11.ほんと、役立たずなお人形さんたちね
ウェルズ神父——いや、もはや悪魔と呼ぶべきか。
その口から放たれた咆哮は、金属を爪で引っ掻いたような不快な音とともに教会中に響き渡った。その音が耳に届いた瞬間、マリアベルの頭に鋭い痛みが走る。鼓膜を裂かれるような感覚に、彼女は膝をつき、思わず耳を塞ぐしかなかった。
「妖魔、呼ビ出シタ! モウ、オ前ラ、オシマイ!」
悪魔は、高らかに嘲笑を響かせる。
マリアベルはその言葉に息を呑む。妖魔——その言葉が彼女の記憶を刺激した。昨夜、人形遣いが一瞬で退けた瘴狼たち。その恐ろしい姿が脳裏に甦る。
(でも、人形遣いさんなら……)
昨夜の圧倒的な剣技を思い返し、マリアベルはその背中を信じる心を強く抱く。瘴狼の群れさえものともしなかった彼ならば、どんな妖魔でもきっと——。
だが、その希望は次の瞬間、大きな音によってかき消される。
「なっ……!」
教会の横壁が突如爆ぜるように砕け散り、巨大な穴が開いた。破片が床に飛び散り、埃が舞い上がる中、マリアベルはその先に蠢く異形に目を奪われた。
そこに見えたのは、巨大な、鋭い爪。
鈍く光を帯びたその爪が、教会の光を反射しながらゆっくりと蠢き出す。
(瘴狼のものではない……!)
その爪は瘴狼を思わせる形状だが、あまりにも巨大で異様だ。昨夜の瘴狼たちが人形遣いの手にかかるまでもなく倒されたのなら、この妖魔はそのすべてを凌駕する力を秘めているに違いない。
教会の壁を破り現れた妖魔の姿は、目にした瞬間、言葉を失わせるほどの異形だった。
その巨体は瘴狼を遥かに超え、人の身では到底かなわない威圧感を放っている。黒い霧を纏うように体表が薄暗く揺らぎ、その内側には獣と爬虫類が混ざり合ったような、醜悪な筋肉の塊が蠢いていた。
頭部は狼を思わせる形をしているが、目の位置が異様に高く、左右に裂けた口は顔の半分以上を占めている。その口には剣のように鋭い牙が幾重にも並び、唾液が毒のように滴り落ちて、床を焦がしている。
背中からは、漆黒の骨のような突起が放射状に突き出しており、それがまるで悪魔の翼の名残のようにも見えた。胴体には無数の目のような模様が浮かび上がり、それらがわずかに瞬きをしているかのように見える。
模様は瘴気の流れに合わせて波打ち、見る者の心を惑わせるかのような不気味な動きを繰り返している。
四本の太い脚はそれぞれ獣のように毛深く、巨大な爪が鈍く光る。その爪先は床を掻き裂くように動き、深い傷跡を刻み込んだ。
尻尾は長大で、先端が刃物のように鋭利に尖り、周囲の空気を切り裂くたびに不気味な音が響く。その尻尾が一度動くだけで、教会内の空気が震え、木造の椅子が一つ、二つと崩れ落ちる。
「なんて、恐ろしい姿なの……」
マリアベルは震える声で呟いた。
その妖魔は人の言葉が届くような存在ではない。見るだけで精神を蝕まれるような恐ろしさに、彼女の膝は自然と崩れかけた。
だが、それだけでは終わらなかった。
巨大な妖魔の陰から、次々と異形の存在が姿を現したのである。蛇、狼、熊——それぞれの形をした妖魔たちが、瘴気を纏いながら教会の中に侵入してくる。さらにその後ろには、生気を失った動く死体たちが、ずるずると不気味な音を立てながら列をなし、ゆっくりと進んでいた。
マリアベルはその数に戦慄した。
膝が震え、目の前が暗くなるような感覚に襲われる。
——と。
『よくもまあこれだけの連中を連れてきたものね』
マリアベルの横で、静かにロゼが口を開いた。金色の目が薄闇の中で輝きを放つ。
『犬っころはともかく……さすがにこれは不愉快だわ』
ロゼの声には怒りが混じっていた。
『シスター、守護の方陣を張るわ。その円の中でひたすらに助かりたいと念じなさい』
