13.人間が生きる目的なんてそれぞれよ
「大将ぉ、こっちも片づいたぜーっ!」
いつの間にか戦いを終えた大男が、大剣を肩に担ぎながら呑気に声を上げた。
「ふぅ……まだ足りないけど、まあこれくらいで勘弁しとくか……」
魔女が肩を揺らしながら呟く。全身を包んでいた炎が徐々に消え、再び静寂が戻ってきた。
「私たち、役に立ったかい、旦那?」
『役立たずの木偶が自分で後始末をつけるのは当たり前でしょう?』
ロゼが皮肉たっぷりに返すと、大男と魔女が同時にギロリと睨む。
「おいおい、性悪猫! てめぇには訊いてねぇ!」
「そうさ! 旦那に訊いてるのさ!」
ロゼはため息交じりに「ニャア」と一声鳴いた。
『まったく、これだから無駄口叩くのが好きな木偶どもは……。さ、さっさと終わらせちゃいましょう』
人形遣いがちらりとマリアベルを見た。
「トランクを」
「は、はい!」
マリアベルは慌てて祈りを解くと、身体を包んでいた魔法陣の光がすっと消えた。
そして近くに置かれていたトランクを持ち、人形遣いのもとへ走り寄る。
「こちらを……!」
渡そうと手を差し出した瞬間、目が合った。その赤い瞳に、マリアベルは息を飲む。
燃えるように赤いその瞳。
だが、ただ冷たく見下ろすだけではなく、どこか懐かしさを含んだような——まるで遠い昔に交わした視線を思い起こさせるような、不思議な感覚が胸をよぎる。
(——この方と、会ったことが……?)
胸の奥がざわつく。
けれど、記憶を辿ろうとしたその瞬間、赤い瞳がすっと逸らされた。人形遣いはなにも言わず、静かにトランクを受け取ると、祭壇のほうへと歩みを進めていった。マリアベルはその背を見つめながら、自分の中で膨らみ始めた疑念に戸惑っていた。
いつか、どこかで——はっとすると、人形遣いはすでにそこになかった。
祭壇の前に立つ人形遣いの姿が、厳粛な雰囲気を纏っているように見えた。彼は静かにトランクを開け、中から鎖で巻かれた古びた書物を取り出した。
あの本——ずっと気になっていたそれは、いったいなんなのだろうか。
「鍵を」
人形遣いが短く言うと、祭壇の上に座っていたロゼがしなやかに首を伸ばした。
首輪に取り付けられていた小さな鍵を、人形遣いが外す。その手際は無駄がなく、慣れた動きだった。鎖の錠が音を立てて外されると、その瞬間、本がわずかに震えるように見えた。
マリアベルは思わず一歩下がり、恐る恐る口を開いた。
「いったい、なにを……?」
『グリモアを封印するのよ』
ロゼが落ち着いた声で答える。
「封印……?」
『そう。こんな代物、人間が扱えるものじゃないわ。これは悪魔の記したもの、つまりは「悪」そのもの』
「悪魔が……なんのためにこんなものを?」
『簡単なことよ。人間に悪い知恵を授けるため。人間は悪に染まりやすく、そして操りやすい……ウェルズ神父のようにね。魔力に魅了され、やがてその力に喰われる。そうして最後には、悪魔の手の平の上——やつらの好き放題よ。醜悪だわ』
ロゼの言葉は淡々としていたが、その冷徹な説明に、マリアベルは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「ウェルズ神父が、どうしてそんな……?」
『さあね。そんなもの、知る必要があるかしら?』
ロゼはあっさりと言い切る。
たしかに、その理由を今さら知ったところで、村が救われるわけでもない。
『でも、これはやっぱり写本ね。こんな低級な奴しか呼び出せないなんて、本当にくだらないわ』
ロゼはつまらなさそうに「ニャア」と鳴き、祭壇から飛び降りると、マリアベルの足元に寄り添うように立った。
『さあ、封印が始まるわよ——』
