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鏑の後をついていくと、ほどなくして白衣姿の皆瀬が駆け寄ってきた。
「鏑くん。そっちはどう?」
「探してたのが釣れた。化け物の言ったとおり、コイツが狙いだったみたいだな」
そうなの、と皆瀬は呟いて笑みを浮かべた。
祈は無言でいたが、その理由は以前のやり取りを思い出して萎縮したとかではない。
隣の平沢が、なぜか臨戦態勢だったので触らぬなんとかに……ということで無言を貫いていたのだ。
「ちょっと~、ささみんと探偵だけ引っ張っててさぁ~、うちら放置ってどういうこと? ってかねぇ~、中に入り込まれてるじゃん、なにしてんの?」
「もう、以前も入り込まれているから。その少年が引き寄せている可能性も高いし、もしかしたら今回もと思っただけよ。正解だったでしょ?」
「は? うちら、危なかったんだけど~?」
「それをなんとかするのが、貴方の仕事じゃないかしら?」
「……で、ささみんは、どこよ?」
「笹ヶ峰君は、彼のお目付役でしょう? 当然、ついていったわ」
平沢は「はぁ!?」と大きな声を上げた。
「ささみんまで? 花乃たち放っておいて……もう! なに考えてんの!」
「あらあら、除け者ね?」
「うるさい、おばさん!」
「ふふふ」
噛みつく平沢など意に介した風もなく上品に笑うと、皆瀬は鏑を見た。
いや、正確には彼が抱えている珠緒の体だ。
「じゃあ、それは一応こちらで引き取って――」
――キキ。
祈の耳に、独特な……けれど、どこかで聞いたような笑い声が聞こえたのはその時だ。
「――っ?」
「まっきー? どうしたの?」
祈が周囲を気にし出すと、平沢が目にとめて首を傾げる。
「あら、錫蒔くん。なにを焦ってるの? ここは人払いがされているから、誰も来ないわよ?」
「いや、でも……笑い声が――」
長い廊下には、皆瀬の言うとおり人気がない。
ここだけ隔離された空間のように、静かだ。
些細な音も響くだろう――だけど、あの笑い声を聞いたのは祈ひとりのようで、平沢が不思議そうなのはもちろん、話の腰を折られた鏑に不快そうに睨みつけられる。
「あらまぁ、やっぱり彼みたいな存在といると、神経がやられちゃうのかしら。なにか薬でも出しておきましょうか?」
場を取りなすと言うより、むしろ揶揄するような皆瀬の言葉に祈が首を左右にふれば、元々本気でなかったのだろう皆瀬はあっさり引き下がり、再び鏑との会話に戻った。
「それじゃあ、それはこちらで引き取るわね」
「ああ――」
鏑が頷いた、その時だ。
――キキ。
再び、あの笑い声がした。
今度は平沢たちにも、はっきりと聞こえたようで、三人の顔色が目に見えて変わる。
そして、祈が見ている方へ、全員の視線が集まった。
「引き取りの必要ないよ」
黒板を引っ掻いた不快感――あれを彷彿される笑い声だというのに、廊下を歩いて近づいてくる男は、穏やかな外見をしていた。
(あれ……?)
優しげな面差しは――鏑に似ている。
「それ、もういらないからね」
けれども、鏑は逆立ちしても出せないだろう柔らかい声音で男が不要と断じた瞬間、珠緒の体が突然風船のように膨れ上がった。
慌てて鏑が手を離すが、球体のようにパンパンになった人体はその場でコロリと転がる。
次になにが起きるのか察知した鏑は、いちばん近くにいる皆瀬を庇い自らも頭を下げると、叫んだ。
「伏せろ!」
そして。
「ばーん」
場違いなほど穏やかな声がして――錫蒔 珠緒だったモノが、破裂した。
(――は?)
