、その熱が頬を伝って冷たい風にさらされた。その熱、肌の感覚すら、死したことを思わせないまやかしなのだろうか。生者と死者、両者を分け隔てるのは、そうした感覚の違いだと思っていたのに。


『信仰の強さかしらね。人は時に、自分の使命を背負ったまま生の執着を超えることがある。あなたは村人たちを救いたいという想いだけで存在しているの』

「そんな……わたくしが……もう死んでいるなんて……」


 言葉を絞り出した声は掠れ、どこか遠くで響くように空虚だった。

 マリアベルは立ち尽くし、手を胸元に当てた。その手には鼓動が感じられず、空虚な感覚だけが広がっている。


『それでも、あなたは祈り続けた。そして、村人たちを救おうとした。それはとても勇気があることだし、神に使える者として、立派なことよ』


 ロゼの声は柔らかく、けれど確信に満ちていた。金色の瞳がじっとマリアベルを見つめ、その中に揺れる悲しみを映し取る。


「……でも」

『ええ……死者のあなたを、あなたの神は救わなかった』


 マリアベルの涙がぽつりと落ちる。その姿を見て、ロゼはわずかに耳を伏せた。


『真実を知っても、あなたの祈りが偽りになるわけではないわ。それに……あなたがここまで導かれた理由も、まだ明らかになっていないの』


 ロゼの声はどこか深みを帯び、沈黙の重さを切り裂くように響いた。けれど、その言葉はマリアベルの迷いを完全に拭い去るには至らない。彼女は胸元に置いた手をゆっくりと下ろし、その問いを口にした。


「……わたくしは……どうして……」


 問いかけた声には、戸惑いと哀切が入り混じっていた。その瞳はロゼを見つめているが、どこか焦点が合っていない。まるで、自分自身の中にある答えを探しているかのようだった。


 ロゼは一瞬だけ視線を外し、昼下がりの風に揺れる丘の草をじっと見つめる。その姿は、なにかを決めかねているようにも見えた。


 ——と。


 無言を続けていた人形遣いが、外套の内側からなにかを取り出した。

 銀色に鈍く光るそれは、小さな呼び鈴だった。彼の指先に収まるほどの精巧なつくりで、冷たい光を放ちながら揺れている。


 人形遣いが手を振ると、澄んだ呼び鈴の音が、静かな丘の上に響き渡った。

 その音は、昼の穏やかな空気を軽やかに震わせるようでありながら、どこか深く沈んだ静寂を貫くような響きを伴っていた。


 マリアベルはその音を耳にした瞬間、身体を硬直させた。まるで、音が全身を駆け巡り、見えない糸が心を引き絞るかのように。


「この音……」


 かすれるような声が、マリアベルの唇からこぼれた。胸の奥深くで、忘れていたはずのものが、ゆっくりと目を覚ます感覚に襲われる。

 呼び鈴の音はなおも微かに続き、重なり合う記憶の扉を次々と叩いていく——




 ——橋の下。


 冷たい水音が遠くから聞こえる。夕暮れに染まる赤い空の下で、差し出された無骨な手。その手を見上げると、血のように赤い瞳が彼女をじっと見下ろしていた。


 そして、その隣には黒い影。優雅に揺れる尾と、金色に輝く瞳——




「——あのとき……」


 記憶が一筋の光となり、彼女の中を鮮やかに駆け抜けた。


 マリアベルは息を呑んだ。その瞬間、足元が揺らぎ、現実の地面が一瞬だけ遠く感じられる。全身が過去に引き込まれるような感覚に囚われ、手が震えた。

 ロゼが軽く耳を動かし、彼女を見上げた。


『思い出したのね?』


 黒猫の声には、いつもの軽やかさはなかった。けれど、どこか安心したような響きがあった。


 マリアベルは小さく頷く。その瞳には、失われた記憶の光と影が揺れていた。銀色の呼び鈴は、人形遣いの手の中で静かに揺れ、最後の音を放って沈黙した。

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