10.どんな選択をしても後戻りはできない
暗がりの教会の中、シュッ——と、風を斬るような音が響いた。
その瞬間、それまで人形遣いに群がろうとしていた死体たちが、ぴたりと動きを止める。
刹那、まるで糸の切れた操り人形のように、ひとつ、またひとつと崩れ落ちていった。重たい肉体が床に倒れ込む音だけが、教会の静寂を壊す。
マリアベルは目を見開き、その光景を呆然と見つめた。
「今……人形遣いさんは、なにを……?」
震える声で訊ねると、ロゼが肩をすくめながら答える。
『死体を操る魔力の絲を断ち斬ったのよ』
「魔力の絲を……斬った……?」
ロゼはトランクの上で軽く尾を揺らしながら、あっさりとした口調で説明を続ける。
『死体はただの器、肉塊……意思なんてないわ。操るには術者と死体を繋ぐ魔力の絲が必要なの。だからその絲を断てば……ほら、こうなるわけ』
ロゼは崩れた死体の山をひと睨みし、つまらなそうに欠伸をした。
『——ま、あの男なりの優しさね。たまには良いところがあるじゃない』
「優しさ……?」
ロゼはちらりと人形遣いを見て、小さく鼻を鳴らした。
『ええ、優しさよ。普通なら、あの死体たちごと術者を焼き払うのが手っ取り早いわ。でもそれをしなかった。——まあ、面倒くさかっただけかもしれないけど』
「でも、どうして……?」
マリアベルは崩れた死体を見つめた。それらは今や動く気配もなく、ただの抜け殻に戻っている。それなのに、その場の空気は冷たく、恐怖が消えたわけではなかった。
『あなたがわからないなら、それでいいのよ。わかる必要もないし、訊く必要もない』
ロゼの言葉は突き放しているようで、どこか優しさも含んでいた。
「でも……これで、村人たちは——」
言いかけた言葉を、マリアベルは飲み込む。あの倒れた死体たちが村人たちだった。誰もが彼女にとって馴染み深い顔ばかり。
「……助けられなかったんですね」
消え入るような声で呟いた彼女に、ロゼは軽く目を細めた。
『……死んだ者を助ける術はないわ。でも、まだ間に合うかもしれないものもある』
「まだ……間に合う?」
『あのグリモアよ。あれを残したままにしておけば、また同じことが起こる。悪魔の力を封じるか、焼き払うか、それを決めるのはあの人だけど——』
言いながらロゼは、人形遣いの背をちらりと見る。
「人形遣いさん……」
マリアベルもその背中に視線を向けた。
男は既に祭壇の前に立ち、グリモアを静かに見下ろしている。その赤い瞳は炎のように光り、不気味な瘴気を放つ本に睨みをきかせていた。
『どんな選択をしても後戻りはできない。でも、未来を決めるのは、あのグリモアをどうするかよ』
ロゼの声に含まれた緊張感が、マリアベルの心を締め付けた。この村を救うために、自分にはなにができるのだろう。その答えを見つける前に、静寂を切り裂くように人形遣いの低い声が響く。
「下がっていろ」
その言葉に、マリアベルとロゼは一瞬動きを止めた。
『——いよいよね』
ロゼが小さく呟いた時、祭壇の上のグリモアがかすかに震え、宙に浮き、禍々しい黒い光を放ち始めた。それはまるで、自らの存在を脅かす者への反発のようだった。
マリアベルはごくりと唾を飲み込む。人形遣いの手がゆっくりと腰の剣へと伸びる光景が、彼女の目に焼き付いた。同時に、ウェルズ神父の変わり果てた姿——悪魔が祭壇の向こうで動きを見せた。
悪魔は、笑いとも苦しみともつかない声を喉から絞り出す。その口は裂けるように開き、牙の間から黒い唾液が糸を引いて滴り落ちている。
「アアア……オマエラ……コノオレヲ……殺ス気カ……!」
その声は、もはや人のものではなかった。低く濁った咆哮は、まるで地獄の底から響いてくるようだ。
「オレハ、アーリア教ノ正統ナ使徒ダ! 神ノ意志ヲ代弁スル者ダ! 神ノ名ノ下ニ……オマエラ、愚カナ者タチヨ……」
ウェルズ神父は巨大な腕を振りかざし、祭壇に両手を叩きつける。
その衝撃で教会全体がぐらりと揺れ、壁に掛けられていた聖母像が崩れ落ちた。
「見ロ、この力ヲ!オレハ神ニ近ヅイタ存在ダ! 悪魔ナドデハナイ……!」
その言葉と裏腹に、ウェルズ神父の身体はますます異形を増していく。背中には骨が突き出るように角が生え、黒い翼が裂けるように広がった。
その翼が動くたび、腐敗した肉片が剥がれ落ち、床にぬめり声を立てて落ちる。
『哀れね……どれだけ嘘を吐いても、その姿が答えよ』
ロゼが冷たい声で吐き捨てた。
「黙レ、汚レタケダモノ! オレノ前デハ、オマエモ……エモノニ過ギナイ……!」
ウェルズ神父は床を蹴り、異常な速度で人形遣いに向かって突進した。その姿はまさに猛獣そのもの。振り下ろされた鋭い腕が空気を裂き、床に爪痕を刻む。
「危ない!」
マリアベルが叫ぶが、次の瞬間、人形遣いが剣を横に薙いだ。その一閃は速すぎて、目に映らない。
「……グフ……ッ……」
ウェルズ神父の動きが止まり、人形遣いから距離をとる。胸元には深く切り込まれた裂け目があり、そこから黒い血が溢れ出していた。
「ワタシハ……神ノ使イ……コノ世デハ……不滅ダ……」
崩れるように膝をつきながらも、彼の口元には笑みが浮かんでいる。
黒い血がどくどくと溢れ出す——が、その傷口は不自然な速さで動き始めた。裂けた肉が蠢き、まるで見えない糸で縫い合わされるかのように、血肉が結びついていく。
血に濡れた皮膚が再び繋がると、その表面にはひび割れのような傷跡が浮かぶものの、次第にその跡さえも消えていく。
「……ククク……ワタシハ……フメツ……」
ウェルズ神父の言葉にあわせるように、裂けた胸が完全に閉じた。流れていた黒い血は地面に落ちる前に霧のように蒸発し、その場の空気に混ざり込む。
「オマエラ……全員……トモニ堕チルノダ……アノ世ノ闇ヘ……」
その言葉と同時に、教会全体が暗い光に包まれた。グリモアから吹き出す黒い瘴気が教会を覆い尽くし、目の前の光景がぼやけ始める。
『妖魔をおびき寄せているわっ!』
ロゼが警告を発する中、人形遣いは再び剣を構えた。