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黒猫と人形遣いの禁呪録  作者: 白井ムク
第一章 マリアベル
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01.着いて早々「当たり」を引いたのかもね

 その日、一人の男と一匹の猫がエイジス国・ポールズの港に降り立った——




  † † †




 港と街道を結ぶ長い橋の上、シスター・マリアベルは途方に暮れていた。


(どうして、どなたも耳を傾けてくださらないのでしょう……)


 冬のはじまり。海風は冷たく、遠い空には雪雲の影がちらついていた。沈みゆく太陽が海面を赤く染め、港には最後の旅船が滑り込んでいる。夜の航海は禁止され、これは彼女にとって最後の頼みの綱だった。


 橋を行き交う人々は、昼よりもさらに疎らだった。

 足早に去る彼らはマリアベルの声を無視し続ける。威勢のいい船乗りたちでさえも、尼さんにはちょっかいをかけない、そんなところか。ちらりと彼女を見る者もあったが、やはり一様に、何事もなかったかのように通り過ぎていく。


 マリアベルは、また途方に暮れた。


(信仰は、もう地に落ちてしまったのでしょうか……)


 救いはどこにあるのかと天を仰いだ。瞳に憂いを湛えたその顔が、日没の光に淡く照らされる。腰まで届くブロンドの髪をきつく編み込み、慎ましやかにベールの下に収めている。気品を漂わせる美しい顔立ちには、しかし薄く影が差している。その影は、擦り切れた服や使い古しのブーツに宿る日々の苦労の色と響き合い、まるで彼女自身が薄暮に溶け込む幻影のように儚く見えた。


(諦めるのは早いわ。きっと誰か、立ち止まってくださる)


 ——と。


 そう思い直し、もう一度声を張ろうとしたその時だった。ほんの一瞬目を伏せた隙に、目の前に黒い影が立っていた。


「……ひっ!」


 驚きのあまり、小さく悲鳴を上げる。

 夜闇の中から現れたその影は、長身の男だった。黒い外套に身を包み、深く帽子をかぶっている。死人のように白い顔が浮かび上がり、不気味な赤い瞳がこちらをじっと見下ろしていた。


 ——そう。

 彼の両眼は血のように赤く、闇の中で異様なまでに鮮烈に輝いていた。


 しかも、その手には、女一人入れられそうな使い古した大きなトランク。そして左の腰元には剣をぶら下げている。見るからに怪しい風体だ。


 不吉、危険——そんな言葉が思い浮かぶ中、マリアベルは身を引きたい気持ちを必死に抑え、か細い声を絞り出す。


「あ、あの……どなたでしょうか?」


 男は答えない。ただ黙ったまま立ち尽くしている。いよいよマリアベルは後退りをした。


 ——と。


 その肩に、黒い影がひらりと跳ね上がった。闇に紛れるような黒い毛並みの猫。よく見れば、首の下辺りに白い毛が十字に生えている。




『警戒しなくても大丈夫。この男ったら、ただ無口なだけだから——』




 と、今度は突然女性の声が響く。

 マリアベルは息を呑んで辺りを見回したが、声の主らしき姿はどこにもない。


『シスター、ここよ、ここ。この男の肩の上』


 肩の上——黒猫。目を凝らすと、まさにその黒猫が、優雅にしっぽを揺らしながら彼女を見つめていた。


「もしかして……あなたが、喋ったのですか?」


 黒猫は「ニャア」と返事をする。その仕草にはどこか気品と余裕があり、都会風の気取った声で、こう言った。


『驚いた? シスター、初めて見るのね、私みたいな猫を』


 その軽やかな言葉に、マリアベルは唖然としてしまう。目の前の出来事が信じられず、無意識に問い返した。


「……初めてです、喋る猫にお会いするのは」

『そうでしょうね。でもね、世の中にはいるのよ、こういう猫も』


 黒猫は落ち着いた様子で彼女を観察している。マリアベルはつい先ほどまでの不安を忘れ、気づけば猫に視線を引きつけられていた。


『それで、シスターはこんな寒い中、なにをしているの?』

「……わたくしの村を救いたくて……」


 思わずそう答えてしまう。黒猫の目がわずかに輝いた。


『村を? なにから救うの?』

「それが、奇妙な病が蔓延しているのです」

『どんな病?』

「気力を失うと言いますか……なかなかに説明しづらいものです」


 マリアベルの曖昧な答えに、黒猫は興味深げに頭を傾げる。その視線が隣に立つ男に移った。


『着いて早々「当たり」を引いたのかもね。あなた向けの案件かもしれないけれど、どうする?』


 どこか茶化すような口調だが、その言葉には妙な確信が宿っている。

 男はわずかに眉間にしわを寄せ、短く息を吐いた。その赤い瞳が、冷たく周囲をなめ回すように動く。そして、低く抑えた声で短く呟いた。


「行きながら話せ」

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