言葉と同時に、マリアベルの跪く地面が青白く光り始めた。その光は点となり、次第に線を描き、幾何学模様のように直線と曲線が重なり合っていく。瞬く間に、それは複雑な光の魔法陣となって教会の床に広がった。
驚きを通り越して、マリアベルはロゼの言葉に従わなければならないと思った。経典の一節を心の中で唱え始めると、魔法陣の光はさらに濃く、強くなった。
『少しでも気を抜いたら解けるわよ。そうなったら——まあ、そのときは自己責任ね』
ロゼは何気なく言い放ち、「ニャア」と一声鳴いて素早く人形遣いの肩に飛び乗った。
『さて、どうするの? さすがに数が多いわね』
「すでに手は打ってある」
短く答えた人形遣いに、群がる妖魔たちが敵意を向けた。低い唸り声が重なり合い、教会中に反響する。
「魔獣ドモ、引キ裂ケ! 喰ラエ! 血肉ニシテ骨マデ残スナ!」
悪魔が狂気じみた笑い声を上げる。その声は、妖魔たちを鼓舞するかのように響き渡った。
——と。
またしても教会の壁に衝撃音が走る。熊のような妖魔が開けた大穴の対面に、新たな大穴が穿たれた。
「これ以上増えたら……」
マリアベルは必死に祈り続ける。
けれど、恐怖で心が揺らいだ瞬間、魔法陣の光がふっと弱まった。
(いけない……!)
心を奮い立たせるように経典の一節を必死で唱え直す。手出しできないなら、せめて足手まといにならないように——そう自分に言い聞かせながら。
すると——
「たぁーく、まだこんなに残ってやがるのかよ……」
低く響く、どこか投げやりな声。
その声に続くように、もうひとつ、高慢そうな声——
「だから言ったでしょ? あんたが雑にそれを振り回すから、余計な時間を無駄にしたんじゃないの」
「ああん?」
「なにさ?」
「俺ぁそれなりに片づけたってんだ。反対側までは手が回らなかっただけだろ!」
「言い訳する男なんて最低よ」
「黙れ魔女」
「剣士ごときが口答えとはね、笑わせる」
——と。
霧の向こうから姿を現したのは、言い争う若い男女だった。
ひとりは、時代遅れの白い甲冑を着込んだ巨漢の男。肩に身の丈ほどもある大剣を軽々と担ぎ、血気盛んな雰囲気を全身に漂わせている。
もうひとりは、魔女のような出で立ちの美しい女。深く被ったとんがり帽子のつばを持ち上げながら、不敵な笑みを浮かべていた。左手には杖を握り、余裕のある仕草でゆったりと歩いてくる——やはり魔女の格好だ。
その異様な光景に、マリアベルは思わず目を見開いた。
(どこかで見たような気もするけれど……誰……?)
思い出せない。
けれど、それよりも目の前の状況のほうが異様すぎた。
「よぉ、大将。言われた通り、やれるだけやったぜ」
「私のほうが多く倒したけどね。ま、いつものことだけど」
「てめぇが後衛から美味しいところを掻っ攫うからだろうが!」
「前衛のあんたが未熟なせいで、仕方なく私が手を貸してやってるだけでしょ?」
ふたりはなおも口論を続ける——いや、それどころではない。目の前には、悪魔と化したウェルズ神父、そして無数の妖魔の群れがいるのに。
マリアベルは混乱を隠せなかった。
その様子に、ロゼがやれやれと肩をすくめる。
『ほんと、役立たずなお人形さんたちね。こんなに討ち漏らしちゃダメじゃない』
呆れたように言葉を投げかけると、大剣使いと魔女のふたりが、同時にロゼを睨みつけた。
「性悪猫、てめぇに言われる筋合いはねぇ」
「フン……で、旦那。私たちどう動けばいいのさ?」
魔女が人形遣いに目を向け、問いかける。
人形遣いは軽く溜息をつき、静かに口を開いた。
「妖魔どもを討て」
その低く静かな声に、場の空気が変わる。
大剣使いの口元に笑みが浮かび、魔女の目には闘志が宿った。
「へへっ、任せときな!」
「やれやれ、仕事なら仕方ないわねー……」
次の瞬間、ふたりが動き出す。
が、その姿は、ただの人間の域を遥かに超えていた——。