ジャムおじさんとロシアンティー
時代は平成。歴史的には浅くなりますが、暇つぶしにコーヒーや紅茶を飲みながらお楽しみ下さいませ。
二十年以上前の話しになる。私には学生時代に通っていた喫茶店があった。その店は京成電鉄の駅近くの商業ビル群の一つにあった。
駅のホームから東口へ降りてゆくと、小さな駅前ロータリーが見える。初めて来たときは、利用客の数の割に手狭な駅前通りだな、そういう印象だったのを覚えている。
一本しかない商店街通りのビルのひとつに、目指すお店があった。
その喫茶店はわりと急な階段を登った二階にある。エレベーターなどはない、当時でも古いビルだったと思う。登り口には昭和レトロを漂わせるショーケースに、喫茶店のオリジナルのロゴの入ったコーヒーカップや珈琲の豆などが飾られている。
その手前にはメニューの看板が置かれ、お昼時になると今日のオススメメニューが提示されるのだ。
階段を登ると自動ドアの扉が開きカランコロンと音がなる。
「いらっしゃいませ」
ジャズの音楽と、小気味良い感じの店員の声。コンクリートのビルの中に、木とレンガ造りの内装。使い込まれたソファ。コーヒーショップと言いながら、実に豊富なメニューが私を出迎えてくれる。
私がこの店に足繁く通うようになったのは、テナント店ながらホットコーヒーが安く飲める事と、おかわりが自由な事だ。そして朝の十時までやっているモーニングセットもお得な上に、三つのセットにカレーモーニングなどもあって、頭を悩ませてくるのだ。
「ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さい」
氷のと水の入ったグラスに、メニューを置いて、店員がそう話しかけてくれる。私は臆病なので、声をかけて店員を呼ぶのが苦手なのだが、この店はホールと厨房の中の人まで、さり気なく様子を伺ってくれるのが好きだった。
メニューから顔をあげると、店員さんが他のお客さんにコーヒーのおかわりを尋ねながら、伝票を持って寄って来ていた。
「すみません、Aセットでホットコーヒーをお願いします」
さり気なく注文しやすいタイミングを伺って、声を掛けやすくしてくれる。なんとも細かい気遣いがそそる。
私の今日のチョイスはモーニングセットのAだ。三種類のパン類のモーニングセットは、中央にゆで卵を載せる専用のプレート。ミニサラダにはトマト、きゅうり、レタス、千切りキャベツにコーンなど入っている。上にかかるオレンジ色のサウザンドレッシングが映える。
ちなみに飲み物は、ホットならコーヒーか紅茶、アイスもコーヒーか紅茶が選べる。ホットコーヒーのみがおかわり無料だ。コーヒー代とにワンコインプラスでモーニングが味わえる。懐が寂しい時にも安心して利用出来るお店は嬉しいものだろう。
Aセットは厚切りトーストにバターが塗られて、いちごジャムがついている。厚さは四枚切りの食パンといったサイズだが、普通のパンより山のある分お得な感じがまた嬉しい。
そしておまけについて来るジャム。学校の給食で出るような小分けされたあのジャム。こいつをパンに塗るか、持って帰るか悩むのだ。どうして悩むのかと言うと、それはジャムおじさんのせいだ。
ジャムおじさんっていうのは私の勝手につけた常連さんのあだ名だ。野球のチームの帽子に丸っぽい眼鏡、スタジャンにジーンズと、おじさんのわりに小洒落てる。ただちょっと体形はふくよかで、喋り方やお顔が俳優の西田敏行みたいな方。
ジャムおじさんは毎朝決まった時間にやって来て、六番の席に座る。
ふふ、私も席番を覚えて来たものだ。この店は自由に席は選べる。四人がけに一人で座るのもありだ。四人席ばかりだから仕方ない。常連さんの席というのもだいたい決まっていて、ジャムおじさんは新聞を読むのに明るい窓際の席を選ぶ。
お店が雰囲気を出すため、照明は光量が抑えられている。そのかわり外壁側は全部窓があるので明るいのだけど。
おっと、ジャムおじさんの話しだったね。頼んだモーニングセットAが運ばれて来るまで、ジャムおじさんが、ジャムおじさんになった理由を回想しよう。
ジャムおじさんの注文は決まっていて今日の私と同じAセットだった。ただ飲み物が私と違いホットティーだ。ティーポットにお湯が入れられて、中に紅茶のティーパックが入っている。だいたいカップ二杯分だ。コーヒーカップもティーカップもカップウォーマーで温められているのは、寒い日など助かる。
ジャムおじさんはトーストにジャムをつけず、そのジャムをなんと紅茶のカップへ入れて美味しそうに飲むのだ。
「これはね、ロシアンティーという飲み方なんだよ。こうするとジャムの甘さで美味しくなるんだよ」
新人の店員さんや、私のようについ興味を惹かれて見てしまう客を見ると嬉しそうに話し出すジャムおじさん。
この頃は私も学生でたいした知識もなくて素直に驚き、感心してしまったものだった。蘊蓄を語り満足そうなジャムおじさんは、それきり黙って喫茶店の風景の中に溶け込む。
あとでロシアンティーがどういうものか調べた私は、ジャムおじさんの知識がどこかで間違って伝わったのだと知る事になる。でも勝ち誇ったジャムおじさんの満足気な顔と、美味そうに紅茶を飲む姿が目に焼き付いて離れなかった。
悔しい事に、この喫茶店に来てモーニングセットAを頼む度にジャムおじさんの顔を思い出してしまう。何より貧乏学生な私には二杯分の紅茶より、おかわり自由のコーヒーを頼んでしまう。
間違っているかもしれない。でもジャムおじさんの粋な姿は、いまも私の心に残り、ジャムを見る度にその姿を懐かしい記憶と共に思い出させてくれる。
私はこの喫茶店が好きだ。みんなそれぞれ癖があるお客さんばかりど。でも、さりげなく新人店員さんにコーヒーのおかわりのタイミングを教えたり、混雑時には早々に席を譲って帰ったりする姿を見て、私もそういう大人になりたいと思うのだった。
□■□■□■□■□■□■□■□■□
◇ ロシアンティーについて補足 ◇
呼び方の通り、ロシア圏の紅茶の飲み方です。砂糖が貴重な頃に、ジャムを舐めながら濃い目の紅茶を飲んだのが始まりだそうですね。間違ってるとは言い難いのが、ウクライナやポーランドではジャムを掬って飲むやり方があるそうです。
またロシアではジャムを入れると紅茶が冷め身体を温められなくなるから入れないと、環境的な理由もあるとの事でした。
2023年現在、戦争中の両国ですが情勢次第では食文化に影響を与える未来もあるかもしれませんね。そうなると作中のジャムおじさんの勘違いが正しくなるやもしれず、主人公の学生さんが何を間違ってるのかわからなくなりそうです。
またイギリスではレモンを浮かべた紅茶をロシアンティーと呼ぶようです。
※ 作中にてジャムおじさんと呼称していますが、某国民的ヒーローの生みの親とは無関係です。
※ 作中の喫茶店は現在も実在します。迷惑が掛かると行けないのでお店の名前は省きました。また、当時より価格、営業時間は変わっています。
公式企画、秋の歴史2023投稿作品となります。一話で読み切れる短編連作形式を取りました。