マリアベルは自然と息を詰めた。人形遣いの手にある本が、わずかに震え始める。
次の瞬間、それは青白い光を放った。光はただの光ではなかった。冷たい空気を纏い、祭壇全体を包み込んでいくようだ。
その光景に、マリアベルは言葉を失い、ただ見守ることしかできない。
「あの本はなんなのですか?」
マリアベルが怯えながらも問いかける。
ロゼは一瞬人形遣いのほうを見やり、肩をすくめた。
『「禁書録」、またの名を「隠された本」……封印指定を受けた魔導書をまとめたものよ』
「魔導書を……? あの方が、そんなものを……どうして?」
『人間が生きる目的なんてそれぞれよ。あの男はそれを望んだからこうしているだけ。旅の人形遣いだったり、魔導書を封印する「グリモアルカー」の道を選んだりね』
「グリモ、アルカー……」
『……名前なんて、どうでもいいの。覚える必要はないわ、シスター』
ロゼの声は淡々としている。だがその響きの中には、どこか諦観じみたものすら含まれていた。
「しかし……どうして人形遣いさんはこんな危険な道を望んだのでしょう?」
『さあね。どうしてかしら?』
ロゼは「ただ」と言って、一瞬人形遣いの横顔を見つめる。
『変わり者なのよ、きっと』
その言葉には意味深な響きがあった。
マリアベルはそれを感じ取りながらも、深く掘り下げるべきではないと思った。問いを飲み込み、人形遣いが封印の儀式を進める様子をただ見守る。
(あの方は、いったいなぜ……?)
知りたい——その思いが胸の内にふつふつと湧き上がる。
それは単なる好奇心かもしれない。だが、その好奇心の先には、深い闇の世界が広がっている。そこに足を踏み入れるということは、きっと戻れなくなるということ——。
今日見た光景は、その一端に過ぎない。ロゼと人形遣いにとっては日常茶飯事のことかもしれないが、マリアベルにとってそれは非日常であり、禁忌の領域だった。
その世界に近づけば、きっと、二度と引き返せなくなる。
『始まったわね』
ロゼの声が現実に引き戻す。
「これから、どうなるのです?」
『まあ、見てなさい』
その瞬間、祭壇の上のグリモアが宙に浮いた。しかし、マリアベルは驚かなかった。すでに、不思議という感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
グリモアはゆっくりとめくれ始める。
その間から、なんとも形容しがたい、いびつな形の文字が浮かび上がる。
『魔導書っていうのは、悪魔が仕掛けた罠なの。ああやって隠された悪魔の文字を引き出してやるのよ。それを整列させると——悪魔の真の名前が現れる』
「名前……? それが現れると、どうなるのですか?」
『簡単なことよ。名前を暴かれた悪魔は力を失い、グリモアはただの紙束になる。それから……』
ロゼの説明が終わる前に、宙に浮かぶ文字たちが整然と並び始めた。悪魔の文字は、マリアベルには意味もわからないし、読むこともできない。
だが、その文字たちは次第に人形遣いの手元に引き寄せられ、彼が持つ禁書録に次々と刻まれていく。
——と。
グリモアがぼうっと燃え上がり、灰へと変わった。——終わったらしい。
『ふぅん……やっぱりひどいタイトルね。吐き気がするわ』
「……あの、なんと書かれていたんですか? 悪魔の名前、なんですよね……?」
マリアベルが恐る恐る訊ねると、ロゼは金色の目でじっと彼女を見つめる。
『シスター、好奇心って時に命取りよ。知ってしまったら……あなたも悪魔に取り憑かれるかもね?』
ぞっとして思わず目を背けるマリアベルをよそに、ロゼは「ニャア」と軽く鳴くと、一つ欠伸をして、のんびりと毛繕いを始めた。
まるで、この場がただの昼下がりであるかのように——。