二人の老紳士とモーニングカレー
京成電鉄の駅の一つを降りた所に、むかし通っていた喫茶店がある。学生だった私にとって、安くコーヒーが飲めて美味しいボリュームある料理が食べれるのが良かった。探せば他にもあったと思う。でも、私はそのお店に引き寄せられていた。
今朝も口開けの時間にお店に寄った。朝御飯代が貰えた時は、とくに早くなる。朝一からゆったり喫茶店に来るお客さんなんて、毎日のルーティンになっている常連客が多いんじゃないかと思う。私の勝手な想像だ。
「おはようございます」
階段下のショーケース前に、OPENの札と看板を出す見慣れた店員さんに、声をかけられた。「いらっしゃいませ」ではなく、「おはようございます」か。私も常連客の一人になった感じで少し嬉しい。
店員さんに続いて階段を上がり、私は一番の席に座る。一番乗りというのは、他に誰もお客さんがいないので貸し切り感を味わえて、なんとなく気分が高まる。
店員さんがお水とメニューを持ってやって来る。彼女は先に店内に入りコーヒーメーカーのスイッチを入れていた。出来る店員さんとの、一瞬の駆け引きがそこにある。だってアイスコーヒーを頼むかもしれないわけだから。
しかし、私はコーヒーを頼むことを完全に読まれていた。あのスイッチは、店員さんの経験が押させていたのかもしれない。
「モーニングのカレーをホットコーヒーで先にお願いします」
よくわかってらっしゃる。もっと暑い時期ならばともかく、懐の寂しい学生には、おかわり自由のコーヒーの魅力にあがらえない。
そしてモーニングカレー。ここのカレーは少々スパイシーだ。材料は家庭のカレーに近い。豚肉、人参、玉葱、じゃがいも、市販のカレー粉にエスビーのカレー粉。赤い缶のS&Bのやつだ。その他にクミンとガラムマサラと書かれたスパイスが投入されている。
好みにもよると思うけれど、火力の高いガスを使う炊飯器で炊かれた白飯とマッチして美味い。モーニングだと、平らなお皿に白飯を半分隠す感じでカレールーがかけられた形で来る。
普通に頼むとあの銀の食器「グレービーボート」や「ソースポット」と呼ばれている入れ物にカレールーが入って来るので、テンションが上がる。
カレーを頼むと店内にカレーの匂いが広がり、後からやって来たお客さんの脳に強烈に訴えかけるのも、お約束だ。
カレーをあっという間に平らげてしまった私はコーヒーのおかわりを頼む。口開けに入ったのに、一番の席に座ったのには理由がある。
本当はカウンター席と呼ばれる三人かげの独立した席か、一番奥の窓際の二人用の席に座りたかったのだ。
でもその二つはこの店の聖域。お昼時や他に空いていない時は別として、朝方は決まってそこに座る常連客のために、他の常連客が空けていた席。
「決まりはないんですけどね」
お店に慣れた頃に、そこに座る二人の老紳士達について思わず聞いてしまった。どうもお店が出来た頃からの常連客らしく、なんとなくみんなが遠慮するそうだ。
別にどこに座ろうが問題はないのだけど、カウンターに座る老紳士は、ホットコーヒーを一杯、タバコを一本燻らすだけで颯爽と帰る。
長い時もある。でもコーヒーは一杯だけ。店員さんもわかっていて、無言で言葉を交わすやりとりが、見ていて楽しい。
もう一つの奥の席は大柄な老人。狭い席にわざわざ座らなくても、そう思ったけれど、こちらもコーヒーは一杯だけ。ただお水を一回注いでもらう。
書類仕事なのか、何やらテーブルに広げて書き込んでいる。病院の院長先生だと後で知った。コーヒー一杯で、お店が混雑し始めると、退散する。
新参の私にはわからないけれど、二人の老紳士は、ずっとこの喫茶店と一緒に静かに佇みながら歴史を積み重ねて来たんだろう。
好きな席に座れる権利は、新参だろうと、古参だろうと変わらない。でも、紡いで来た歴史と、静かに喫茶店の景色に溶け込む老紳士たちの姿を見ると、自然とその席が空くのがわかる気がした。
ここはきっとそういう空間。美味しいのだけれど、物思いにふけるのに、ちょっぴりカレーの香りが邪魔しちゃうなと思った。
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この物語は喫茶店での出来事です。小さな居酒屋や、回らない寿司屋など固定客の付くほどに美味しい店、雰囲気の良い店は、常連客の座るポジションが決まっている事が多い気がします。
新参者からすると同じ客なのに、時に理不尽な扱いを受けることもあります。それを受け入れ同調していって常連客の仲間入りを果たすこともあるでしょう。感じ悪いと思い、二度と行くかとなることもあるでしょう。その後また同じ店に行くのてどうかは人によって違うと思います。
今回の主人公は、この喫茶店に強い共感性を感じて通い出します。お客さんと店員さんが作る空間に、自分から波長を合わせて同調して受け入れたようなものでしょう。
見る人、読む人によっては悪しき慣習に映るかもしれません。なかには同調圧力に屈したように感じるかもしれませんね。
ですが、歴史を作るのは人だと思っております。お店を維持し頑張ったのは、お店の経営者や店員さん達なのは間違いありません。
でも今回出てきた老紳士達のように、長い間、陰ながら支えている人達もいたから続けて来られたのだろう事は想像出来ます。
雰囲気が最高、料理も美味いし店員も優しい。だけど自分に合うか合わないかは行って見るまでは結局わからないものなのでしょう。
公式企画、秋の歴史2023 第三話目となります。
※ 第一話と第二話に、作中に登場する料理名を加えました。