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うっすらと笑みを浮かべて珠緒は病院の廊下に立っていたが、やがてぺたぺたと素足のままで祈たちの方へ近づいてくる。
(素足?)
その足音は、微かに水気を含んでいる気がして、祈は彼女の足下に視線を滑らせて――目を疑う。
点々と、珠緒の後ろに続いている足跡。
それは、真っ赤な足跡だ。
珠緒の足は、赤い液体で濡れているのだ。
「それ、一体……――むぐっ」
「まっきー、ダメ」
思わず声をかけそうになった祈の口は、平沢の手で塞がれた。
「まっきーは、花乃の後ろにいて」
険しい表情で、平沢は祈の前に立つ。
「平沢さ……」
「しっ! ――止まれ……!」
静かにしろという合図は祈へ、続く鋭い一言は――ふらふらと近づいてくる珠緒へ向けて、平沢が放つ。
彼女は石のブレスレットをつけた腕を前に突き出していた。
じゃらり。
動かした訳でもないのに、大きくブレスレットが音を立てる。
「……やっぱり、人間じゃない……!」
ふらふら、ぺたぺた。
「ええい、もう! 止まれ!」
平沢の制止も聞かず、おぼつかない足どりで歩いていた珠緒は、再度強い声で叫ばれると、力が抜けたかのようにその場に転んだ。
べしゃりと倒れ込んで、そのまま動かなくなった――次の瞬間。
「――キャヒッ」
ぐん、と顔だけを上げて祈たちを見る。
そのまま、珠緒の体は芋虫のような動作で、ぐに、ぐにっと床をはって前進してくる。
「うヒェ、いひっ、あヒェ」
笑い声のような、なにかの鳴き声のような、意味をなさない音を垂れ流し、珠緒が近づいてくる。
その顔色は真っ白で、目はぼんやりとしていて口元はうっすらつり上がったまま。
はってくる、蠢いている。
「大丈夫だよ~、まっきー。花乃が、もう一回、動きを止めるから~。そしたら、まっきーは逃げ」
「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!」
突然、珠緒が大声を上げた。
耳をつんざくような甲高い笑い声――人が出すにはあまりにも異常な音。
祈も平沢も、たまらず耳を塞ぐ。
その時祈は、珠緒と目が合った。
茫洋としていた目を見開き、けたたましく叫ぶその顔、そして体全体に、ブツブツと一気に文字が浮かび上がる。
〝――助けて〟
「っ……」
〝助けて力が抜ける助けて苦しい助けて寒い助けて〟
じんましんのように体中に広がる、文字。
いや、文字の体をして蠢いているのは……。
〝助けて助けて助けて助けて助けて……〟
「だぁ、ず、ゲ、でぇぇぇっ」
「――」
「だぁぁずげでよぉぉぉぉぉ!!!!」
「嘘でしょ……! きゃあっ!」
床をはった珠緒は素早い動きで平沢を突き飛ばし、虫のように四つん這いで祈に飛びかかってきた。
「だっ、す、け、でぇ、いだいのぉ。だずけ、でぇ、さむい、のぉ」
「…………」
祈を床に押し倒して、珠緒は不明瞭な言葉を途切れ途切れに話す。
目を血走らせ――体中に助けてという文字を蠢かせ……だらだらとよだれを垂らす。
その口は、すでに人間のものと違った。
とがった歯が無数に生えていて、喉の奥からは細い管のようなものが伸び出てくる。
このとがった歯で人を噛んで、肉を食いちぎり、その管で血を吸ったのか。
妙に冷静な頭で考える。
(珠ちゃん……)
助けてくれと訴える、声。
助けてくれと求める、文字。
聞こえているし見えている。
見れば、見るほど――求めていることが分かった。
――助けて
そう必死になって蠢くものは、満たされない欲望だ。