悲鳴が聞こえる。
誰があげたものか、定かではない。祈自身かもしれないし、他の三人のうち誰かかもしれない。
突然人が爆発したのだから、それは叫ぶだろう――冷静を装った現実逃避に、思考が傾く。
それをダメだと理性で引き戻そうとすれば、もはや中身は別とはいえ、叔母の体がどうなったかという現実を目の当たりにする。
(なん……なんなんだ、これ、なんで……)
ぐるぐるとする思考。
ぐらぐらとする視界。
祈はなんとか呼吸しながら、そちらを見た。
合図を出した、声の主の方を。
「こんにちは」
優しげな顔立ちの男だ。
やはり、鏑に似ている。そう思ったのは祈だけではないようで、平沢が呟いた。
「え……嘘……鏑さんに似てる」
鏑も外見だけは穏やかそうに見えるが、この男は声もそうだ。
全体的に、鏑よりも柔らかく優しげで甘い雰囲気に仕上がっている。
平沢の呟きが聞こえた鏑は、ぐっと顔をしかめて吐き捨てた。
「そりゃ、似てるだろうよ。……兄貴だからな」
「兄……!? 鏑さんのお兄さんって言ったら……うちの創設に関わった人で行方不明になったんじゃ……」
「ああ、そうだな。……それが、こんなとこでなにしてんだよ、兄貴」
鏑が険しい目で睨むが、男はなにも言わずに微笑んでいる。
それが、いっそうの薄気味悪さをかき立てた。
鏑の兄で、平沢や笹ヶ峰が所属する通称トクトクの創設に関わった刑事。
そんな男が突然人を爆発させたのだ、平沢たち二人の刑事はすでに警戒の態勢に入っている。
「キキっ――そんなに怖い顔をしないでくれよ、俺はただやるべきことをしにきただけだ」
「やるべきこと、だと?」
「元はといえば、お前たちが悪いんだぞ? あの死体から情報を取り出して、素直に公園に来てくれればいいのに……二手に分かれたりするから、病院を汚す羽目になった」
その言葉に鏑は表情を悔しげに歪めた。
「くそっ、探偵め……失敗したか……!」
「まったく。お前は実の兄にも情けってものがないね。あの悪食探偵をよこして、楽して綺麗さっぱり事件解決、それで自分の手柄にするつもりだったのか?」
「俺だって、あの悪食探偵が言った時には半信半疑――どっちかっていうと、信じたくなかったよ。あの死体の記憶には、兄貴が残ってる。兄貴が、今爆発させた女の体を変質させて、人間を襲わせたっていう記憶が……!」
「それで?」
「――なにやってんだ! 俺達は、そういう連中を捕まえる側だろう! それなのに、兄貴が今やってることは……まるで、まるで……!」
鏑の顔が初めて辛そうな表情を浮かべた。
けれど、兄と呼ばれた男は逆で正解を褒めるように目尻を下げる。
「人の道を外れてるって? キキキっ! そうだろうよ」
「……兄貴」
「鏑さん! ……ダメだよ、その人……おんなじだよ。混ざってる――」
平沢がガタガタ震えながら目を眇める。
「あり得ないくらい混ざってるのに、まだ――人間だなんて」
「ははは。それはそうだ。俺の力は、さっき爆発四散しちゃったあの女と同じものだから。――引き寄せて、取り込む」
いいながら、男は血だまりに頓着せず足を踏み入れ祈の方へ近づいてきた。
「だから、力に振り回されないようあの女には目をかけてやったんだ。――だって、そうしないと俺の大事な人が迷惑を被るから」
ぴちゃん。
ぴちゃん。
きゅっ。
かつん。
「でも、無駄だった。弱者が力を手に入れれば、急に思い上がる。数にすら入ってない癖に、なにを勘違いしたのか、自分は特別だなんておごって――最後には、とうとう彼女を手にかけた。冗談じゃないと思わないか? こっちは爆弾みたいなお前がいるから、泣く泣く離ればなれになるしかなかったっていうのに。奴に一欠片でも良心があるなんて信じて。奴がダメでも親には情があるって信じて。耐えて、耐えて、耐えて……それなのに、俺は奪われたんだ」
男は祈の前に立った。
誰も動けない。
男の雰囲気に飲まれたように、鏑も平沢も皆瀬も――祈も動けない。
「だからね、この復讐は正当な権利なんだよ」
「復讐……?」
祈の顔をのぞき込む男の目はただひたすら暗い。
じわじわとその顔に文字が浮かんでくる。
「そう。俺から愛するふたりを奪った、復讐」
〝お前を殺したい〟
「錫蒔 珠緒は魂を食われて死んだ。――次は、お前だ」
隠しもしない、開けっ広げな殺意。
独特の笑い声は、キキ、キキ、と祈の神経を引っ掻き、徐々に削り取っていく。
「だから、錫蒔 珠緒の姿をした化け物に惨めったらしく食い殺されて死ぬ未来を用意したのに……まさか、アレを否定することで弱体化されるとは思わなかった。だけど、感謝もしているよ?」
ペラペラと男が喋るものの、その内容を祈は半分も理解出来ない。
ただ、唯一はっきりしているのは、この男が自分を殺したいほど憎んでいるということだけ。
「キキキ! 俺に、直接手を下す機会をくれてありがとう――忌々しい化け物」
優しい笑顔だ。
けれど、その目は氷のように冷たく視線は刃物のように鋭かった。